第25話 習わなかった手
宿の窓は、朝から開かない。
建て付けが悪いのではなく、開けると川の匂いが入るからだ。アニエスは三度試して、それきり触らないことにした。
部屋にあるのは寝台が一つと、脚の短い卓が一つ。壁に釘が二本打ってあって、そこに白い衣装が掛かっている。
婚礼の衣装である。ヴァルデンの屋敷を出るときに持ち出せたのは、これだけだった。
宿は灰汁町の東のはずれにある。安いからだ。川の匂いというのは、この町が朝から晩まで洗い物をしているからで、灰と湯と、少し酸いものが混ざった匂いである。
共同洗い場は、三本目の路地を折れたところにあるらしい。アニエスは、まだその路地を見ていない。
「アニエス様。よろしいですか」
下の階から、女中のゾフィが上がってきた。十七か、八だろう。前掛けの紐を後ろで結び直しながら段を上がってくる。
「買い取りの方が、下でお待ちです」
「今、まいります」
古着商はラウルと名乗った。四十がらみの、指の短い男だった。衣装を釘から外して卓に広げると、男は蝋燭を近づけて、袖から順に見ていった。
「絹でございますね。上物です」
「ええ」
「織りも良い。これは、王都の外のものですな」
「そう伺っておりますわ」
「お直しは、どちらで」
「屋敷の針でしたわ」
「腕の良い針でございます。この縫い代の取り方は、町では見ません」
「そうですの」
「……正直に申し上げてよろしいですか」
「どうぞ」
「裾に泥。それから、胸に蝋。この二つが無ければ、金貨で話ができました」
アニエスは胸元を見た。白い絹の上に、指の先ほどの丸いものが三つ、縦に並んでいる。少し黄色い。
「蝋は、削れば」
「絹は削れません。削ると毛が起きます。起きた毛は寝ません」
「洗えば」
「洗って落ちるものでしたら、とうに落ちておりましょう」
男は衣装を裏返して、裾の泥を見た。それから、指で二度、蝋のところを撫でた。
「銀貨で三枚」
「三枚」
「布としてなら、その値です。衣装としてはお引き受けできません。婚礼の衣装は、染みがあると誰も着ませんので」
「……洗ってから、もう一度お願いいたしますわ」
「洗われますか」
「ええ」
「では、また参ります」
男が出ていくと、ゾフィが卓を拭きにきた。
「洗われるんですか」
「ええ」
「洗い場は裏にございます。井戸の脇です」
「お湯は」
「湯なんて出ませんよ。井戸です」
「灰は、どちらに」
「灰? 竈の下にいくらでもありますけど」
裏の洗い場は、石を組んだ流しが二つあるだけだった。片方は割れていて、水が溜まらない。
アニエスは衣装を抱えて、割れていないほうの前に立った。
井戸の水は冷たかった。手を入れると、指の先から痛くなる。
蝋のところを水に浸けて、指で押してみた。動かない。もう一度押した。爪が立って、絹の目が少し寄った。
「そんなんじゃ落ちませんよ」
ゾフィが桶を提げて出てきた。
「アニエス様、それ、婚礼の衣装ですよね」
「ええ」
「もったいない。お召しになったんですか」
「……いいえ」
「じゃあ新品じゃないですか。新品なら、もっと高く売れますよ」
「そうね」
「擦らないと」
「擦るの」
「擦るに決まってるじゃないですか。あたしなんか、いつも棒で打ってますよ」
アニエスは両手で布を挟んで、擦った。三度擦ると、蝋のところが白く毛羽立った。毛羽立ったところは、前より目立った。
「熱いお湯のほうがいいですよ。脂は熱いのじゃないと」
「お湯は出ないと」
「竈で沸かせばいいんです」
鍋で湯を沸かして、胸元に掛けた。
蝋が溶けた。溶けて、丸かったものが、掌ほどに広がった。
アニエスは手を止めた。広がったところは、乾くとまた固まった。今度は輪郭が無い。どこまでが染みなのか、分からなくなっていた。
「灰を使ってごらんなさい。うちのおっかさんは何でも灰でした」
