第20話 染物師が動く
審理の日取りが決まったという知らせは、薄い紙で参りました。
折り目が二つ。役所の紙は縁を裁ってから折りますので、角がきれいに揃っております。ドーラさんが横から覗いて、それから何も仰らずに桶を寄越されました。
「読まないのかい」
「読みました」
「それだけかい」
「日にちと、場所と、来いということしか書いてございませんので」
「腹は立たないのかい」
「立てても、日にちは動きませんので」
その日、わたくしは前掛けを二枚と、子供の襦袢を三枚洗いました。襦袢の膝に草の汁がついております。草は熱い湯を当てますと生地に居着いてしまいますので、ぬるい湯で、縁から中へ押してまいります。
訴えられたという話は、三日で灰汁町を回りました。この町の噂は洗い場から出て、洗い場へ戻ってまいります。布を持っていらっしゃる方が、布と一緒に持ってこられるのでございます。
その週にわたくしの流しへ来た布は、四枚でございました。前の週は九枚ございました。減った分をどう考えるかは、わたくしの仕事ではございません。減っても、来た四枚は同じように洗います。
ヨナスさんが見えなくなったのは、その翌日からでございました。
二日目の夕方に、ドーラさんが火の前で仰いました。
「ザルテんとこ、閉まってるよ」
「さようでございますか」
「二日だ。あの男が二日も甕を空けるなんて、聞いたことがない」
「甕は、放っておくとどうなりますでしょう」
「死ぬよ。藍ってのは生きもんだ。餌をやらなきゃ、底から冷えて死ぬ」
わたくしは桶の水を替えました。
路地の奥のザルテ工房は、朝も昼も戸が下りておりました。染屋の戸は、開いているかどうかが外から分かります。中の湯気で、上の桟の板だけが黒く湿るからでございます。
その板が、三日目には乾いておりました。軒に干してある藍は、この町の色でございます。その色が薄くなりはじめますと、町が色を一つ失います。わたくしはその日、干し場の綱の下を二度通りました。
四日目の日暮れに、足音がいたしました。
ヨナスさんでございます。麻の袋を胸に抱えて、袖をまくらずに歩いていらっしゃいます。この方が袖をまくらないのを、わたくしは初めて見ました。
「審理、明後日だってな」
「はい」
「これ」
袋の口を開けて、紙の束を流しの縁に置かれました。厚みが指二本ほど。角が揃っておりません。写しでございます。
「何でございますか」
「染物組合の受取証。七年ぶん、写してきた」
「……染物の」
「灰を買うのは、あんたらだけじゃない。染めるのにも灰はいる。色を留めるのに使うんだ」
「どうやってお集めになりましたか」
「組合の蔵に綴りが並んでる。四十年ぶんだ。それを綴じてる爺さんがいる。フェルダーってんだ」
「見せてくださったのですか」
「三晩通った。最初の晩は追い返された。二晩目に、あの人の仕事の話を聞いた」
「お仕事の」
「四十年、受取証を綴じてるだけの男だ。……誰も、あの人に何かを訊きに行ったことがなかったんだと」
わたくしは、紙の束の角を揃えました。
「三晩目に、蔵の鍵を開けてくれた」
「さようでございますか」
「で、こっからだ」
ヨナスさんは束の中ほどから一枚を抜いて、わたくしの前に置かれました。
「灰の受取証。組合が売った分だ。ここに焼き場の名前が入る」
「入っておりません」
「そう。空欄だ。七年ぶん、ずっと空だ。……ただな、荷車の覚え書きのほうには書く決まりになってる。運び賃を出すからだ」
もう一枚。字が崩れて、指の油が縁に残っております。
「ヴァルデン家、領、焼き場」
わたくしは、その一行を二度見ました。
「それから、これ」
紙の包みを開きますと、灰が出てまいりました。ひとつまみでございます。
「蔵の床に落ちてたのを掃いてきた」
わたくしは指で潰しました。それから掌に載せて、息を軽く吹きかけ、匂いを嗅ぎました。
灰は白ではございません。焼いた木によって、青みが差したり、赤みが残ったりいたします。ドーラさんの灰は、灰色の中にごくうすい青がございます。指の腹に載せますと粉が二種類に分かれて、細かいほうが先に指紋の溝へ入ります。
