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その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


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第27話 落ちない染み

新しい桶が二つ、届きました。


 運んでこられたのは桶屋のヴィルヘルムさんでございます。六十を過ぎた、腰の低い方でございました。


「注文の分だ。底は樫にしといたよ」


「ありがとうございます」


「あんた、酢を使うだろ」


「使います」


「酢に負けない木は高いんだ。まけといた」


「よろしいのですか」


「よかない。次から取る」


「では、次からいただきます」


「あんた、桶の底が抜けるまで使うだろう」


「使います」


「うちは底だけ替えに来る商売だ。抜けない桶を売ると、あたしが困る」


「では、抜ける桶を」


「そうもいかない。抜ける桶を売ると、あんたが困る」


 ヴィルヘルムさんは笑って、空の荷車を引いて坂を上っていかれました。


 この十日で、洗い場の前を通る人の歩き方が変わりました。前は、こちらを見ないようにして通り過ぎる方が多うございました。今は、見て、それから通り過ぎられます。


 その日の仕事は三つでございました。


 子供の襦袢の襟の汗。前掛けの裾の油。それから、婚礼から二十年経った麻の卓布の、折り目の黄ばみでございます。三つとも落ちました。三つとも、銅貨で二枚ずついただきました。


「あんた、値を上げないな」


 ヨナスさんが、藍の甕から布を引き上げながら仰いました。工房の戸を開け放してございますので、洗い場から手元が見えます。


「上げますと、持ってこられなくなります」


「持ってこられなくていいだろ。あんた、忙しいんだから」


「忙しくございません」


「三つやったろ」


「三つでございます。七年前は、朝までに二十六枚を回しておりました」


「……あんた、それ自慢か」


「事実でございます」


「自慢だな」


 ヨナスさんは布を桁に掛けて、水を切られました。藍の水が落ちて、地面に濃い筋を作ります。


「そういや、蔵の錠は切られたぞ」


「伺いました」


「町の連中が三軒で分けた。灰の質は落ちるだろうな。焼き方を知らないやつが焼く」


「はい」


「あんたは焼かないのか」


「焼き方を、まだ教わっておりません」


「習うのか」


「習います」


「誰にだ」


「教えてくださる方が、一人おいででございます」


「ドーラか」


「はい」


「あの婆さん、教えるかね」


「伺っておりません」


「訊けよ」


「訊く順番がございます」


「順番」


「先に伺うことが、まだ残っております」


 日が落ちてから、ドーラさんが物置の梯子を上っていかれました。


 梯子が軋みます。ドーラさんが上まで行かれるのは、屋根を直した去年の秋以来でございました。


 下りてこられたとき、腕に麻の包みがございました。


「あんた、手を止めな」


「はい」


 ドーラさんは包みを流しの縁に置いて、結び目を解かれました。


 布が一枚。麻でございます。四つに折ってございました。


 折り目が焼けております。長いあいだ同じ形で置かれた布は、折り目から先に黄ばみます。十年より前のものでございました。


 わたくしは手を洗って、拭いてから、布を広げました。


 中ほどに、染みがございました。


 掌よりも小そうございます。輪郭が二重になっております。外の輪が薄く、内の輪が濃い。内の濃いところの、その中心が、また薄うございました。


 匂いはございません。古い染みは匂いが飛びます。飛んでも、残るものは残ります。鼻を近づけて、二度、深く吸いました。何もございませんでした。


 日に透かしました。糸は生きております。麻の目が詰んでおりまして、上等なものでございました。この詰み方の麻を、わたくしは七年のあいだに二度しか扱っておりません。


「あんたの母さんのだ」


 わたくしは布を持ったままでおりました。


「レナだよ。あんたの母親の、レナだ」


「はい」


「十二年前にね。王城へ上がる日の朝に、うちの洗い場に置いていった。夕方に取りに来るって言って、置いてったんだ」


「取りには」


「来なかった」


「そのあとは、どなたが」


「誰も来ないよ。リントの家からも、王城からも、誰も来なかった」


「はい」


