↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/38

第20話 染物師が動く

審理の日取りが決まったという知らせは、薄い紙で参りました。


 折り目が二つ。役所の紙は縁を裁ってから折りますので、角がきれいに揃っております。ドーラさんが横から覗いて、それから何も仰らずに桶を寄越されました。


「読まないのかい」


「読みました」


「それだけかい」


「日にちと、場所と、来いということしか書いてございませんので」


「腹は立たないのかい」


「立てても、日にちは動きませんので」


 その日、わたくしは前掛けを二枚と、子供の襦袢を三枚洗いました。襦袢の膝に草の汁がついております。草は熱い湯を当てますと生地に居着いてしまいますので、ぬるい湯で、縁から中へ押してまいります。


 訴えられたという話は、三日で灰汁町を回りました。この町の噂は洗い場から出て、洗い場へ戻ってまいります。布を持っていらっしゃる方が、布と一緒に持ってこられるのでございます。


 その週にわたくしの流しへ来た布は、四枚でございました。前の週は九枚ございました。減った分をどう考えるかは、わたくしの仕事ではございません。減っても、来た四枚は同じように洗います。


 ヨナスさんが見えなくなったのは、その翌日からでございました。


 二日目の夕方に、ドーラさんが火の前で仰いました。


「ザルテんとこ、閉まってるよ」


「さようでございますか」


「二日だ。あの男が二日も甕を空けるなんて、聞いたことがない」


「甕は、放っておくとどうなりますでしょう」


「死ぬよ。藍ってのは生きもんだ。餌をやらなきゃ、底から冷えて死ぬ」


 わたくしは桶の水を替えました。


 路地の奥のザルテ工房は、朝も昼も戸が下りておりました。染屋の戸は、開いているかどうかが外から分かります。中の湯気で、上の桟の板だけが黒く湿るからでございます。


 その板が、三日目には乾いておりました。軒に干してある藍は、この町の色でございます。その色が薄くなりはじめますと、町が色を一つ失います。わたくしはその日、干し場の綱の下を二度通りました。


 四日目の日暮れに、足音がいたしました。


 ヨナスさんでございます。麻の袋を胸に抱えて、袖をまくらずに歩いていらっしゃいます。この方が袖をまくらないのを、わたくしは初めて見ました。


「審理、明後日だってな」


「はい」


「これ」


 袋の口を開けて、紙の束を流しの縁に置かれました。厚みが指二本ほど。角が揃っておりません。写しでございます。


「何でございますか」


「染物組合の受取証。七年ぶん、写してきた」


「……染物の」


「灰を買うのは、あんたらだけじゃない。染めるのにも灰はいる。色を留めるのに使うんだ」


「どうやってお集めになりましたか」


「組合の蔵に綴りが並んでる。四十年ぶんだ。それを綴じてる爺さんがいる。フェルダーってんだ」


「見せてくださったのですか」


「三晩通った。最初の晩は追い返された。二晩目に、あの人の仕事の話を聞いた」


「お仕事の」


「四十年、受取証を綴じてるだけの男だ。……誰も、あの人に何かを訊きに行ったことがなかったんだと」


 わたくしは、紙の束の角を揃えました。


「三晩目に、蔵の鍵を開けてくれた」


「さようでございますか」


「で、こっからだ」


 ヨナスさんは束の中ほどから一枚を抜いて、わたくしの前に置かれました。


「灰の受取証。組合が売った分だ。ここに焼き場の名前が入る」


「入っておりません」


「そう。空欄だ。七年ぶん、ずっと空だ。……ただな、荷車の覚え書きのほうには書く決まりになってる。運び賃を出すからだ」


 もう一枚。字が崩れて、指の油が縁に残っております。


「ヴァルデン家、領、焼き場」


 わたくしは、その一行を二度見ました。


「それから、これ」


 紙の包みを開きますと、灰が出てまいりました。ひとつまみでございます。


「蔵の床に落ちてたのを掃いてきた」


 わたくしは指で潰しました。それから掌に載せて、息を軽く吹きかけ、匂いを嗅ぎました。


 灰は白ではございません。焼いた木によって、青みが差したり、赤みが残ったりいたします。ドーラさんの灰は、灰色の中にごくうすい青がございます。指の腹に載せますと粉が二種類に分かれて、細かいほうが先に指紋の溝へ入ります。