ヨナスさんが持ってこられたものは、溝へ入りませんでした。粒が一つの大きさに揃っております。揃っているということは、一度に大量に焼いたということでございます。家の裏で少しずつ焼いた灰は、こうはなりません。
「この灰は、この町の木ではございません」
「分かるのか」
「ドーラさんの灰は、指で潰しますと少し粘ります。水に浸けてから乾かした木が混ざっておりますので。こちらは粘りません」
「ほかには」
「松が入っております。この辺りに松はございません」
「……あるんだよ。王都の北の斜面に。侯爵家の山だ」
「さようでございますか」
「あんた、驚かないのか」
「驚いております」
「顔に出ないな」
「湯の温度を見ておりましたので」
ヨナスさんは束を指で弾かれました。
「これ、審理に出せるだろ」
「出しません」
「なんでだ」
「わたくしが出しますと、わたくしが申し立てたことになります」
「なるだろ。それでいいだろ」
「よろしくございません。申し立てましたら、申し立てたほうを疑われます」
「……あんた」
「出すのでしたら、出したい方が出すのがよろしゅうございます。その紙は、あなたのものでございますから」
ヨナスさんは、流しの縁に腰を下ろされました。
「三晩、寝てないんだけどな」
「存じております。袖口に出ております」
「なんだって」
「灯りの油でございます。三晩ぶん、三本」
「本数まで分かるのか」
「乾いてから重なりますと、縁が三本残ります。濃いほうが古うございます」
「よく見てるな」
「お預かりします。お脱ぎくださいませ」
「前は要らないっつっただろ」
「あのときは一本でございました。三本になりますと、布の目が抜けます」
「抜けると」
「袖口から先に破れます」
油の染みは、外から見ますと一つに見えます。日に透かしますと、輪郭が三つ重なっているのが分かります。いちばん外の輪が古く、内側へ行くほど新しうございます。
夜に手を止めるたびに袖口が卓へ触れて、そのたびに油を拾ったのでございます。三晩とも同じ側の袖でございました。この方は紙を左手で押さえて、右手で写しておいででした。
ヨナスさんは、しばらく袖口をご覧になっておいででした。それから、上着を脱いで桶の縁に掛けられました。
「——で、落ちるのか」
「落ちます」
「即答か」
「油でございますので」
「なんで、受取証なんか読めたと思う」
「灰を扱っておいでですので」
「うちの灰、三日ごとに替えてる」
「存じております」
湯をぬるく沸かしました。油には灰汁を少しだけ使います。多く入れますと、麻の色まで抜けてまいります。
上着を裏返して、袖口の下に白い綿を敷きました。落とすのではなく、下へ移すのでございます。
湯を含ませる。押す。綿を替える。押して、待つ。
擦りません。擦りますと糸のあいだへ入ります。絞りません。絞れば色が戻ります。
新しい二本は、四度目の綿で抜けました。いちばん古い一本が最後まで残ります。残って、それから、ふいに無くなります。
「落ちました」
ヨナスさんは、袖口を日に透かして見ておいででした。
「三晩ぶんが、無くなったな」
「布には残りません」
「そうかい」
「明日は、甕でございますね」
「行く。底に炭を入れてきた。三日なら持つ」
「間に合いますでしょうか」
「間に合わなかったら、あんたのせいだ」
「さようでございますか」
「嘘だ」
灰の包みを結び直すとき、指に残った粉を桶の水で流しました。水が硬うございますので、灰は溶けきらずに水面へ薄く広がって、それから縁へ寄ります。
この町の水では、白いものは白くなりません。そのかわり、色が抜けません。ヨナスさんがこの町から出ないのは、そのためでございます。わたくしがこの町から出ない理由は、まだございません。
わたくしは紙の束を麻布に包んで、帳の隣に置きました。開いてはおりません。開けば、読んだことになりますので。
上着は、翌朝には乾いておりました。袖口の三本は、どこにもございません。
審理は、明後日でございました。
【落ちました】
「灰は、三日ごとに替えてある」。第一話でエルナが屋敷に残していった言葉が、ここで一段目の反転をいたします。二段目は、もう少し先でございます。
次回、七年ぶんの帳が開かれます。告発は、一行も書いてございません。




