第17話 落とした、と言わないこと
翌朝、ハルトヴィヒ様はお決めになりました。
「この布を見るのは、わたくしと、あなたと、イルゼの三人でございます」
「よろしいのですか」
「よろしくはございません。ですが、決めよと仰ったのはあなたでございます」
「はい」
「決めましたので、落としてくださいまし」
前の晩は、洗濯場の隣の乾き部屋に寝床をいただきました。天井から縄が下がって、湿ったものを吊るしておく部屋でございます。人の寝る場所ではございませんが、乾いております。
紙も布も、乾いた場所でしか眠れません。わたくしもそうでございます。
洗濯場のいちばん端の流しをお借りしました。水の落ち口から遠い、白にはいちばん向かない場所でございます。
わたくしが落とすのは白ではなく、白の上にのっているものでございますから、そこでよろしいのでございました。
「イルゼさん。湯を四つの桶に分けてくださいませ。熱いものから、ぬるいものへ」
「熱いのは使わないと伺いましたが」
「使いません。ですが、置いておきますと、冷めていく途中の湯がいつでも取れます。湯を沸かしに立つ回数が減ります」
「……立つ回数」
「布を置いて席を離れますと、そのあいだに乾きます。乾いたところと湿ったところの境に、輪が出ます」
イルゼさんは桶を四つ並べて、それから一つずつ手を入れて確かめておいででした。指ではなく、手の甲でお確かめになります。誰かに教わった確かめ方でございました。
綿を布の下に敷き、上からぬるい湯を含ませた綿を当てて、押します。
押して、待つ。綿を替える。押して、待つ。
黒は、いっぺんには動きません。膠が緩むのに時間が要ります。緩んだところから煤の粒が下へ落ちて、綿へ移ります。移した先が白ければ、何が出てきたのかが見えます。
「あの」
「はい」
「もっと強く押しては、いけませんか。そのほうが早いように思うのですが」
「早く落ちたものは、早く戻ります」
「戻る」
「強く押しますと、粒が横へ逃げます。逃げた先で止まって、乾いてから浮いてまいります。三日ほどして、落としたはずの縁がうっすら黒くなるのはそれでございます」
「……見たことがございます」
「みなさま、一度は見ていらっしゃいます」
綿を替える手を、イルゼさんが覚えてくださいました。二十枚目からは、こちらが手を出す前に新しいものが出てまいります。
湯を替える。綿を替える。押して、待つ。布を裏返して、敷き直す。縁から中へ。中から縁へは決していたしません。
半刻ごとに、布の湿り方が変わってまいります。乾きかけますと、押しても綿が受け取りません。そのたびにぬるい湯を足して、また待ちます。待っている時間のほうが、押している時間よりずっと長うございます。
昼を回りますと、ほかの流しの方々が一人ずつ、こちらの端まで水を汲みにおいでになりました。湯の口は四つございますから、端まで来る必要はございません。灰汁町の女の方々と、同じ回り方でございました。
半日で、黒は三分の一ほど薄くなりました。
夕方に、ハルトヴィヒ様が階を下りていらっしゃいました。手に書付の板をお持ちでございます。
「終わりましたら、記録方へ届けねばなりません。いつ、誰が、何をしたか」
「さようでございますか」
「マティアス様のところでございます。……あなたのお名前が残ります」
「はい」
「良いことでございます。王城の落ちない布を落とした者として残ります。……ですが、良いことばかりでもございません」
ハルトヴィヒ様は、板の縁を指で撫でておいででした。
「城の記録は、写しが組合へ回ります。晒し組合へも」
「存じております」
「ご存じで、まだお続けになるのですか」
「布はもう半分ほど落ちております。半分で止めますと、境に輪が出ます」
ハルトヴィヒ様は少し笑われました。笑ってから、笑ったご自分に驚いた顔をなさいました。
二日目の昼過ぎに、綿が白いまま上がってまいりました。
わたくしは布を水に沈めて、二度すすぎ、絞らずに広げました。絞りますと、糸の目に残ったものが戻ります。
黒のあった場所に、細い字が並んでおりました。
薄い茶でございます。鉄の墨は、年を経ますと茶へ寄ります。
字は、右上から左下へ、わずかに傾いで並んでおりました。急いだ傾ぎではございません。坐らずに、卓の縁で書いた傾ぎでございます。洗い場では坐って書く時間がございませんので、書く者はみなこうなります。
「落ちました」
「……字でございます」
「はい」
「読めるのでございますか」
「読めます。ただ、わたくしは布のことしか存じませんので、お読みになるのはハルトヴィヒ様でございます」
ハルトヴィヒ様は布の前に膝をつかれました。イルゼさんは桶を抱えたまま、動かずにおいででした。
