第16話 王城の白
王城へ上がる前に、ハルトヴィヒ様はわたくしの身なりを三度ご覧になりました。
三度目に、諦めた顔をなさいました。
「……そのままでよろしゅうございます。洗い場から先へは、どなたもお通りになりませんので」
「助かります」
「爪だけは、お確かめいただけますか」
「短くしてございます。伸びておりますと、布に引っかかりますので」
ハルトヴィヒ様は口を開きかけて、それからお閉じになりました。
城の門をくぐりますと、石畳が乾いておりました。手入れの行き届いた乾き方でございます。掃いたあとに水を撒いて、乾かしてから人を通す。そういう順で世話をされた石でございました。
回廊を三つ折れて、階を二度下りました。洗濯場は地の下にございます。どこの家でもそうでございますが、王城のそれは天井が高うございました。
「石の流しが二十四、桶が八十ほど。湯の口が四つ。……よい洗い場でございます」
「数えていらっしゃるのですか」
「はい」
「みなさま、まず天井をご覧になりますが」
「湯気は上へ抜けますので、天井が高いのは当たり前でございます。見るのは流しの並びでございます」
「並び」
「水の落ち口からいちばん遠いところに、白いものが積んでございました。逆でございます。白は、いちばん水の良いところで洗うものでございます」
ハルトヴィヒ様は、白の積んである棚のほうを長くご覧になっておいででした。
湯の口から落ちる水を、手の甲で受けました。柔らこうございます。石の少ない水でございました。灰汁町の水とはまるで別のもので、この水でしたら、白は白のまま上がります。
白は水で決まります。腕ではございません。腕というものは、水の悪いところでどれだけ粘れるかにしか出ないものでございます。
洗濯場には十人ほどおいででした。みなさま、こちらを見ないようにして見ていらっしゃいます。灰汁町の洗い場と同じでございました。人は、どこでも同じように人を見ます。
その方々のお使いになる棒は、握りの減りが上のほうへ寄っておりました。低い位置から短く打つ打ち方でございます。水が柔らかい土地の打ち方でございました。灰汁町では、みなさま高いところから落とします。同じ道具でも、水が違えば減る場所が違います。
湯の口のそばに、痩せた娘が立っておりました。十七か、そのくらいでございましょうか。前掛けの紐を二重に巻いていらっしゃいます。手が小さいのに、桶が大きいのでございました。
「イルゼでございます。この者をお付けいたします」
「イルゼさん。桶は、腰で持つとよろしゅうございます」
「……はい」
「肘で持ちますと、半年で肘が鳴るようになります。鳴りはじめますと、湯の桶が持てなくなります」
イルゼさんは自分の肘を見て、それから桶を置き直されました。
奥の棚から、麻の包みが出てまいりました。
開きますと、白布が一枚。二尺四方ほどの、目の詰んだ麻でございます。中央に黒いものが広がっておりました。掌よりひと回り大きく、縁が波打っております。刷毛で塗ったものではございません。何かを注いで、それから押し広げてございます。
布の目を数えました。一寸に十六でございます。王城の麻としては、上のほうではございません。縁は丸くなって毛羽が寝ておりました。何度も洗われた布がこうなります。
飾りの布ではなく、使われていた布でございました。使われていた布が、使われなくなって棚へ入ったのでございます。
「王城の洗濯場では、受け渡しを布に書きつけます。羊皮紙は高うございますし、湯気で波打ちますので」
「布でしたら、洗えば消えますね」
「消える墨を使います。使い終えれば洗って、また書きます。……ところが、この一枚だけが消えません」
「いつからのものでございましょう」
「わたくしが参りましたときには、もう棚にございました。あの棚は、開けてはならぬことになっております」
イルゼさんが、小さな声で仰いました。
「あの棚のものは、十二年より古いのだと教わりました」
ハルトヴィヒ様がイルゼさんをご覧になりました。イルゼさんは口を閉じられました。
わたくしは布を透かしました。地の下でございますから、日ではなく、湯の口の上の小窓でございます。
それから、鼻を近づけました。
「膠がございます。それから、鉄」
「鉄」
「錆に似た匂いでございます。ごく薄うございますが、湯気を吸っておりますので、かえって立っております」