竈の下から灰を掬って、桶の水に入れた。上澄みを取るということを、アニエスは知らない。灰の混じった白い水をそのまま布に掛けて、押した。
絹は、押した端から黄色くなった。
もう一度水で流した。黄色は流れなかった。
「あら」
「……」
「絹に灰は駄目でしたっけ」
「……知りませんわ」
「うちのおっかさんは、絹なんて洗ったことないですから」
「あなたも」
「あたしもです。この宿で絹を洗うのは、アニエス様が初めてですよ」
「そう」
「絞らないと乾きませんよ。ここは日が入りませんから」
絞った。
絞ると水が抜けて、そこに輪ができた。輪は乾いても消えなかった。
三度目に絞ったとき、右手の人差し指の、爪の脇が割れた。
血は出なかった。ただ、そこから先に水が沁みるようになった。
アニエスは手を持ち上げて、しばらく見ていた。
十年前の、リント家の洗い場を思い出した。
冬だった。姉が桶の前に立っていて、指が割れていた。夜になると油を塗って、朝までに乾かしていた。乾かさないと絹に引っかかるのだと言っていた。
姉が振り返って、こちらへ手を出した。おいで、と言った。
アニエスは、その手を見た。
「わたくし、習わなくてよろしいでしょう? だって、あれはお仕事ではないもの」
あのとき、見下していたのではない。怖かったのだ。習えば、あの手になると思った。
いま、その手になりかけている。それでいて、絹はさらに黄色くなっていた。
次の日も、その次の日も洗った。
四日目には、胸元と裾の見分けがつかなくなっていた。全体が薄く濁って、光の当たる角度によって、濁りの濃いところと薄いところが動いた。
ラウルは、五日目に来た。
衣装を卓に広げて、蝋燭を近づけて、しばらく黙っていた。
「銀貨、一枚でございます」
「昨日は三枚と」
「昨日は絹でございました。今日は、黄ばんだ絹でございます」
「……直りませんの」
「直す者を、私は存じません」
「王都には、洗い場がいくつもあるでしょう」
「ございます。ただ、絹に灰を入れたものは、どこも断ります。灰は繊維を食いますので。食われたものは戻りません」
「戻らない」
「戻りません」
「では、袖だけでもお買いになれませんの。袖には染みがございませんわ」
「衣装は、切ると値が付きません」
「切らずに、そのままでも」
「そのままですと、胸が見えます」
男は帽子を取って、また被った。
「一枚で、いかがです」
アニエスは答えなかった。
男は待って、それから、卓の上に銀貨を一枚置いて出ていった。衣装は持っていかなかった。
「あの、置いていかれましたけど」
ゾフィが戸口から言った。
「あれは、いらないという意味です」
「……はあ」
アニエスは衣装を釘に掛け直そうとした。掛け直すには、肩の形を整えなければならない。整えようとして、肩の縫い目のところが、湯を掛けた日から縮んでいるのに気がついた。片方だけ、短い。
「お姉様に、教えていただけば……」
声に出てから、自分で驚いた。
「お姉様って」
「……いいえ」
「どなたか、いらっしゃるんですか」
「いいえ」
その晩、アニエスは自分の手を洗った。
石けんは無い。井戸の水で、爪の際を何度も擦った。
黒いものが残った。灰である。爪の脇の割れたところに入って、水では出てこない。
ゾフィが井戸端を通りかかって、覗き込んだ。
「それ、三日もすれば落ちますよ」
「三日」
「三日です。うちのおっかさんも、いつもそう言ってました」
アニエスは、繰り返した。
「……三日」
【落ちません】
石けんも、灰の使い方も、爪の際の落とし方も、どなたも教えてくださいませんでした。断ったのは、十年前のご自分でございます。三日、と言われて、三日、と繰り返すところで終わります。
次回、ユリウスが鏡を見ます。第一話でエルナが読んでいたものに、本人が最後に気づきます。