 ヨナスさんが持ってこられたものは、溝へ入りませんでした。粒が一つの大きさに揃っております。揃っているということは、一度に大量に焼いたということでございます。家の裏で少しずつ焼いた灰は、こうはなりません。


「この灰は、この町の木ではございません」


「分かるのか」


「ドーラさんの灰は、指で潰しますと少し粘ります。水に浸けてから乾かした木が混ざっておりますので。こちらは粘りません」


「ほかには」


「松が入っております。この辺りに松はございません」


「……あるんだよ。王都の北の斜面に。侯爵家の山だ」


「さようでございますか」


「あんた、驚かないのか」


「驚いております」


「顔に出ないな」


「湯の温度を見ておりましたので」


 ヨナスさんは束を指で弾かれました。


「これ、審理に出せるだろ」


「出しません」


「なんでだ」


「わたくしが出しますと、わたくしが申し立てたことになります」


「なるだろ。それでいいだろ」


「よろしくございません。申し立てましたら、申し立てたほうを疑われます」


「……あんた」


「出すのでしたら、出したい方が出すのがよろしゅうございます。その紙は、あなたのものでございますから」


 ヨナスさんは、流しの縁に腰を下ろされました。


「三晩、寝てないんだけどな」


「存じております。袖口に出ております」


「なんだって」


「灯りの油でございます。三晩ぶん、三本」


「本数まで分かるのか」


「乾いてから重なりますと、縁が三本残ります。濃いほうが古うございます」


「よく見てるな」


「お預かりします。お脱ぎくださいませ」


「前は要らないっつっただろ」


「あのときは一本でございました。三本になりますと、布の目が抜けます」


「抜けると」


「袖口から先に破れます」


 油の染みは、外から見ますと一つに見えます。日に透かしますと、輪郭が三つ重なっているのが分かります。いちばん外の輪が古く、内側へ行くほど新しうございます。


 夜に手を止めるたびに袖口が卓へ触れて、そのたびに油を拾ったのでございます。三晩とも同じ側の袖でございました。この方は紙を左手で押さえて、右手で写しておいででした。


 ヨナスさんは、しばらく袖口をご覧になっておいででした。それから、上着を脱いで桶の縁に掛けられました。


「——で、落ちるのか」


「落ちます」


「即答か」


「油でございますので」


「なんで、受取証なんか読めたと思う」


「灰を扱っておいでですので」


「うちの灰、三日ごとに替えてる」


「存じております」


 湯をぬるく沸かしました。油には灰汁を少しだけ使います。多く入れますと、麻の色まで抜けてまいります。


 上着を裏返して、袖口の下に白い綿を敷きました。落とすのではなく、下へ移すのでございます。


 湯を含ませる。押す。綿を替える。押して、待つ。


 擦りません。擦りますと糸のあいだへ入ります。絞りません。絞れば色が戻ります。


 新しい二本は、四度目の綿で抜けました。いちばん古い一本が最後まで残ります。残って、それから、ふいに無くなります。


「落ちました」


 ヨナスさんは、袖口を日に透かして見ておいででした。


「三晩ぶんが、無くなったな」


「布には残りません」


「そうかい」


「明日は、甕でございますね」


「行く。底に炭を入れてきた。三日なら持つ」


「間に合いますでしょうか」


「間に合わなかったら、あんたのせいだ」


「さようでございますか」


「嘘だ」


 灰の包みを結び直すとき、指に残った粉を桶の水で流しました。水が硬うございますので、灰は溶けきらずに水面へ薄く広がって、それから縁へ寄ります。


 この町の水では、白いものは白くなりません。そのかわり、色が抜けません。ヨナスさんがこの町から出ないのは、そのためでございます。わたくしがこの町から出ない理由は、まだございません。


 わたくしは紙の束を麻布に包んで、帳の隣に置きました。開いてはおりません。開けば、読んだことになりますので。


 上着は、翌朝には乾いておりました。袖口の三本は、どこにもございません。


 審理は、明後日でございました。

【落ちました】


「灰は、三日ごとに替えてある」。第一話でエルナが屋敷に残していった言葉が、ここで一段目の反転をいたします。二段目は、もう少し先でございます。


次回、七年ぶんの帳が開かれます。告発は、一行も書いてございません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。