「受け渡しの覚えでございます。白布、二十四枚。卓布、六枚。手拭き、四十。……ここまでは、いつもの書き方でございます」
「日付はございますか」
「ございます。……十二年前の、秋でございます」
湯の口の音が、変わらずに続いておりました。
「最後の行だけが、数ではございません」
「何と」
「——返らず、と」
わたくしは布を透かして、墨の厚みの残りを見ました。落としたあとには、塗った厚みの跡が凹凸で残ります。
「塗った墨がいちばん厚うございましたのは、その行の上でございます。ほかは、ついでに塗ってございます」
「ついで」
「一行だけ黒くいたしますと、そこだけを見られます。全部を黒くしますと、布が汚れただけに見えます」
ハルトヴィヒ様は、しばらく最後の行をご覧になっておいででした。
「わたくしがこの洗濯場に参りましたのは九年前でございます。この手は、存じません」
「さようでございますか」
「お尋ねにならないのですね。誰が書いたのかとか、何が返らなかったのかとか」
「わたくしが承りましたのは、この布だけでございます」
ハルトヴィヒ様は布を畳もうとなさって、それから手を止められました。
「では、記録方へは何と届けましょう」
「布が落ちた、とだけ」
「落とした者は」
「書かないでくださいまし」
ハルトヴィヒ様が顔を上げられました。
「なぜでございます。これはあなたの功でございます」
「功ではございません。仕事でございます。仕事は、済めば終わります」
「……それでは、誰もあなたを知りません」
「布が落ちたことだけが本当でございます。誰が落としたかは、布には要りませんので」
ハルトヴィヒ様は板を胸に抱えたまま、動かれませんでした。
「それに、この字を消したかった方が、どこかにいらっしゃいます」
「……はい」
「その方は、まだ消したいままでいらっしゃると存じます。名がなければ、消すものがございません」
「……名がなければ」
「はい」
ハルトヴィヒ様は板に何か書いて、それから一行を削られました。削った跡を指で撫でて、また書かれました。
削って書き直したものは、あとから見れば分かります。そこだけ字が沈みます。ご存じの上で削られたのだと思いました。
「布一枚、落ちたること。以上でございます」
「ありがとうございます」
「礼を申すのはこちらでございます。……エルナ様。わたくしは、覚えております」
「はい」
「城の記録には残りませんが、わたくしが覚えております。それは、消えません」
銭のお話になりました。
「銅貨で、三枚いただきます」
「……三枚」
「布の大きさと、手間で決めております」
「王城の布でございますよ」
「大きさは、二尺四方でございます」
ハルトヴィヒ様はしばらく黙って、それから財布ではなく、袖から紙包みをお出しになりました。中を見ないでくださいまし、と仰いました。見ないまま、懐へ入れました。
イルゼさんが、通用の階まで送ってくださいました。
「あの、湯の桶は、腰で持つのでございましたね」
「はい」
「もう一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「落ちないものを落ちないと申し上げると、叱られます。それでも、申し上げるものでしょうか」
わたくしは少し考えました。
「落ちるものと落ちないものを分けるのが、わたくしどもの仕事でございます。落とすのは、その後でございます」
「……はい」
「イルゼさん。桶に手を入れるとき、甲でお確かめですね」
「はい。指は、湯を持ってしまいますので」
「どなたに教わりましたか」
「棚の帳面に、そう書いてございました。字は、もう薄うございますが」
紙包みは、思ったより軽うございました。銀貨でしたら、あの重さにはなりません。
王城から灰汁町までは、歩いて半日でございます。馬車は坂の上までで、その先は道が湿っておりますので、荷は人が担ぎます。
途中の橋のたもとで、干し物を見ました。この町の白は、どれも同じところが黄ばんでおります。襟と、脇と、裾の折り返し。人の脂が溜まる場所でございます。
灰汁町へ戻りましたのは、三日目の夕方でございました。
坂を下りきったところで、匂いが違いました。
灰の匂いが、いつもより濃うございます。濃いのではなく、散っているのでございました。壺の中の灰は匂いません。壺から出て、水を吸うと匂います。
共同洗い場の桶が、路地まで転がっておりました。
【落ちました】
功を主張しない、という選び方でございます。報告書に書かなければ、誰の手柄でもなくなります。エルナはそれで構いません。困りますのは、いつも別の方でございます。
次回、灰汁町へ戻りますと、洗い場が荒らされております。そのあとに、訴状が届きます。




