第19話 弁明はいたしません
朝の水は、まだ濁っておりました。
灰が水路へ流れましたので、二日は澄みません。澄まない水で白は洗えませんから、この二日は色物だけでございます。
ドーラさんは残った桶を数え直して、九つで回るようにお決めになりました。九つで回すには、干す前に一度、順を組み替えなければなりません。組み替えの手順を紙に書いて、壁に貼りました。
昨日の訴状の話は、日が暮れる前に町を一回りしたようでございます。読み上げは通るように書いてございますし、聞いた方は聞いたとおりには伝えません。
夕方には、わたくしが侯爵家の白布を煮て駄目にしたことになっておりました。煮ますと、白は駄目になります。そこだけは本当でございます。
「客が二人、来なくなったよ」
「はい」
「訴えられてる人間に、布は預けない。そういうもんだ」
「さようでございますね」
「あんた、悔しくないのかい」
「水が濁っておりますので、今日は色物からでございます」
ドーラさんは何か仰いかけて、桶をお持ちになりました。
濁った水で色物を洗いますと、濁りが色の陰に隠れます。白でしたら、乾いてから灰色に出ます。同じ水でも、布によって出方が違うのでございます。
その朝に扱いましたのは三枚でございました。前掛けが二枚と、子供の上着が一枚。前掛けは煮炊きのもの、上着は泥でございます。
泥は乾かしてから落とします。濡れているうちに触りますと、糸のあいだへ押し込みます。乾かして、指で払って、残ったところだけに湯を当てる。半分は、待つ仕事でございます。
昼前に、エミルが前掛けを持ってまいりました。
子供のものにしては大きうございます。大人のものを詰めて、丈を上げてございました。縫い直しは、あまり上手ではございません。
胸のところに、茶色い染みがございました。掌ほどで、縁がぼやけております。
「これ、落ちる」
「拝見いたします」
透かしました。匂いを嗅ぎました。指の腹で押しました。
「油と、汁でございます。魚を焼いたときのものでございましょうか」
「かあちゃんの」
「はい」
「かあちゃんの前掛けだった。冬に死んだ」
「さようですか」
「みんな、汚いから捨てろって言う。じいちゃんも言う」
「よく持ってきてくださいました」
エミルは前掛けの裾を握って、こちらを見ておりました。
「落ちます」
「ほんと」
「半日でございます。古い油は動きにくうございますが、動かせないものではございません」
「じゃあ」
「ただ、落としますと、匂いも一緒に落ちます」
「匂い」
「油の染みは、匂いを抱えております。抱えたまま古くなりますので、落としますと、そこだけ何もなくなります。……嗅いだことがございますか。その、胸のところを」
エミルは前掛けを胸に寄せました。しばらく黙って、それから、首を横に振りました。
「ある」
「はい」
「毎晩ある」
「では、お決めになるのはエミルでございます」
子供は前掛けを抱えたまま、井戸のほうを見ておりました。水の順番を数えるときと同じ顔でございました。
「……落とさないで」
「承りました」
「落とせるのに」
「落とせるものを落とさないのも、仕事でございます」
「銭は」
「いただきません。何もしておりませんので」
エミルは前掛けを畳んで、脇に抱えて帰っていきました。畳み方が、胸のところを内側にする畳み方でございました。誰かに教わったのだと思います。
油の染みは、落としておいたほうが布は長持ちいたします。油は日を浴びると焼けて、そこから糸が切れます。二年か、三年でございましょうか。
三年のあいだ、あの子は毎晩それを嗅ぎます。三年後に切れた前掛けは、切れた前掛けとして残ります。落として長く持たせた前掛けは、匂いのない前掛けとして残ります。
どちらを選ぶかは、持っている方が決めることでございます。わたくしが決めますと、わたくしの前掛けになってしまいます。
ドーラさんが、水路の縁から仰いました。
「あんた、銭にならないことばっかりだね」
「はい」
「その調子で、二十日後にどうする気だい」
わたくしは桶をすすいでおりました。
「あんた、あの訴えのことだけどね。あたしゃ聞いてたよ、代訴人の読んだやつ」
「はい」
「椿油と白粉、って言ったね」
「はい」
