第18話 訴えられました
石の流しが四つ、割れておりました。
桶は十四のうち、九つ。残りは路地まで転がって、二つは底が抜けております。壁際の灰の壺が倒れて、灰が水路のほうへ長く流れておりました。
干し綱は切れておりません。切るには刃が要りますが、外すだけなら足で足ります。外して落として、その上を歩いてございました。
ドーラさんは割れた流しの前に立って、割れ口をご覧になっておいででした。
「あんた、帰ってきたのかい」
「はい」
「三日だね。留守にしたのは」
「はい」
「三日でこうなるんだよ」
ドーラさんは灰の跡を踵で寄せて、それからおやめになりました。寄せても戻らないものでございます。
流れた灰は戻りません。焼くには木が要ります。日に干して、順に燃やして、三日おいて、ようやく使えるようになります。
ドーラさんのところには、そうやって溜めたものが半年ぶんございました。半年ぶんが、一晩でございます。
物置の階を上りました。藁束が崩されて、脚の折れた台が横に倒れております。
麻の包みは、崩れた藁の下にございました。表紙が湿っております。頁の小口に、指の脂が二つ付いておりました。誰かが手に取って、開いて、それから戻したのでございます。
わたくしは包みを腹に抱えて、階を下りました。紙は湿りますと、縁から波打ちます。
井戸の縁に、子供が一人坐っておりました。井戸番の孫のエミルでございます。十ほどの子で、いつも水の順番を数えております。
「ねえさん」
「エミル。夜に、誰かおりましたか」
「いた。三人」
「顔は」
「見てない。布をかぶってた。頭から」
「そう」
「荷車が、上のほうへ帰ってった」
「上」
「堰の道。あっちは、うちの町の道じゃない」
わたくしは、それ以上伺いませんでした。子供に見たこと以上を言わせますと、次に聞かれたときには、言ったことのほうを覚えております。
「エミル。よく覚えていてくださいました」
「怒らないの」
「割れた桶は、怒っても直りません」
路地の向こうから、青い手が上がりました。
「よう。城帰りだ」
「ヨナスさん」
「留守のあいだに人気者になってたぞ、あんた。王城が下町の洗い女を呼んだって話が、二日で町を三周した」
「さようでございますか」
「三周目には、あんた王妃様の寝間着を洗ったことになってた」
「洗っておりません」
「知ってる」
ヨナスさんは割れた流しの縁を蹴って、それから壺の倒れた跡をご覧になりました。
「灰を流していったのが、いちばん性が悪い」
「はい」
「桶は買える。灰は買えない」
ドーラさんが、奥から布の包みを出してこられました。
藍の掛け布でございます。嫁入りに持たせるもので、四尺に六尺ほど。ヨナスさんのお宅で染めたものでございました。
その上に、黒いものが塗ってございます。
「昨日の朝、預かったばかりだよ。娘のほうの婚礼は来月だ」
「拝見いたします」
広げますと、黒は端から端まで、細く長く走っておりました。刷毛ではございません。何かに浸した布を、引きずってございます。
鼻を近づけました。膠の匂いがいたします。それから、焼けた煤の匂いも。
「王城のものと、同じでございます」
「城の?」
「膠に煤を練ったものでございます。……ただ、珍しいものではございません。刷毛屋でも、判屋でも使います。この町でも、買えるところが二軒ございます」
「……そうかい」
この掛け布は、染めたばかりのものではございません。一度水を通して、色を落ち着かせてございます。
落ち着いた藍は、上から何かがのりますと、のった側だけが浮きます。この黒は浮いておりません。沈んでおります。沈むまで叩いたということでございました。
指の腹で押しました。硬うございます。乾ききって、なお硬い。
布を裏返しますと、裏側にまで黒が抜けておりました。塗ったあとで、上から叩いてございます。叩けば、練ったものが糸の芯まで入ります。
「ヨナスさん」
「——で、落ちるのか」
「落ちません」
「即答だな」
「塗ってから、叩いてございます。糸の芯まで入っておりますので、上から落とす道がございません。膠を緩めましても、緩んだ先が藍でございます。煤と藍を分ける手が、わたくしにはございません」
「藍だからか」
「藍でなければ、下の白へ移して見分けがつきます。色の上にのった黒は、見分けがつきません」
