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その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


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第23話 誰も白布を洗えない

判じが出るまでの十日のあいだに、変わったことは何もございませんでした。


 朝に桶を洗い、湯を沸かし、前掛けと襦袢と、井戸番の奥様の肌着を洗いました。指の割れが二本増えました。夜に油を塗って、朝までに乾かします。


 判じというものは、待っているあいだ何も起こしません。役所から人が来ることも、書き付けが届くこともございません。ただ十日が過ぎるだけでございます。


 わたくしはその十日で、桶を二つ、底を張り替えました。板は川下の材木屋の切れ端でございます。桶の底は真ん中から傷みますので、傷んでから替えるのではなく、傷む前に替えます。


「あんた」


「はい」


「勝ったんだろ」


「判じはまだでございます」


「でも勝ったんだろ。もっと何かあるもんじゃないのかい」


「何もございません」


「つまんないねえ」


「はい」


 ドーラさんは桶の水を捨てながら、鼻を鳴らされました。


「あたしはね、あんたが帰ってきた晩は酒だと思ってたんだよ」


「飲めませんので」


「知ってるよ。だから買わなかった」


 流しの前に立つ人の数は、少しずつ戻ってまいりました。前の週は四枚でしたが、この週は七枚ございます。


 増えた三枚のうち、二枚は前掛けでございました。前掛けは、その家でいちばん恥ずかしくない布でございます。まずそれを預けて、様子をご覧になって、それから肌着が参ります。順番は、どの町も同じでございました。


 噂が届きはじめたのは、四日目からでございます。


 この町の噂は洗い場から出て、洗い場へ戻ってまいります。布を持っていらっしゃる方が、布と一緒に持ってこられるのでございます。


「侯爵様の家、春の宴を断ったってさ」


「二度目だろ。前も断ってる」


「うちの人が、あそこの厨に納めてるんだけどね。今月は取りに来なかったって」


 洗い場の噂は、日ごとに形を変えてまいります。変わるのは中身ではなく、言い方のほうでございます。


 六日目には、こう変わっておりました。


「白布が出せないんだと」


「布が無いのかい」


「あるんだけどさ、黄色いんだと。客間に敷けないって」


「そんなことで宴を断つのかい」


「断つよ。あんた、卓布の黄色い家に、娘を嫁にやるかい」


 わたくしは、桶の底を洗っておりました。


 八日目には、こうなっておりました。


「使用人に暇を出してるらしいよ」


「畳むのかい」


「畳むって話だね。王都の屋敷は売って、領に引くって」


 ドーラさんが、火のほうから仰いました。


「あんた、見に行かないのかい」


「まいりません」


「一度くらい、見てやりゃいいのに」


「見に行っても、白くはなりませんので」


 十日目の朝に、路地の入口に娘が立っておりました。


 十六でございます。前掛けの紐を握っておりました。あの握り方を、わたくしは知っております。


「奥様」


「テア」


 テアは、そこから動きませんでした。わたくしのほうから参りました。


「歩いてまいりましたか」


「……はい。二日、かかりました」


 王都からこの町までは、荷車でしたら半日でございます。歩けば二日かかります。前掛けは洗ってございましたが、裾が乾ききらないまま歩いたのでしょう、下から三寸ほどが灰色になっておりました。


「靴をお脱ぎくださいませ。足の裏を見せていただきます」


「あの、それより」


「歩いてこられた方は、まず足でございます」


 テアの足の裏は、右の踵が破れておりました。血は乾いております。わたくしは湯を汲んで、塩を落として、綿を当てました。


 その間、テアは麻の袋を膝に抱えたままでおりました。


「これ、落ちますか」


 袋から出てまいりましたのは、卓布でございました。白い麻の、上等なもの。婚礼のために誂えたものでございます。畳んだ跡に折り目が三本、深く入っております。


 婚礼の卓布は、長いものでございます。広げますと、洗い場の石の縁から縁まで届きました。織りが細こうございます。細い織りほど、脂は奥へ入って出てまいりません。


 わたくしはこの布を、七年のあいだに何度も洗っております。誂えたのはわたくしではございませんが、洗ったのはわたくしでございました。畳み目の三本は、わたくしの畳み方ではございません。