「三月経ってから、あたしが一度だけ届けに行った」


「王城へでございますか」


「門から先へは入れなかったよ。それきりだ」


 ドーラさんは腕を組まれました。


「あたしはね、十二年これを黙ってた」


「はい」


「あんたが来た日に、渡そうかと思った。渡さなかった」


「はい」


「聞かないのかい。なんで渡さなかったのかって」


「伺いません」


「……あんた、そういうとこが母さんそっくりだよ」


 わたくしは湯を沸かしました。


 熱くはいたしません。ぬるい湯でございます。


 桶に酢を落として薄めて、布を裏返し、染みの下に白い綿を敷きました。


 湯を含ませる。押す。待つ。綿を替える。


 綿は白いままでございました。


 二度目の綿も、三度目の綿も、白いままでございます。


 酢をやめて、灰汁を薄く当ててみました。黒くなりません。薄くもなりません。


 冷たい水に移して、縁から中へ押しました。輪郭は、外の輪も内の輪も、そのままでございます。


 もう一度、日に透かしました。染みのあるところだけ、糸の目が詰んでおります。


 わたくしは、手を止めました。


「どうだ」


 ヨナスさんが、いつのまにか後ろに立っておいででした。


 わたくしは布を水から上げて、絞らずに、綿の上に置きました。


「——で、落ちるのか」


 これは口癖でございます。ヨナスさんは、この言葉で色々なことをお尋ねになります。


 わたくしは、布を見ておりました。


「これは、まだ落とせません」


 ドーラさんが、桶の縁から手を離されました。ヨナスさんは何も仰いませんでした。洗い場の水音だけが、いつもどおり続いております。


「まだ、ってのは」


 ドーラさんが仰いました。


「今のわたくしには、この染みが何だか分かりません」


「分からないのかい」


「分かりません」


「あんたが分からないもんが、あるのかい」


「ございます。分からないものは、分かりませんと申し上げます」


 わたくしは、指を三本立てました。


「湯で動きません。酢でも動きません。灰でも動きません。この三つで動かないものを、わたくしは二つしか存じません」


「二つ」


「一つは、染めでございます。糸の芯まで色が入っているもの。けれども、これは染めではございません。芯が白うございます」


「もう一つは」


「……布のほうが変わってしまったものでございます」


「布のほう」


「布が、何かに当たって、そこだけ別の布になっている。そうなりますと、落とすものが、もうございません」


 ヨナスさんが布を覗き込まれました。


「そういうの、見たことあるか」


「一度ございます。染物屋の桶に落ちた布でございました。あれは色が付いておりました。これは付いておりません」


「じゃあ違うな」


「違います」


「じゃあ、三つ目だ」


「はい」


 布を裏返して、四方の端を順に見てまいりました。三方には何もございません。四方目の、折り目に隠れる位置に、跡がございました。


 もう一度、日に透かしました。


 縫い取りがしてございました。糸は抜けております。けれども、糸を抜いた跡は残ります。針の通った穴は塞がりません。


「ドーラさん。この端の縫い取りは、どちらのものでございましょう」


「……知らないよ」


「数が、三つ並んでおります」


「あたしは字が読めない」


 ヨナスさんが顔を近づけられました。


「数だな。三つだ」


「はい」


「布に番号を振るのは、数が多いとこだけだぞ。屋敷じゃやらない。洗い場が一つしかないからな」


「はい」


「王城だな」


 ドーラさんが、火のほうへ歩いていかれました。木を一本、くべ足す音がいたしました。


 わたくしは布を畳みました。


 四つにではなく、折り目を替えて、三つに折りました。同じところで折り続けますと、そこから先に傷みます。


 母は、十二年前の朝、この布を持ってこの洗い場へ来て、置いていったそうでございます。


 そして、夕方に取りに来ると申したそうでございます。


 取りに来るつもりの人間は、布を置いていきます。

【落ちません】


主人公が初めて「落とせません」と申します。持ち主は、十二年前の朝にこの洗い場へ布を置いて、夕方に取りに来ると申したきりでございます。取りに来るつもりの人間は、布を置いていきます。


次回、灰は、三日ごとに。第一話の台詞が、返ってまいります。

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