ドーラさんが、包み紙を握って離されました。
「弁償だね。あたしが預かったんだから、あたしが」
「ドーラさん」
「なんだい」
「ヨナスさんに伺ってからでも遅くはございません」
ヨナスさんは掛け布を持ち上げて、光のほうへ透かしておいででした。
「濃紺に振る」
「ヨナスさん」
「藍は黒を呑む。もう一度、いや二度入れて、うんと濃いほうへ持っていく。黒の筋は沈む。全部は消えないが、模様に見える」
「嫁入りのを濃紺にして、文句を言われないのかい」
「言われたら、こっちの流行だって言う」
「あんた、それで通ったことがあるのかい」
「三回ある」
ドーラさんが、初めて笑われました。
わたくしは掛け布をヨナスさんへお渡しいたしました。落ちないものを落ちないと申し上げるところまでが、わたくしの仕事でございます。その先は、染める方の仕事でございました。
昼を過ぎてから、路地の入口に馬が一頭止まりました。
馬で灰汁町へおいでになる方は、めったにいらっしゃいません。道が湿っておりますので、蹄が沈みます。沈む道へ馬を入れる方は、この町に用のない方でございます。
降りてこられたのは、鼠色の上着の方でございました。四十ほど。鞄を胸に抱えていらっしゃいます。抱え方が悪うございました。あの持ち方をいたしますと、中の紙に折り癖がつきます。
「エルナ・リント殿はこちらか」
「エルナでございます」
「ヴェクセルと申す。王都の代訴人だ」
その方は洗い場の割れた流しを一度ご覧になって、それから鞄を開かれました。
「ヴァルデン侯爵ユリウス様より、訴えが出ておる」
「さようでございますか」
「離縁の後、当家の布を毀損したること。読み上げるゆえ、聞かれよ」
紙が広げられました。厚い紙でございます。湿ると波打つ紙で、灰汁町では使いません。
洗い場の女の方々が、手をお止めになりました。止めて、こちらを見ないようにして見ていらっしゃいます。訴状の読み上げは、遠くまで通ります。通るように書いてあるのでございました。
「一、白布十七枚。離縁の後ひと月のうちに、使用に堪えざるに至れり」
「はい」
「一、卓布六枚。同じく黄変せり」
「はい」
「一、侯爵礼装一領。襟に椿油および白粉の染みを残したるまま、処置せずして去れり」
ドーラさんの手が、木を持ったまま止まりました。
ヨナスさんは掛け布を抱えたまま、こちらをご覧になっております。
襟の染みでございました。
ぬるい湯と、綿が三枚。半刻あれば足りるものでございます。
わたくしは、ヴェクセル様の手元を見ておりました。紙の端が、指の湿りを吸って、わずかに波打ちはじめております。良い紙は、良い紙なりに水を吸います。
紙の波打ちを見ておりますと、読み上げの声は遠くなります。七年のあいだ、そういうふうに聞いておりました。
「……以上でございますか」
「以上だ」
「伺ってもよろしいでしょうか」
「申されよ」
「その礼装の襟は、いまはどうなっておいででしょう」
ヴェクセル様は書付を二枚めくられました。
「……目録には、残っておると」
「さようでございますか」
「それだけか」
「はい」
「おい」と、ヨナスさんが仰いました。
「ヨナスさん」
「なんだよ」
「掛け布を、床に置かないでくださいまし。灰の上でございます」
ヨナスさんは掛け布を抱え直されました。それから、何も仰いませんでした。
ヴェクセル様は書付を鞄へ戻して、それからわたくしをご覧になりました。
「答弁の期限は二十日後だ。弁明の書付を、王都の裁許所へ出されるがよい」
「はい」
「出さぬ場合は、訴えのとおりに認めたものとして扱われる。……分かっておられるか」
「分かっております」
「布の毀損は、金で払う話だ。払えぬ額ではないが、あんたの持ち物では足りぬ」
「はい」
「わたしは訴えを運ぶだけの者だ。だが、運んだ先が黙っておると、こちらも寝覚めが悪い」
ヴェクセル様は鞄の留め金を二度、指で確かめられました。悪い方ではございませんでした。
「弁明はなさらないので」
「いたしません」
【落ちません】
訴えを運んでこられたヴェクセル様は、悪い方ではございませんでした。鞄の留め金を二度確かめてから、こう仰います。——弁明はなさらないので。
次回、いたしません、の理由が明かされます。妹君を庇っているのではございません。




