↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/38

第18話 訴えられました

石の流しが四つ、割れておりました。


 桶は十四のうち、九つ。残りは路地まで転がって、二つは底が抜けております。壁際の灰の壺が倒れて、灰が水路のほうへ長く流れておりました。


 干し綱は切れておりません。切るには刃が要りますが、外すだけなら足で足ります。外して落として、その上を歩いてございました。


 ドーラさんは割れた流しの前に立って、割れ口をご覧になっておいででした。


「あんた、帰ってきたのかい」


「はい」


「三日だね。留守にしたのは」


「はい」


「三日でこうなるんだよ」


 ドーラさんは灰の跡を踵で寄せて、それからおやめになりました。寄せても戻らないものでございます。


 流れた灰は戻りません。焼くには木が要ります。日に干して、順に燃やして、三日おいて、ようやく使えるようになります。


 ドーラさんのところには、そうやって溜めたものが半年ぶんございました。半年ぶんが、一晩でございます。


 物置の階を上りました。藁束が崩されて、脚の折れた台が横に倒れております。


 麻の包みは、崩れた藁の下にございました。表紙が湿っております。頁の小口に、指の脂が二つ付いておりました。誰かが手に取って、開いて、それから戻したのでございます。


 わたくしは包みを腹に抱えて、階を下りました。紙は湿りますと、縁から波打ちます。


 井戸の縁に、子供が一人坐っておりました。井戸番の孫のエミルでございます。十ほどの子で、いつも水の順番を数えております。


「ねえさん」


「エミル。夜に、誰かおりましたか」


「いた。三人」


「顔は」


「見てない。布をかぶってた。頭から」


「そう」


「荷車が、上のほうへ帰ってった」


「上」


「堰の道。あっちは、うちの町の道じゃない」


 わたくしは、それ以上伺いませんでした。子供に見たこと以上を言わせますと、次に聞かれたときには、言ったことのほうを覚えております。


「エミル。よく覚えていてくださいました」


「怒らないの」


「割れた桶は、怒っても直りません」


 路地の向こうから、青い手が上がりました。


「よう。城帰りだ」


「ヨナスさん」


「留守のあいだに人気者になってたぞ、あんた。王城が下町の洗い女を呼んだって話が、二日で町を三周した」


「さようでございますか」


「三周目には、あんた王妃様の寝間着を洗ったことになってた」


「洗っておりません」


「知ってる」


 ヨナスさんは割れた流しの縁を蹴って、それから壺の倒れた跡をご覧になりました。


「灰を流していったのが、いちばん性が悪い」


「はい」


「桶は買える。灰は買えない」


 ドーラさんが、奥から布の包みを出してこられました。


 藍の掛け布でございます。嫁入りに持たせるもので、四尺に六尺ほど。ヨナスさんのお宅で染めたものでございました。


 その上に、黒いものが塗ってございます。


「昨日の朝、預かったばかりだよ。娘のほうの婚礼は来月だ」


「拝見いたします」


 広げますと、黒は端から端まで、細く長く走っておりました。刷毛ではございません。何かに浸した布を、引きずってございます。


 鼻を近づけました。膠の匂いがいたします。それから、焼けた煤の匂いも。


「王城のものと、同じでございます」


「城の?」


「膠に煤を練ったものでございます。……ただ、珍しいものではございません。刷毛屋でも、判屋でも使います。この町でも、買えるところが二軒ございます」


「……そうかい」


 この掛け布は、染めたばかりのものではございません。一度水を通して、色を落ち着かせてございます。


 落ち着いた藍は、上から何かがのりますと、のった側だけが浮きます。この黒は浮いておりません。沈んでおります。沈むまで叩いたということでございました。


 指の腹で押しました。硬うございます。乾ききって、なお硬い。


 布を裏返しますと、裏側にまで黒が抜けておりました。塗ったあとで、上から叩いてございます。叩けば、練ったものが糸の芯まで入ります。


「ヨナスさん」


「——で、落ちるのか」


「落ちません」


「即答だな」


「塗ってから、叩いてございます。糸の芯まで入っておりますので、上から落とす道がございません。膠を緩めましても、緩んだ先が藍でございます。煤と藍を分ける手が、わたくしにはございません」