「あれ、あんたが落とさなかったんじゃないだろう。落とす前に、家を出されたんだ」
「礼装が洗い場へ回ってまいりましたのは、離縁の朝でございます。回ってきた布は、その日のうちに水へ入れます。入れる前に、わたくしは門を出ました」
「じゃあ言いなよ。裁許所で、そう言えばいい」
「申しますと、アニエスの名が出ます」
ドーラさんは桶を置かれました。
「庇うのかい。あの妹を」
「庇いません」
「じゃあ何だい」
わたくしは、すすいだ桶を伏せました。伏せておかないと、内側に水が残ります。
「わたくしが申しますと、わたくしの言葉になります。捨てられた女が、妹の名を出して、夫の襟の話をした。……そう聞こえます」
「そりゃ、そう聞こえるだろうね」
「聞こえたものは、洗っても落ちません」
「……で」
「布が申しますと、布の言葉になります」
ドーラさんは、しばらく黙っておいででした。
夜になりますと、水路の音が高くなります。上の堰が落とされるからでございます。組合が水を締めますので、この町の夜の水は細うございます。
その細い水で、桶を九つすすぎました。
その夜、わたくしは物置の階から麻の包みを降ろしました。
厚みが指三本ほどの綴じ帳でございます。表紙は水を吸って波打っております。七年で三度、綴じ直しました。荒らされた晩に湿りましたので、風の通るところに立てて、二日かけて乾かしてございます。
「洗い場の帳でございます」
「それが、屋敷から持ってきたやつかい」
「はい」
「何が書いてあるんだ」
「いつ、どの布の、何の染みを、どうやって落としたか。それだけでございます」
ドーラさんは頁を一枚だけめくって、それから閉じられました。
「……悪口が、一つも書いてないね」
「書いてございません」
「誰が悪いとも、いくら盗られたとも」
「ございません」
「じゃあ、何の役に立つんだい」
「役には立ちません。ただ、書いてございます」
頁は、みな同じ形をしております。左に日付、真ん中に布、右に染み。落とし方は、その下へ小さく書きました。書く場所を決めておかないと、急いでいるときに書けません。
急いでいるときにしか書けない日が、七年のうちに何度もございました。
わたくしは表紙の波打ちを、指で伸ばしました。
「日付がございます。布がございます。染みがございます。落とし方がございます。それだけでございますが、それだけが七年分ございます」
「七年分」
「同じ染みは二度ございませんので、一枚の布に一行では済みません」
「……あんた、これを持って出るときに、こうなると思ってたのかい」
「いいえ」
「じゃあ、なんで持ってきた」
「わたくしが書いたものでございますから」
ドーラさんは、火のほうへ行かれました。木を一本くべて、それから戻ってこられませんでした。
火の音がしておりました。この方は、返事に困ると木をくべる方でございます。
戸口の外に、青い手がございました。
いつからいらしたのかは存じません。ヨナスさんは足音を立てずに歩く方でございます。染めの甕のそばで育つと、そうなるのだそうでございます。
「聞いてた」
「ヨナスさん」
「二十日後だってな。書付は書くのか」
「いたしません」
「出さなきゃ、そのまま負ける。あの代訴人がそう言ってただろ」
「はい」
「はい、じゃねえよ」
ヨナスさんは戸の枠にもたれて、青い手の甲をご覧になっておいででした。
「侯爵家が布の値をいくらで立ててくると思う。白布十七枚に卓布六枚、礼装が一領。下町の洗い場が三つ買える」
「さようでございますか」
「払えないだろ」
「払えません」
払えないものは、払えないと申し上げるほかにございません。落ちないものを落ちないと申し上げるのと、同じでございます。
「じゃあ、なんで行くんだ。何しに裁許所へ行く」
「わたくしは、落とすだけです。裁くのは布です」
ヨナスさんは何か仰いかけて、それからおやめになりました。
戸の枠を、指で二度、弾かれました。
「あんた、負ける気だろ」
「勝ちにはまいりません」
【落としません】
勝ちにはまいりません、と申します。負けに行くのとは違います。この差が伝わるかどうかが、書いていていちばん怖いところでございました。
次回、動かないエルナの代わりに、染物師のほうが動きます。