 わたくしは日に透かしました。それから鼻を近づけて、指の腹で押しました。


 全面でございました。端から端まで、同じ色でございます。


「落ちません」


「……はい」


「これは染みではございません。染みでしたら落ちます」


「はい」


「灰を替えていない湯で、幾度も洗ったものでございます。脂が糸に残ったまま日に当たりますと、焼けます。焼けた布は、白には戻りません」


 テアは、布の端を握っておりました。


「わたし、二十度は洗いました」


「二十度」


「はい。落ちないので、三度目からは擦りました」


「さようでございますか」


「擦ってはいけなかったのですね」


「擦っても擦らなくても、これは同じでございます」


 テアは、しばらく卓布を見ておりました。


「奥様。あのとき、伺いそこねました」


「はい」


「灰は」


 わたくしは、桶を一つ引き寄せて腰を下ろしました。


「三日ごとに替えます。壺の上澄みだけを掬って、底は捨てます」


「捨てるのですか」


「捨てます。底に溜まったものが脂を戻しますので、あれを残しますと、替えたことになりません。上だけ足す方がおいでですけれど、それは足しただけでございます」


「……三日ごと」


「はい。日に二度布を動かす家でしたら、三日でございます」


 テアは、それを二度、口の中で繰り返しておりました。それから顔を上げました。


「奥様」


「はい」


「洗い場が、もうございません」


 わたくしは、桶の縁に手を掛けたままでおりました。


「石の流しは残っております。桶は売られました。壺も、篩も。……わたしも、暇を出されました」


「さようでございますか」


「三日ごとに替えるのだと、いま伺いました」


「はい」


「替えるものが、ございません」


 わたくしは、卓布を畳み直しました。折り目の三本は、畳み直しても消えません。


「桶は、底を張り替えれば十年持ちます」


「はい」


「壺は、割れていなければ、洗って乾かせば使えます」


「はい」


「覚えておいてくださいませ。いつか、置く場所ができましたときに」


「……はい」


 ドーラさんが火のほうから鍋を持ってきて、テアの前に置かれました。


「食いな」


「あの」


「歩いてきた子は、まず食うんだよ。足はそのあとだ」


「足は、もう見ていただきました」


「そうかい。じゃあ、なおさら食いな」


 昼過ぎに、ヨナスさんが路地から出てこられました。指が新しく青うございます。甕が生きた色でございました。


「あんた、聞いたか」


「何をでございますか」


「侯爵家、社交の名簿から消えたぞ。今年のに載ってない」


「さようでございますか」


「それだけか」


「はい」


「白布が出せない家は呼ばれないんだと。呼ばれない家は、呼べない。……そういう仕組みなんだな、あれ」


「はい」


 ヨナスさんは、干し場の綱の下をくぐって、テアのほうを一度ご覧になりました。それから、綱の柱に背を預けられました。


「あの家の連中さ」


「はい」


「自分が何を無くしたか、分かってると思うか」


 わたくしは、卓布を干し場へ運んでおりました。落ちない布でも、洗ったものは干します。


「分かりません」


「分からないだろうな。……白いもんが黄色くなったとしか思ってないだろ」


「そうかもしれません」


「あんたは、七年それをやってたんだよな」


「七年でございます」


 干し場の綱には、この町の前掛けが七枚ぶら下がっております。その端に、婚礼の卓布を掛けました。並べますと、上等なほうがくすんで見えます。上等な布は、手を掛けなければ、そのぶん早く落ちてまいります。


 日に当たっても、白くはなりません。ただ、乾きはいたします。


 テアは、鍋を空にして、それから鍋を洗って返しておりました。あの子は、洗い場で育った子でございます。


「それから、もう一つ」


「はい」


「あんたの妹、この町にいるらしいぞ」


 わたくしは、綱の端を結び直しました。


「どちらに」


「知らない。見かけたってのが、二人いる」


「二人でございますか」


「二人だ。……別の日に、別の場所でな」


 わたくしは桶の水を替えました。この町の水は、まだ硬うございます。

【落ちません】


勝っても、この町の水は硬いままでございます。侯爵家の解体は、町の噂として届くだけでございます。この作品の決着は、たいてい遠景でまいります。


次回、家令が弁明にまいります。エルナがいたしますのは、帳を見せることだけでございます。

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