指の腹で押しました。中央は硬く、縁はわずかに柔らこうございます。塗ったものが乾ききる前に、何かで上から押さえた跡でございました。
「イルゼさん。湯を一杯いただけますか。熱くないものを」
「熱くない、と申しますと」
「手を入れて、五つ数えていられるくらいでございます」
綿を一枚、布の下に敷きました。上から、ぬるい湯を含ませた綿を当てて、押します。擦りません。擦りますと、糸のあいだへ入ります。入ったものは、もう出てまいりません。
三度目の綿に、薄い黒が移りました。
「落ちますね」
「上のほうは落ちます」
「上」
「墨は二つございます。煤の墨と、鉄の墨。この布には、両方がのっております」
ハルトヴィヒ様が、布の上へ屈まれました。
「二つ、見分けがつくのでございますか」
「煤の墨は、膠で貼りついているだけでございます。粒が糸のあいだに挟まっております。ですから、膠を緩めてやりますと、下へ落ちます」
「鉄のほうは」
「糸そのものの色を変えてしまいます。のっているのではなく、変わっているのでございます。変わったものは、戻りません」
階の上から、履物の音がいたしました。
黒い上着の方が下りていらっしゃいました。四十の手前でございましょうか。指の第二関節が墨で汚れております。書き物を毎日なさる方の汚れ方でございました。
「洗い女を城へ入れたと聞いたが」
「マティアス様。記録方でいらっしゃいます」
「布の一枚に、いつまで人を使う。焼いてしまえばよいものを」
「焼くことはできません。棚のものでございますから」
「棚など、誰が見る」
わたくしは布を見ておりました。中央の黒の、下のほうに、ごくわずかな段がございます。塗った墨の厚みが、そこだけ変わっているのでございました。
「おい。聞いておるのか」
「はい。……この布は、どちらに置かれておりましたか」
「わたしに聞くな」
「湿りが少のうございます。ずっと乾いた場所にあったものでございます。濡れた棚でしたら、膠がとうに腐っております」
マティアス様は何か仰いかけて、それから階を上っていかれました。履物の音が、下りてきたときより速うございました。
イルゼさんは、桶を抱えたまま動かずにおいででした。前掛けの紐を握っていらっしゃいます。あの握り方には、見覚えがございました。侯爵家の通用門まで送ってくれた娘も、同じところを同じように握っておりました。
「……申し訳ございません」
「よくあることでございます」
「よく」
「洗い場は、家のいちばん下にございますので。上から人が下りてまいります」
ハルトヴィヒ様は、しばらく布をご覧になっておいででした。
「主任のゲルダ様は、この十日ほど城を離れておいでです。お戻りになる前に、この一枚の始末をつけておきたいのでございます」
「さようでございますか」
「落ちますか」
「煤は落ちます。半日で済むか、二日かかるかは、乾き方によります」
「では、落としてくださいまし」
「本日は、いたしません」
ハルトヴィヒ様が顔を上げられました。
「落ちるものを、落とさないと仰いますか」
「落としますと、下から出るものがございます」
「下」
「鉄の墨は、糸そのものが変わっております。上から何を塗りましても、消えません。ですから、下に残ります」
わたくしは布の中央を、指の腹でもう一度押しました。段のあるところでございます。
「この布には、字が書いてございます。書いた上から、煤の墨を塗ってございます」
ハルトヴィヒ様は布を見て、それからわたくしをご覧になりました。
「……何と書いてあるのです」
「存じません。落としてからでなければ、読めません」
「では、なぜ本日はなさらないのです」
「読めるものを、読める形にいたしますので。どなたにお見せするかを、先にお決めくださいませ。それは、わたくしの決めることではございません」
湯の口が、低く鳴っておりました。イルゼさんが桶を抱えたまま、こちらをご覧になっております。
「ハルトヴィヒ様」
「はい」
「これは、消そうとして失敗した染みでございます」
【落としません】
鉄の墨は糸そのものを変えますので、上から何を塗っても消えません。消そうとした跡は、消そうとしたことのほうが残ります。染みが隠蔽の痕跡になりますのは、そのためでございます。
次回、落とします。ただし、落とした、とは申しません。




