第14話 灰がない
灰の壺が空になりましたのは、その四日あとの朝でございました。
壺を傾けて、底の粉を椀へ落としました。椀の底が透けて見えるほどでございます。これで落とせますのは、汗と、泥。それだけでございます。
「灰屋は」
「三軒とも、同じことを申しました」
「組合かい」
「組合でございます」
ドーラさんは桶の水を捨てて、それから空の壺を蹴りました。蹴ってから、拾って戻されました。
「あんた、ここへ来て何日だい」
「二十八日でございます」
「二十八日で堰と灰の両方を止められた女は、あたしは初めて見たよ」
「さようでございますか」
「褒めてないよ」
わたくしは空の壺を洗って、伏せて干しました。使わない道具でも、乾かしておかなければ次に使えません。灰の壺は特に乾かします。湿った壺へ灰を入れますと、底のほうから固まってまいります。
その日の昼に、女の方が一人、包みを抱えて路地を入っていらっしゃいました。
四十の半ばでございましょうか。前掛けに粉がついております。パンを焼く家の方でございました。
「ベルタと申します。……こちらは、落ちないものも見てくださると」
「拝見いたします」
包みから出てまいりましたのは、白い被り布でございました。婚礼のものでございます。畳んだままの形が、そっくり残っております。
「十年、箪笥に入れておりました。わたくしのときのものです。来月、娘が使いますので」
広げますと、折り目に沿って茶色い筋が三本走っておりました。ほかの場所も、白と申すには濁っております。
「日に透かしてもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
筋は折り目の山にだけございました。匂いはいたしません。指の腹で押しますと、筋のところが少し硬うございます。
山は、畳んだときに外へ出るところでございます。外へ出たところは、箪笥の中でも空気に触れます。触れたぶんだけ、脂が色になります。谷のほうは、十年たっても白いままでございました。
「血や、食べ物のものではございません」
「では、何が」
「布に残っていた脂でございます。人の手の脂と、仕立てのときの糊。それが十年かけて色になりました」
「洗って仕舞ったのです。きちんと洗って」
「洗っていらっしゃいます。ですから残りましたのは、目に入ったぶんだけでございます。目に入ったものは、水では出てまいりません」
「……もう、白くはなりませんか」
「なります」
ベルタさんは、包みの紐を握ったままわたくしを見上げました。
「灰汁に一晩浸けて、翌る日、朝から日に当てます。それで戻ります」
「では、お願いを」
「灰がございません」
夕方に、ドーラさんが洗い場の隅へ石を並べはじめました。
「木を集めな」
「ドーラさん」
「灰なんてもんはね、買うもんじゃないよ。焼くんだ」
「焼き方を、教えていただけますか」
「教えるとは言ってないよ。あたしは説明が下手なんだ。見てな」
薪はヨナスさんが運んでまいりました。荷車に一杯でございます。
「工房のぶんを割った端だ。乾いてる」
「助かります」
「礼はいい。組合に止められたのは、うちも同じだ」
「ヨナスさんも」
「うちは六年ぶん溜めてある。三日ごとに替えてると、余るんだよ」
ヨナスさんは荷車を置いて、それきり帰っていかれました。
荷台の底に、割った端が揃えて積んでございました。長さも太さも揃っております。焼くために割った木でございます。あの方は、組合に止められた日のうちに、これを割っていらしたのでございます。
火を熾しましたのは、日が落ちきってからでございます。
昼のうちに焼きますと、風が回って灰が飛びます。夜は風が下へ落ちますので、灰が散りません。ドーラさんは何も仰いませんでしたが、石の並べ方が、風を切る向きになっておりました。
ドーラさんは、木を三つの束に分けておいででした。初めてこの町へ参りました晩に見たのと、同じ分け方でございます。
「三つ混ぜるのは、なんでだと思う」
「一つでは足りないものがあるからでございましょうか」
「あんた、樫だけで焼いたことがあるかい」
「ございます。屋敷では樫と楢を使っておりました」
「強いだろ」
「強うございます。白は上がりますが、麻の古いものですと糸が痩せます」
「そうだ。だから柔らかいのを混ぜる。柴を入れると火が高く上がる。火が高いと、灰が細かくなる」
