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その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


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第22話 布は嘘をつきません

二日目でございます。


 廊下に人が立っておりました。七人か、八人か。役所の方でも、訴えのある家の方でもございません。ただ、聞きにいらした方々でございます。


 ユッタ様は、朝から読んでおいででした。


「白布、六枚、右の下、鉄。落ちた」


「白布、十七枚、灰を替え」


 三日ごとの行が、同じ形で並んでまいります。二年目が終わり、三年目に入り、四年目に入りました。


 誰も止めませんでした。止めるところが無いのでございます。責める行がございませんので、そこで息を継ぐこともできません。読むほうも、聞くほうも、三日ごとに歩かされます。


「止めよ」


 四年目の半ばで、コンラート様が手を挙げられました。


「代訴人。昨日そちらが出した、当家の出納を貸せ」


 ニクラス様が紙を差し出されました。損の額を積んだ書き付けでございます。


 コンラート様は、帳と書き付けを並べて置かれました。指を二本、それぞれの上に置いて、行を揃えていらっしゃいます。


「被告の帳では、五年前のこの日、白布は十七枚ある」


「はい」


「当家の出納では、その二年前に六枚を傷んだとして落としておる。落としたのなら、十一枚のはずだ」


 ボルツが、膝の上で指を組み直しました。


「家令」


「……はい」


「落とした六枚は、どこへやった」


「焼いたかと存じます」


「被告の帳には、焼いたものは焼いたと書いてある。……白布の六枚は、その後も洗われておる。三日ごとにな」


「記憶が定かでは」


「定かでなくてよい。帳が定かだ」


 ユッタ様の羽根ペンが、続けて動いておりました。


「下役。市へ出よ。古着と質の店を回って、家の印を外した白布があれば持ってこい。三軒でよい」


 下役の方が出ていかれました。


 コンラート様は、帳の頁を戻して、指で行を追われました。


「書記官。灰の行だけを拾え。七年で何度ある」


「……五百三十ほどかと」


「家令。当家は、灰をどこから買っておった」


「晒し組合でございます」


「その灰は、どこで焼いたものだ」


「……存じません」


「では、組合を呼べ」


 昼を過ぎて、廊下の人が動きました。


 入ってこられたのは、痩せた老人でございました。麻の袋を両手で胸に抱えて、卓の前まで来て、抱えたまま立っておいででした。


「名を」


「フェルダーと申します。染物組合で、受取証を綴じております」


「何年だ」


「四十年でございます」


 コンラート様は、少しのあいだ、その方をご覧になりました。


「四十年ぶんが、そこにあるのか」


「七年ぶんをお持ちしました。あとは蔵にございます。お入り用でしたら、明日にでも」


 フェルダー様は袋を開けて、綴りを三つ、卓へ並べられました。指が慣れております。四十年、同じ順に並べてこられた指でございました。


「読み上げよ」


「どこから読みましょう」


「灰の、仕入れのほうだ」


「はい。……焼き場の欄が、七年ぶん空いております」


「空いておるのか」


「はい。ただ、荷車の覚え書きのほうには書く決まりでございます。運び賃を出しますので」


「読め」


「ヴァルデン家、領、焼き場。七年で、二百三十回でございます」


 ボルツが顔を上げました。


「家令」


「……はい」


「当家は、当家の山で焼いた灰を、組合から買い戻しておったことになるが」


 ボルツは、答えませんでした。


「受取の判は」


「押してございます」


「誰の判だ」


 フェルダー様は綴りを一枚めくって、それから紙を卓の上へ滑らせられました。


「わたくしは、判は読めません。四十年、押してあるかどうかだけを見てまいりましたので」


 コンラート様が、その紙を手に取られました。それから、後ろの席をご覧になりました。


「売り先は」


「晒し組合でございます。組合の長のお名前で、七年ぶん」


 ユッタ様が、羽根ペンを一度、水にお浸けになりました。


 下役をお待ちのあいだに、コンラート様は昨日の頁へ戻られました。


「書記官。昨日控えさせた日付を」


「三年前の、春でございます」


「代訴人。ご当主の再縁は、いつだ」


 ニクラス様は、答えられませんでした。答えをお持ちで、答えられなかったのでございます。


「この春でございます」


 お答えになったのは、親族席の大伯母様でございました。


「代訴人。そちらは、この帳を害意の証しとして出した」


「……はい」


「三年前から付いていたものを、三年ぶん黙って落としておった者を、害意と申すか」


 ニクラス様は紙を揃えて、卓に置かれました。それきり、手を触れられませんでした。


 大伯母様が扇をお開きになりました。今度は、顔の下半分を隠しておいででした。


 下役の方が戻られたのは、日が傾いてからでございます。


 白布が三枚。市の質の店から出てきたものでございました。麻の上等でございます。


「家令。これは当家のものか」


「存じません。印がございませんので」


「被告」


「はい」


「覚えておるか」


