第24話 家令の帳尻
審理から、十日が過ぎました。
灰汁町の朝は変わりません。堰の落ち口で水が鳴って、棒で布を打つ音が間を置かずに続きます。わたくしは一番端の流しで、桶の底を洗っておりました。
「あんた、聞いたか」
ヨナスさんが路地から出ていらっしゃいました。指の先が今日は濃うございます。昨日、甕を替えられたのでしょう。
「何をでございましょう」
「組合が揉めてる。昨日から寄合が三度だ。灰の蔵に錠が下りたってさ」
「さようでございますか」
「驚かないんだな」
「灰は逃げませんので」
ヨナスさんは肩だけで笑って、積んだ桶に腰を掛けられました。
その朝までに、客は二人参りました。前掛けの裾の油と、子供の襦袢の襟の汗でございます。銅貨で二枚ずついただきました。
「安いな」
「安うございます」
「審理で勝った女の値じゃないだろ」
「勝ってはおりません」
「じゃあ何だ」
「書いたものを、読んでいただいただけでございます」
ヨナスさんは何か仰りかけて、やめて、路地の先をご覧になりました。
黒い上着の男が、入口に立っておりました。
ずいぶん長いあいだ、そこに立っていらっしゃいました。行き止まりまで来た方は、みなあの位置で足を止められます。ハンナ様のときと同じでございました。
「奥様」
家令のボルツでございました。上着の肩に埃が乗っております。
ヨナスさんは立ち上がって、工房のほうへ戻っていかれました。戸口の内から、こちらをご覧になっているのが分かりました。
「奥様。少しだけ、お時間をいただけますか」
「洗い場は、どなたでもお使いになれます」
ボルツは積んだ桶に浅く腰を掛けて、膝の上で指を組みました。帳付けの、細い指でございます。
「私は、指図されたことをしておりました」
「はい」
「奥様を出せと申したのは、私ではございません」
「はい」
「布のことも、家の穴を埋めるためでございます。私の懐に入れたものは、一枚もございません」
「さようでございますか」
「……お怒りには、ならないのですね」
「怒っても、染みは落ちませんので」
ボルツは組んだ指を、一度、開いて閉じました。
「奥様。あの洗い場の帳は、あのように読まれるものではございません」
「わたくしは、落とした日を書いたきりでございます」
「読んだのは、人でございます」
「はい」
水を汲みに行く女の方が、わたくしたちの後ろを通りました。桶が石に当たる音がいたしました。ボルツはそちらを見て、それから、上着の袖を膝の上へ引きました。
「不躾を承知で、お願いがございます」
その方は上着を脱いで、両手で差し出されました。
「これを、落としていただきたいのです」
「拝見いたします」
黒の上着でございます。仕立ては悪くございません。身頃を二度、詰めております。詰めた糸の色が本体と違いますので、直したのはお屋敷の針ではございません。
染みは右の袖口にございました。長さが指二本、幅がその半分。縁が滲んでおりません。滲まないものは、一度にかかったのではなく、少しずつ重なったものでございます。
日に透かしました。それから、鼻を近づけました。
金気の匂いがいたします。その下に、膠のわずかな甘さがございました。
「墨でございますね」
「はい。帳を付けます手が、どうしても」
「二種類ございます」
「……は」
「こちらは五倍子と鉄でございます。お屋敷の帳にお使いのもの。日が経ちますと赤茶に寄ります。もう一つは煤と膠でございます。安うございまして、町の帳付けが使うものでございます。こちらは黒のまま残ります」
ボルツは袖口を見ました。それから、わたくしを見ました。
「……落ちますか」
「落ちます」
「では」
「承りません」
「なぜでございます」
わたくしは、お答えいたしませんでした。
膝の上の麻布を解いて、帳を出しました。表紙の波打ちを指で伸ばして、頁を繰ります。七年で三度綴じ直しております。繰る音は、紙よりも布に近うございます。
何度も開いた頁は、ひとりでに開きます。
「こちらでございます」
わたくしは、その頁の三行目を指しました。
ボルツが覗き込みました。
——黒の上着、家令、袖口、五倍子と鉄、それに煤。落ちた。
日付は、七年前の秋でございます。わたくしが嫁いで、二度目の秋でございました。
ボルツは、その一行から目を離しませんでした。
「……七年前」
「一度、お洗いしております」
「同じ、袖でございますな」
「はい」
わたくしは頁を閉じませんでした。閉じますと、閉じたことに意味が出ます。開いたまま、膝に置いておきました。
「奥様。審理の日に、なぜこの頁を」
「出しました」
「は」
「七年ぶんを、全部でございます。どの頁をご覧になるかは、わたくしが決めることではございません」
ボルツの指が、膝の上でまた開いて、閉じました。天板を叩く癖のある指でございます。叩くものが、今日はございませんでした。
