第15話 王家の女官
組合の触れが回りましたのは、灰を焼いた三日あとでございました。
あの女に流しを貸す洗い場には、灰を売らない。堰の水も、そのぶんだけ細くする。——そう書いた紙が、灰屋の戸口と、共同洗い場の柱と、路地の角に貼られました。
貼りに来たのは組合の若い衆で、貼り終えてから、わたくしに一度だけ頭を下げていかれました。
紙は三枚とも、同じ手で書かれておりました。字の癖が同じでございます。人にやらせない方でございました。
ドーラさんの洗い場は、この町でいちばん灰を使います。流しが二十ございますので、三日で一壺が空になります。
「読んだかい」
「読みました」
「破ろうか」
「なりません。破りますと、貼りに来た方が叱られます」
「あんたはそういうことばかり言うね」
朝の流しは、半分が空いておりました。
ザーシャさんは、三日前までわたくしに桶を回してくださっていた方でございます。子が四人おいでで、いちばん下がまだ歩きません。
「……ごめんよ」
「いいえ」
「うちは、灰がないと明日から洗えないんだ」
「存じております」
「あんたが悪いんじゃない。悪くないけどさ」
「桶は、あちらへお回しください」
「あんた、怒らないのかい」
「はい」
「怒鳴ってくれたら、まだ言い返せるんだけどね」
ザーシャさんは桶を持って、三つ向こうの流しへ行かれました。
その日、わたくしの流しの前には誰も参りませんでした。この町へ参りました最初の日と、同じでございます。違いますのは、あのときは知られていなかったからで、今は知られているからでございます。
わたくしは自分の流しを洗いました。使わない日でも洗っておきませんと、石に匂いがつきます。
石は水を吸います。吸ったものは、乾くときに表へ出てまいります。人の使わなくなった洗い場がいちばん早く傷むのは、そのためでございます。
馬車が停まりましたのは、その日の昼前でございます。
灰汁町の路地に馬車は入りません。轍の幅が合わないからでございます。それが、共同洗い場の前まで来ておりました。
泥の跳ねた車輪でございました。扉には紋がございます。布を扱う者は紋を覚えます。洗うときに、そこだけ手を変えますので。
二頭立てでございました。轅の塗りが剥げております。城の外へ出す馬車は、目立たないものをお選びになるのでございましょう。
降りてこられたのは、灰色の外套の女の方でございました。三十の半ばほど。供が二人、後ろに立っております。
外套の裾が泥に触れましたが、直そうとはなさいませんでした。
髪は隙間なく上げてございます。爪が短うございました。指の背に、湯へ長く入る者の皺がございます。この方は、見ているだけの方ではございません。
「エルナ・リント様でいらっしゃいますか」
「エルナと申します」
「王家の洗濯場に仕えております。ハルトヴィヒと申します」
洗い場の女の方々が、手を止めておいででした。ドーラさんが桶を置く音がいたしました。
「こちらでは、落ちない染みも承ると伺いました」
「そう伝わっているようでございます」
「では、見ていただきたいものがございます」
ハルトヴィヒ様は、懐から油紙の包みを出されました。手の上で開かれますと、白麻の切れ端が一枚。指二本ほどの大きさで、縁が鋏で断ってございます。
「本体は」
「持ち出せませぬ。城の外へ出せる布ではございませんので」
「では、これは」
「角を、一寸だけ切りました」
「切ってよろしいものでございますか」
「よろしくございません」
ハルトヴィヒ様は、それだけ仰いました。
「洗濯場の主任様には」
「ゲルダと申します。三十年、あの場を見ております。……この件は、通しておりませぬ」
「さようでございますか」
わたくしは切れ端を受け取りました。
日に透かします。染みは切れ端の三分の一ほどを覆っておりました。灰色でございます。ただの灰色ではなく、縁のところに輪が二重にございました。
匂いを嗅ぎました。何もいたしません。洗い流されております。
布そのものは上等でございました。糸が細く、目が詰んでおります。これだけの白麻は、王都で織られたものではないかと存じます。
染みは、表よりも裏のほうが濃うございました。上から掛かったものではなく、下から染み上がったものでございます。
