第26話 襟
朝のうちに、雨が上がりました。
雨上がりは布が乾きません。それでも干します。干さずに畳みますと、折り目に湿りが残って、そこから黄ばみます。わたくしは綱を張り直して、白布のあいだを一枚ぶん広く取りました。
「あんた、間隔広いな」
ヨナスさんが工房の戸口から声を掛けてこられました。
「風が通りませんので」
「今日は風がないだろ」
「ございませんから、広く取ります」
「へえ」
「風がある日は、詰めても構いません」
ヨナスさんは首の後ろを掻いて、工房へ引っ込まれました。
昼前に、路地の入口に女の方が立たれました。
五十を少し過ぎておいででしょうか。前掛けをきちんと畳んで、腕に掛けていらっしゃいます。使っている人の前掛けの畳み方でございました。
「アガーテと申します」
「エルナと申します」
「……あの、ヴァルデンのお屋敷で、洗い場を預かっておりました」
「預かっておりました」
「先月まででございます。お屋敷が畳まれますので」
その方は、腕から包みを外して、流しの縁に置かれました。
「これを、見ていただきたいのでございます」
包みから出てまいりましたのは、襟でございました。上着から外した、当主の礼装の襟でございます。台の芯が入ったままでございました。
「外されたのですね」
「はい。本体は袖から先に傷んでおりましたので、襟だけを」
わたくしは襟を広げて、日に透かしました。それから、鼻を近づけました。
匂いはほとんど飛んでおります。飛んだあとに残るものが、日に透かすと見えます。
「重なっております」
「……重なる」
「同じところに、何度も。一番古いもので、三年より前でございます。新しいもので、四月ほど」
「屋敷では、椿油と白粉だと申しておりました」
「さようでございますか」
わたくしはそう申し上げて、襟を裏返しました。裏の芯まで通っております。表から入ったものが芯で止まって、そこで層になっております。層になったものは、上から数えることができます。
「奥様、いえ、あの」
「エルナと申します」
「……エルナさん。落ちますでしょうか」
「落ちます」
「本当でございますか」
「はい」
「わたくし、三月やってみました。灰を強くもいたしましたし、擦りもいたしました。落ちないどころか、日に透かすと、前より広くなっております」
「擦ってはなりません」
「……は」
「油は、擦りますと糸のあいだへ入ります。入ってしまったものは、もう出てまいりません。上から下へ移すものでございます。下に白い綿を敷いて、押します」
「押す」
「押して、待ちます」
アガーテさんは襟を見ました。それから、両手をご自分の前掛けで拭かれました。乾いた手を拭く癖のある方でございます。長く洗い場に立った方は、そうなります。
「では、お願いできますでしょうか」
「承りません」
その方は、顔を上げられました。
「……落ちると、仰いましたが」
「落ちます」
「では、なぜ」
わたくしは襟を畳んで、包みの上に戻しました。
「あなた様が落とせます」
「わたくしが」
「はい」
「三月やって、落ちませんでした」
「湯が違います」
アガーテさんは、包みの結び目に手を掛けたまま止まられました。
「灰を三日ごとに替えた湯をお使いくださいませ。替えていない湯で洗いますと、落ちたように見えて、生地の目に残ります。残ったところは、次に洗うときに前のものと重なります」
「三日ごと」
「三日ごとでございます。三日を過ぎますと、灰汁の力が落ちます。落ちた力で洗うと、汚れが浮いて、また戻ります」
「……戻る」
「はい。ですから、三年ぶん重なっております」
アガーテさんは、しばらく襟をご覧になっておりました。
「お屋敷の洗い場には、道具が何も残っておりませんでした」
「さようでございますか」
「壺だけがございました。壁際の、大きな」
「篩は、窓の下に伏せてございませんでしたか」
「ございませんでした」
「さようでございますか」
「わたくし、篩の目を通した灰を使ったことがございません。竈のを、そのまま」
「粗い灰は、布に残ります。残った粒が、次の日に染みになります」
「……そういうことでございますか」
その方は、包みを結び直されました。結び方が、来たときより急いでおりました。
「エルナさん。もう一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「わたくしに、できましょうか」
「できます」
「即答なさるのですね」
「前掛けの畳み方でお分かりになります」
アガーテさんは、自分の腕に掛けた前掛けをご覧になりました。それから、少し笑われました。
「屋敷では、ずっと『前の奥様』と申しておりました。お名前を存じませんでした」
「エルナと申します」
「家名は」
「ございません」
その方は頭を下げて、坂を上っていかれました。
「あんた、また金にならない仕事したろ」
ヨナスさんが戸口から顔をお出しになりました。
「しておりません」
「してないのか」
「断りました」
「断って、やり方だけ教えたな」
「……はい」
「——で、落ちるのか」
「落ちます。あの方の手でしたら、三月はかかりません」
「教えちまっていいのか。あんたの飯の種だろ」
「同じ染みは、二度ございませんので」
ヨナスさんは何か言いかけて、やめて、藍の桶を運びに戻られました。
日が傾いてから、坂の上のほうで車輪の音がいたしました。
荷車が二台。王都の南へ抜ける道は、この町の川沿いを通ります。屋敷を畳んだ荷は、川船に載せるのでございましょう。
わたくしは干し場で、白布を取り込んでおりました。
荷車の脇を歩いていらっしゃる方がおいででした。
「エルナ」
ヴァルデン侯爵様でございました。
わたくしは布を抱えたまま、頭を下げました。
「ヴァルデン侯爵様」
「……この町か」
「はい」
「そうか」
それきりでいらっしゃいました。この方は声を荒げません。人前で誰かに何かを言うことを、格に合わないとお考えになります。今は、人前でもございませんでした。
「エルナ」
「はい」
「……いや」
布が、腕の中で重うございました。雨上がりの布は湿りを吸います。取り込むのが遅れますと、夕方の分をもう一度吸います。わたくしは端を持ち直しました。
わたくしは、白布の端を見ておりました。
「お気をつけて」
「……ああ」
荷車が坂を下りていきます。轍が二本、濡れた道に残りました。
ヴァルデン侯爵様は、洗い場の脇のたらいの前で、足を止められました。
たらいには昼の水が張ってございます。汲み置きの水は、夕方には落ち着いて、上が鏡のようになります。
その方は、水面をご覧になっておりました。
それから、片手を襟のあたりへ持っていかれました。指で二度、そこを擦られました。
埃でも付いておりましたのでしょう。
わたくしは白布を抱え直して、物置のほうへ運びました。乾いた布は、日が落ちる前に畳まなければなりません。畳むのが遅れますと、折り目に湿りが残ります。
「今の、誰だ」
ヨナスさんが、たらいの水を捨てながら仰いました。
「前の家の方でございます」
「……ふうん」
「はい」
「あんた、顔も上げなかったな」
「布を持っておりましたので」
「そういうことにしとくか」
「そういうことでございます」
ヨナスさんは、たらいを伏せて置かれました。
ドーラさんが火のほうから来て、わたくしの前に立たれました。
「あんた」
「はい」
「今日はもう終いかい」
「終いでございます」
「……そうかい」
ドーラさんは、それきり何も仰いませんでした。物置の梯子の下に立って、上をご覧になっておりました。
あの二階には、わたくしの荷しかございません。
いえ。ドーラさんが上に何かを置いていらっしゃるのを、わたくしは一度だけ見たことがございます。
【落としません】
第一話の襟が、ここで一周いたします。読者の皆さまは二十五話ぶん前からご存じで、本人だけが今日知ります。そしてエルナは、この件を最後まで知りません。知らせる筋がございませんので。
次回、唯一落とせない布が出てまいります。
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