「細かい灰は」
「上澄みが澄む。濁った上澄みで白を上げるとね、白がぼんやりするんだよ」
ドーラさんは、火掻き棒で炭を寄せられました。
「もう一つは」
「水に浸けたやつかい」
「はい。二日ほど浸けて、それから乾かしていらっしゃいました」
「よく見てるね」
「気になっておりました」
「浸けると、木の中の脂と渋が出ていく。脂の残った灰で白を上げると、目には見えないくらい濁る。でもね、並べると分かる」
「並べると」
「一枚だけ違う白になる」
わたくしは火を見ておりました。
「その一枚を、たいていの方は気になさいません」
「気にするやつが、この商売をやるんだ」
火は、そこから四刻ほど燃えておりました。
途中で二度、灰の色を見ました。白すぎるものは焼きすぎでございます。焼きすぎた灰は上澄みが強くなりすぎて、古い麻を食います。灰色が残っているうちに落とすのが良うございます。
火は一晩かけて落としました。
夜半に一度、灰を掻き寄せて、その上へ木を足します。一度に焼きますと灰が荒れます。荒れた灰の上澄みは、脂を落としますが糸も食います。
朝の四つ前に、灰が上がりました。指で摘まみますと、粉が指紋の溝へ入るほど細うございます。
水を張って、灰を入れて、一刻置きました。上澄みは澄んでおりました。底を揺らさぬように、椀で掬い取ります。
被り布を沈めました。押さえて、空気を抜いて、沈めたままにいたします。
「一晩かい」
「一晩でございます」
「朝が早いよ」
「はい」
翌朝は、雲がございませんでした。
布を引き上げて、三度すすぎ、絞らずに綱へ掛けました。日が高くなるにつれて、折り目の筋が薄れてまいります。抜けるのではなく、薄れるのでございます。灰と日は、そういう落とし方をいたします。
わたくしは半刻に一度、布の向きを変えました。日は真上からよりも、斜めから当てたほうがよく抜けます。斜めから当てますと、糸の一本一本に影ができて、影の側へも光が回ります。
昼過ぎに、ベルタさんが参りました。
綱の前で足を止めて、そのまま動かれませんでした。
「これは」
「落ちました」
「……買ったときの色でございます」
「はい」
「十年前に、店で見たときの」
ベルタさんは布へ触れようとして、手を止めて、前掛けで指を拭いてから触れました。
「娘は、この筋を見て、新しいのを買ってくれと申しておりました」
「さようでございますか」
「わたくしは、仕舞い方を間違えたのだと思っておりました」
「間違えてはいらっしゃいません。仕舞う前に、目まで洗えばよかっただけでございます」
ベルタさんは、しばらく綱の下におられました。
銅貨を四枚置いていかれました。三枚と申し上げたのでございますが、一枚は灰の代だと仰います。灰は焼いたものでございますから、代はございません。そう申し上げましたら、笑って帰っていかれました。
夕方、ドーラさんが火の跡を均しておいででした。
「ドーラさん」
「なんだい」
「昨夜の割合でございますが」
「なんだい」
「わたくしの母も、樫と、柴と、もう一つ、水に浸けた木を使っておりました。わたくしは十三でございましたので、三つ目が何の木かを覚えておりません」
ドーラさんは、灰を均す手を止めませんでした。
「桑だよ」
「桑」
「実のなる木は、灰が柔らかい」
「……はい」
「あんたの母さんの名は」
「レナと申します」
ドーラさんは、火掻き棒を石へ立てかけられました。それから、井戸のほうをご覧になりました。
「井戸が下がってるだろう」
「三日前から、二尺ほど」
「堰を締められると、四日で井戸に来る。あの井戸の水は、堰の水が地面を通って来てるからね。組合が水を握ってるってのは、そういうことだよ」
「はい」
「あたしはこの洗い場を四十年やってる。ここで灰を焼いてたのは、あたしだけじゃない」
「ドーラさん」
「あんたの母さんも、ここで灰を焼いてた」
【落ちました】
灰は買うものではなく、焼けるものでございました。教えてくださったのは、この洗い場に四十年いる方でございます。そして、母もここで灰を焼いていたそうでございます。
第二章「白いものが黄ばむ」は、ここまで。次回、三日のちに、洗い場の前へこの町のものではない馬車が停まります。紋は、侯爵家のものではございません。降りてこられるのは、王家の女官でございます。
ブックマークと評価は、灰を焼く薪に足させていただきます。