「二冊目の帳のことは、どこで」
「存じません」
「……存じない」
「わたくしが存じておりますのは、墨が二種類あったということだけでございます」
ボルツは、しばらく袖口を見ておいででした。
「屋敷は、畳まれます」
「さようでございますか」
「私は、次を探さねばなりません。家令の上着に染みがあっては、話も聞いていただけませんので」
わたくしは上着をお返しいたしました。
「ぬるい湯をご用意くださいませ。熱くしてはなりません」
「……は」
「桶に酢を落として薄めて、布を裏返し、染みの下に白い綿を敷いてくださいませ。上から押します。擦ってはなりません。糸のあいだに入りますと、もう出てまいりません」
「押すだけで」
「押して、待ちます。綿を替えて、また押します。五度ほどで、煤のほうが先に出ます」
「……もう一つは」
「五倍子と鉄は、酢では動きません。そちらは残ります」
「残る」
「はい」
ボルツは上着を抱えて立ち上がりました。抱え方が悪うございます。胸に押しつけて、片手で押さえていらっしゃる。ああして持ちますと、折り癖がつきます。
申し上げませんでした。
路地の入口で、一度だけ振り返られました。
「奥様」
「はい」
「……あの帳は、七年、毎晩お書きになったのですか」
「毎晩ではございません。落とした日だけでございます」
「落とさなかった日は」
「ございません」
ボルツは頭を下げて、坂を上っていかれました。上着を抱えた背が、途中で一度、持ち替えるために止まりました。
わたくしは帳を麻布に包み直して、桶の水を替えました。
日が傾いて、干し場の影が川のほうへ伸びるころでございました。
女の方が一人、路地を下りてこられました。
背の高い方でございます。前掛けはなさっておりません。手の甲だけが、洗い場の人間の手でございました。
「あんた」
「マレーナさん」
「組合を出ることになったよ」
「さようでございますか」
「明後日の寄合で決まる。決まる前に来た」
「お掛けになりますか」
「立ってるよ」
マレーナさんは干し場の綱を一本、指で弾かれました。張り方をご覧になったのでございます。
「あんた、何もしなかったね」
「はい」
「灰も水も止めた。洗い場も荒らさせた。それでも、あんたは組合に一度も来なかった」
「はい」
「七年ぶん、書いてただけだ」
「はい」
「……腹が立つよ」
「さようでございますか」
「腹が立つのはあたしの勝手だ。あんたのせいじゃない」
マレーナさんは、綱から手を離されました。
「灰のことは、どこに書いてあった」
「こちらでございます」
わたくしは頁を繰りました。四年前の春の頁でございます。
——白布、寝台十二枚、黄ばみ。灰替え。落ちた。
その前の年まで、灰を替えた日は三日ごとに並んでおります。四年前の春から、九日ごとになりました。間が空いた日には、黄ばみの行が増えております。
「灰が、来なくなりましたので」
「……あの男だね」
「わたくしは、替えた日を書いております」
「あんたは、何も言わないんだね」
「はい」
マレーナさんは、頁をしばらくご覧になっておりました。指で触れようとして、途中でおやめになりました。濡れた手だったからでございます。
「あたしはね、あんたの腕を認めてた」
「存じております」
「認めてたから、潰そうとしたんだ。町にあんたみたいなのが一人いると、組合の言い値が通らなくなる」
「はい」
「……今も、そう思ってるよ」
「さようでございますか」
その方は坂のほうへ歩きかけて、途中で足を止められました。
「灰の蔵に、錠が下りた。誰の権利かは、誰も知らない。あの灰はヴァルデンの領地から出てたからね。出所の家が畳まれたら、権利はどこにも無いんだ」
「はい」
「あんたが取ればいい。あんたなら、あの量を回せる」
「灰は、焼くものでございます」
マレーナさんは、振り返りませんでした。坂の途中で、一度だけ肩が動きました。笑われたのだと思います。
日が落ちてから、ヨナスさんが工房の戸口に出てこられました。
「帰ったか」
「はい」
「二人ともか」
「はい」
「あんた、あの二人に何言った」
「上から下へ、押すだけでございます、と」
ヨナスさんは、桶の縁を指で弾かれました。
「蔵の錠、明日には切られるぞ」
「さようでございますか」
「誰の権利でもない灰を、この町の連中が、明日から誰の物だと思って焼くと思う」
その晩、堰の水音がいつもより高うございました。桶に張っておいた水の面が、朝より三本ぶん上がっております。
上流で、誰かが板を上げたのでございます。
【落としません】
上から下へ、押すだけでございます。——洗い方の話でございますが、この晩に限っては、別のことも申しております。誰の権利でもなくなった灰を、翌朝から町の者が焼きはじめます。
次回は、加害者視点の回です。アニエスが、自分で布を洗おうといたします。