「覚えておりません。七年で、白布は千枚を超えて通っております」


「では、分からぬか」


「布に訊けば分かります」


「……何と申した」


「湯と、桶と、綿を少しお貸しくださいませ。四半刻いただきます」


 役所の裏の井戸端をお借りいたしました。廊下にいらした方々が、みなついてこられました。


 湯はぬるくいたします。白は、灰汁を当てますと縁が立ちますので、使いません。


 三枚を順に、右の隅だけ浸けました。指の腹で押します。押して、待ちます。擦りません。


「何をなさっているのですか」


 ついてこられた方の一人が、そう仰いました。


「汚れを落としております」


「それで、何が分かるので」


「縫い取りが乗っていたところは、七年、日に当たっておりません。周りだけが焼けます。ですが、上に汚れが乗っておりますうちは、どちらも同じ色に見えます」


「落とすと」


「焼けた分だけが残ります。布は嘘をつきません」


 二枚目の右の隅から、薄い茶が綿へ移りました。


 三度目の綿で、隅に形が浮きました。


 糸を抜いた穴が、四十ほどでございます。穴の並びが、字の形をしております。


 わたくしは布を水に沈めて、二度すすぎ、絞らずに石の上へ広げました。


「落ちました」


 誰も、何も仰いませんでした。


 コンラート様が、隅に顔を近づけられました。


「被告。これは何だ」


「縫い取りを外した跡でございます」


「何が縫うてあった」


「穴の並びしか残っておりません。読むのは、わたくしの手のうちではございません」


 コンラート様は布を持ち上げて、日に透かされました。


 それから卓のほうを振り返って、家令の名をお呼びになりました。


 審理が閉じられたのは、日が落ちてからでございます。


 判じは十日のちに出ると仰いました。わたくしにはどちらでも同じでございます。焼けた布は、判じでは戻りません。


 役所の門を出ますと、後ろからニクラス様が参りました。


「少し、よろしいか」


「はい」


「一つ、伺いたい」


「どうぞ」


「なぜ、一言も当家を悪く仰らなかった」


「悪く申し上げることが、わたくしの仕事ではございませんので」


 ニクラス様は、上着の肩の糸くずを摘まんで、それから指から落とされました。


「こちらは、そこを待っておりました」


「さようでございますか」


「あなたが一言でも当家を悪く言えば、そこを突けた。恨みで七年ぶんを書いたのだと申し立てれば、あの帳は証しではなくなる。……そのために、訴状に襟の話を入れたのです」


「はい」


「一度も乗らなかった。責める行が一行も無い帳を、責める気の無い者が持ってきた。突く場所が、どこにも無かった」


 風が乾いておりました。


「あなたは、怒らなかったから勝ったのです」


 わたくしは、少し考えました。


「勝ってはおりません」


「では、何を」


「落としただけでございます」


 ニクラス様は、返事をなさいませんでした。それから、頭を下げて戻っていかれました。この方の上着の肩には、まだ糸くずが一本残っておりました。


 門の脇の石に、ヨナスさんが腰を下ろしておいででした。指が新しく青うございます。甕が生きた色でございました。


「——で、落ちたのか」


「落ちました」


 坂を下りながら、ヨナスさんは二度、振り返っておいででした。


「あんた、二日で何回喋った」


「数えておりません」


「七年ぶん黙って、二日ぶん喋って、それで一発も殴らずに終わったな」


「殴っておりません」


「そこだよ」


 灰汁町に戻りましたのは、夜でございました。


 ドーラさんが、火の前に座っておいででした。膝の上に、麻布の包みが一つ。この方が座って何かを膝に載せていらっしゃるのを、わたくしは初めて見ました。


「あんた、勝ったんだってね」


「そう伺いました」


 ドーラさんは、包みの結び目に指を掛けて、そのまま少しのあいだ止めておいででした。火の粉が一つ、上がって消えました。


「……一つ、見てもらおうかと思ってね」


「拝見いたします」


 結び目が解かれて、麻布の端が開きました。中に、白い麻が畳んでございます。古うございました。畳み目の山が擦り切れて薄うなっております。十年は畳んだままだったものでございました。


 隅のほうに、色が見えました。


 匂いを嗅ごうといたしましたところで、ドーラさんが布を戻されました。


「やっぱり、今日はやめとくよ」


「はい」


「十二年しまってた。今日じゃなくていい」


「はい」


「あんた、訊かないんだね」


「訊けば、開けなくてはなりませんので」


 ドーラさんは火に木を一本くべて、包みを膝へ載せ直されました。


 わたくしが見たのは、隅の、爪の先ほどでございます。何であるかは分かりませんでした。ただ、あれは落ちていない染みでございました。

【落ちました】


エルナは、一度も糾弾いたしません。第一部の三十話を通して、一度もいたしません。それでも全部出てまいります。出しましたのは、七年ぶんの頁でございます。


第三章「王家の女官」は、ここまで。ドーラさんが十二年しまっていた布は、まだ広げておりません。次回は、勝ったあとの、何も変わらない日常から始まります。


ブックマークと評価は、干し場の綱をもう一本張る足しになります。

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