「藍だからか」


「藍でなければ、下の白へ移して見分けがつきます。色の上にのった黒は、見分けがつきません」


 ドーラさんが、包み紙を握って離されました。


「弁償だね。あたしが預かったんだから、あたしが」


「ドーラさん」


「なんだい」


「ヨナスさんに伺ってからでも遅くはございません」


 ヨナスさんは掛け布を持ち上げて、光のほうへ透かしておいででした。


「濃紺に振る」


「ヨナスさん」


「藍は黒を呑む。もう一度、いや二度入れて、うんと濃いほうへ持っていく。黒の筋は沈む。全部は消えないが、模様に見える」


「嫁入りのを濃紺にして、文句を言われないのかい」


「言われたら、こっちの流行だって言う」


「あんた、それで通ったことがあるのかい」


「三回ある」


 ドーラさんが、初めて笑われました。


 わたくしは掛け布をヨナスさんへお渡しいたしました。落ちないものを落ちないと申し上げるところまでが、わたくしの仕事でございます。その先は、染める方の仕事でございました。


 昼を過ぎてから、路地の入口に馬が一頭止まりました。


 馬で灰汁町へおいでになる方は、めったにいらっしゃいません。道が湿っておりますので、蹄が沈みます。沈む道へ馬を入れる方は、この町に用のない方でございます。


 降りてこられたのは、鼠色の上着の方でございました。四十ほど。鞄を胸に抱えていらっしゃいます。抱え方が悪うございました。あの持ち方をいたしますと、中の紙に折り癖がつきます。


「エルナ・リント殿はこちらか」


「エルナでございます」


「ヴェクセルと申す。王都の代訴人だ」


 その方は洗い場の割れた流しを一度ご覧になって、それから鞄を開かれました。


「ヴァルデン侯爵ユリウス様より、訴えが出ておる」


「さようでございますか」


「離縁の後、当家の布を毀損したること。読み上げるゆえ、聞かれよ」


 紙が広げられました。厚い紙でございます。湿ると波打つ紙で、灰汁町では使いません。


 洗い場の女の方々が、手をお止めになりました。止めて、こちらを見ないようにして見ていらっしゃいます。訴状の読み上げは、遠くまで通ります。通るように書いてあるのでございました。


「一、白布十七枚。離縁の後ひと月のうちに、使用に堪えざるに至れり」


「はい」


「一、卓布六枚。同じく黄変せり」


「はい」


「一、侯爵礼装一領。襟に椿油および白粉の染みを残したるまま、処置せずして去れり」


 ドーラさんの手が、木を持ったまま止まりました。


 ヨナスさんは掛け布を抱えたまま、こちらをご覧になっております。


 襟の染みでございました。


 ぬるい湯と、綿が三枚。半刻あれば足りるものでございます。


 わたくしは、ヴェクセル様の手元を見ておりました。紙の端が、指の湿りを吸って、わずかに波打ちはじめております。良い紙は、良い紙なりに水を吸います。


 紙の波打ちを見ておりますと、読み上げの声は遠くなります。七年のあいだ、そういうふうに聞いておりました。


「……以上でございますか」


「以上だ」


「伺ってもよろしいでしょうか」


「申されよ」


「その礼装の襟は、いまはどうなっておいででしょう」


 ヴェクセル様は書付を二枚めくられました。


「……目録には、残っておると」


「さようでございますか」


「それだけか」


「はい」


「おい」と、ヨナスさんが仰いました。


「ヨナスさん」


「なんだよ」


「掛け布を、床に置かないでくださいまし。灰の上でございます」


 ヨナスさんは掛け布を抱え直されました。それから、何も仰いませんでした。


 ヴェクセル様は書付を鞄へ戻して、それからわたくしをご覧になりました。


「答弁の期限は二十日後だ。弁明の書付を、王都の裁許所へ出されるがよい」


「はい」


「出さぬ場合は、訴えのとおりに認めたものとして扱われる。……分かっておられるか」


「分かっております」


「布の毀損は、金で払う話だ。払えぬ額ではないが、あんたの持ち物では足りぬ」


「はい」


「わたしは訴えを運ぶだけの者だ。だが、運んだ先が黙っておると、こちらも寝覚めが悪い」


 ヴェクセル様は鞄の留め金を二度、指で確かめられました。悪い方ではございませんでした。


「弁明はなさらないので」


「いたしません」

【落ちません】


訴えを運んでこられたヴェクセル様は、悪い方ではございませんでした。鞄の留め金を二度確かめてから、こう仰います。——弁明はなさらないので。


次回、いたしません、の理由が明かされます。妹君を庇っているのではございません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。