第21話 洗い場の帳
役所の一室でございました。
卓が三つ。窓は高いところに一つきりで、北を向いております。布を見るには向きません。それでも、光は光でございます。
正面に審理役のコンラート様。五十ほどの、指の太い方でございます。脇の低い卓に書記のユッタ様。羽根ペンを二本、並べて置いていらっしゃいました。
右手にヴァルデン家の代訴人。ニクラス様と名乗られました。三十の半ばでしょうか。上着の肩に、糸くずが一本ついております。
その後ろの席に、ヴァルデン侯爵様。さらに後ろに、家令のボルツと、大伯母様がいらっしゃいました。
「被告」
「はい」
「代訴人がおらぬようだが」
「おりません」
「立てぬのか」
「立てません」
コンラート様は、それ以上お尋ねになりませんでした。この方は、答えの短い者を急かさない方でございました。
「代訴人。申し立てを読め」
ニクラス様が紙を持ち上げられました。離縁の後ひと月のうちに、当家の白布十七枚、卓布六枚が用をなさなくなった。被告は離縁に際して洗い場を差配していた者であり、去り際に何らかの仕掛けをした。よって布の代と、宴を二度取りやめた損とを償え。
「以上でございます」
「被告。心当たりは」
「ございません」
「仕掛けをしたか」
「いたしておりません」
「弁明は」
「いたしません」
「一つも申さぬのか」
「訊かれたことには、お答えいたします」
ユッタ様の羽根ペンが動きました。字を書く音は、布を打つ音より細うございます。
「審理役。物を出させていただきます」
ニクラス様が合図をなさると、下役の方が麻の包みを卓に載せました。中から、白布が一枚出てまいりました。
「被告。近う。これが分かるか」
「拝見してよろしいでしょうか」
「許す」
わたくしは卓の前に立ちました。窓は北でございますが、光にかざせば同じことでございます。
日に透かしました。それから、鼻を近づけました。それから、指の腹で押しました。
全面でございました。縁が濃いのでも、真ん中が濃いのでもございません。端から端まで、同じ色でございます。手を離しても、押した跡が消えません。
「いかがか」
「落ちません」
ニクラス様が身を乗り出されました。
「落ちぬ、と申したな。今、確かに」
「申しました」
「これを、あなたがこうした」
「いたしておりません」
「では、なぜ落ちぬ。あなたがおられた頃、この布は白かった。あなたが出ていって、白くなくなった。ほかに何を考えろと仰る」
「これは、染みではございません」
「では、何だ」
「布が変わってしまったものでございます」
「言葉遊びは困る」
「遊んではおりません。染みは、上に乗っているものでございます。乗っているものでしたら、下へ移せば落ちます。こちらは、乗っておりません」
「……もう一度、仰っていただきたい」
「灰を替えていない湯で幾度も洗いますと、脂が落ちきらずに糸へ残ります。残ったまま日に当たれば焼けます。焼けたものは、白には戻りません」
「幾度だ」
「二十度ほどかと存じます」
「二十度」
「三日に一度替える灰で、日に二度動かす布でしたら、三月で二十度ほどになります」
コンラート様が、指で卓を二度叩かれました。
「三月」
「はい」
「離縁は、いつだ」
「三月前でございます」
ニクラス様が、手元の紙を一枚めくられました。それからもう一枚めくって、戻されました。
大伯母様が扇をお開きになりました。開くだけで、あおいではいらっしゃいません。
「審理役。もう一点ございます」
「申せ」
「被告は、当家の洗い場の記録を持ち出しております。七年ぶんでございます。当家の内向きが書かれたものを、離縁の身で持ち出すこと自体が、当家への害意の証しでございます」
「何と申す帳だ」
「洗い場の帳でございます」
わたくしが申し上げますと、ニクラス様が一度こちらをご覧になりました。
「……その帳を、出せるか」
「持っております」
「取りに戻る要はないのか」
「持っております」
わたくしは足元の麻布を解いて、卓に載せました。厚みが指三本。表紙は水を吸って波打っております。七年で三度、綴じ直しております。
「持ってきたのか」
「呼ばれましたので」
コンラート様は、綴じの端を摘まんで持ち上げられました。
表紙が波打っておりますので、綴じが緩んでおります。持ち上げますと、頁が下から順に、ひとりでに開いてまいりました。高い窓から入る風が、めくれた頁の縁を撫でて、そのまま端まで送ってしまいます。
七年ぶんが、一度に開きました。