「見せてくれ」
ヨナスさんが、いつのまにか後ろに立っておいででした。供の方が身を寄せかけて、ハルトヴィヒ様が手で止められました。
「そちらは」
「染屋でございます」
ヨナスさんは切れ端を光にかざして、爪の先で糸を起こしました。
「媒染だ」
「媒染と申しますと」
「色を布に食いつかせる薬がある。鉄でも、酢でも、灰でもいい。それを先に入れてから染めると、色が抜けなくなる」
「これは染めではございません」
「分かってる。だが、後から入ってる」
ヨナスさんは切れ端をわたくしへ返して、一歩下がられました。
「わたくしも、同じことを申し上げるところでございました」
「では、お分かりに」
「二度、落とそうとなさっております」
「……二度」
「輪が二重にございます。外の輪が古く、内の輪が新しゅうございます。一度目で、この染みは小さくなりました。二度目に、何かをお使いになりました。強いものでございます」
「洗濯場では、白いものには何でも使います」
「その強いものが、染みを布へ留めました。留まったものは、上からいくら当てても動きません。当てるほど深くなります」
「……では」
「落ちません」
ハルトヴィヒ様は、瞬きを一つなさいました。供の方が何か仰いかけて、おやめになりました。
「今のままでは落ちません、と申し上げております」
「違いますのか」
「留めているものを先に外さなければ、染みには手が届きません。外せるかどうかは、この一寸では分かりかねます」
「本体をご覧になれば、お分かりになりますか」
「分かるかもしれません。分からないかもしれません」
「……正直でいらっしゃいますね」
「同じ染みは、二度ございませんので」
ハルトヴィヒ様は、切れ端を油紙へ戻されました。畳み方が丁寧でございました。布を毎日扱う方の手つきでございます。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「王城の洗い場に、帳はございますか」
「帳、と仰いますと」
「いつ、どの布の、何の染みを、どうやって落としたか。それだけを書いたものでございます」
ハルトヴィヒ様は、そこで初めて目を大きくなさいました。
「ございます。洗い場の帳と申します」
「さようでございますか」
「……なぜ、ご存じで」
「わたくしも、七年つけておりました」
「古いものは地下に積んでございます。焼かずに残しております。三十年ぶんは下りませぬ」
「三十年」
「読む者はおりませぬ。読み方を知る者がおりませんので」
わたくしの帳は、七年で厚みが指三本でございます。三十年ぶんとなりますと、部屋が要ります。
わたくしは、そのことについては何も申し上げませんでした。
「エルナ様」
「はい」
「城まで、おいでいただけませんでしょうか」
「伺います」
「……報酬の話を、まだいたしておりませぬ」
「布を拝見してからで結構でございます。落ちませんでしたら、いただきません」
「そのように仰る方は、久しゅうございます」
ドーラさんが、桶を抱えたまま立っておいででした。ザーシャさんも、三つ向こうの流しからこちらをご覧になっております。
誰も手を動かしておられません。組合の紙は、まだ柱に貼ってございます。その前に、紋の付いた馬車が停まっております。
どちらが先に剥がれるかは、まだ分かりません。
ハルトヴィヒ様は外套の襟を直して、それから、思い出したように仰いました。
「一つ、申し上げておかねばならぬことがございます」
「はい」
「あの染みが見つかりましたのは、去年の秋でございます」
「はい」
「城の洗い場では落ちませんでした。王都の職人も、染物の者も、みな見て、みな帰りました」
「さようでございますか」
「けれど」
ハルトヴィヒ様は、泥の上に立ったまま、こちらをまっすぐにご覧になりました。
「十二年前にも、同じ染みを落とせた者がおりました」
【落ちません】
十二年前にも、同じ染みを落とせた者がおりました。——王城から来られた方が、帰り際に置いていかれた一行でございます。母への糸が、上のほうから伸びてまいりました。
次回、王城の白布を見ます。格式に気圧される場面は書きません。エルナは布しか見ておりませんので。
評価の☆は、王城までの半日を歩く足代にいたします。