紙の音だけが、少しのあいだ続いておりました。ユッタ様が羽根ペンを置いて、頁を押さえに立たれました。
頁は、前のほうほど字が大きうございます。七年のあいだに小さくなって、行の数が増えました。手が冬に割れておりました年は、字の縦の線が二本に割れております。水の跳ねた跡が、どの頁にも点々と残っておりました。洗い場で書いたものでございますから、当然でございます。
「何が書いてある」
「日付と、布と、染みと、落とし方でございます」
「読め」
ユッタ様は、頭から読み上げられました。
「卓布、麻、端、葡萄酒。落ちた」
「白布、四枚、右の下、鉄。落ちた」
「客間の掛け布、獣脂、二晩置いた。落ちなかった。焼いた」
「前掛け、二枚、灰。落ちた」
「白布、十七枚、灰を替え」
「白布、十七枚、灰を替え」
同じ行が、三日ごとに並びます。半刻も聞いておりますと、聞くほうの息が、その三日に合ってまいります。
大伯母様が扇を閉じられました。ボルツは膝の上で指を組んでおります。ヴァルデン侯爵様は、高い窓のあたりをご覧になっておいででした。
一年目の夏のあたりで、ユッタ様の声の調子が変わりました。読み間違えたのではございません。読むところが無くなったのでもございません。
「審理役」
「なんだ」
「……この帳には、人の名前が、ほとんど出てまいりません」
「出ておるだろう。今、当主の礼装と読んだ」
「布の持ち主として出るだけでございます。それ以外では、一度も」
コンラート様は、開いた頁をご自分のほうへ引き寄せられました。指で三頁ほど繰って、それから束のいちばん後ろを開かれました。それからまた、前へ戻られました。
「被告」
「はい」
「この帳には、誰かを責める行が、一つも無いな」
「ございません」
「七年、書いておってか」
「はい」
「なぜ、これだけを持ち出した」
「わたくしが書いたものでございますので」
「それだけか」
「同じ染みは二度ございません。書いておきませんと、次に似たものが参りましたときに、また一から始めることになります」
「当家に不都合な事は、書かなかったのか」
「不都合かどうかは、わたくしには分かりません。落ちたか、落ちなかったかは分かります」
ニクラス様が、紙をめくる手をお止めになりました。
それから、指を挙げられました。この方は、わたくしが黙っていることのほうに、何かを見つけようとなさっておいででした。
「審理役。一点、確かめさせてください。当家は、被告に恨みがあったと申し立てております。その証しとして、被告が当主の襟に付いていたものを書き留めていたことを挙げております」
「訴状に書いてあったな」
「はい。書記官。三年前の、春の頁を」
ユッタ様は帳を繰って、指をお止めになりました。
「……ございました」
「読め」
「礼装、黒、襟の内。椿油と白粉。落ちた」
誰も、何も仰いませんでした。
「以上でございます」
「それだけか」
「それだけでございます」
「被告。この礼装は、どなたのものだ」
「ヴァルデン侯爵様のものでございます」
「椿油は、どなたのものだ」
「存じません」
「存じぬのか」
「わたくしが書きますのは、何が付いていたかと、落ちたかどうかだけでございます」
コンラート様は、頁の上の日付をしばらくご覧になっておいででした。それから、ユッタ様のほうへ顎をしゃくられました。
「その日付を、控えておけ」
羽根ペンが動きました。
親族席で、扇の骨が鳴りました。大伯母様が、扇を膝に下ろされたのでございます。
「今日はここまでとする。帳は、一晩こちらで預かる」
「どうぞ」
「返さぬかもしれぬぞ」
「返していただけましたら、続きを書きます」
「……何を書く」
「今日、白布を一枚拝見いたしました。落ちませんでした。それを書きます」
コンラート様は、少しのあいだ、わたくしをご覧になりました。
「書記官。どこまで読んだ」
「一年目の、秋でございます」
わたくしは、卓の上の帳を見ておりました。開いたままでございます。読み終えた側の紙は薄く、まだ残っている側は、指三本ぶんのうちの、二本と半分ほどございました。
【落ちません】
帳に書いてございますのは、いつ・どの布の・何の染みを落としたか、それだけでございます。告発は一行もございません。だからこそ困る、という回でございます。
次回、最深の山場の後半です。淡々としているものが、いちばん全部を出します。
ブックマークと評価は、帳の次の一頁に書き足させていただきます。




