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その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


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第28話 灰は、三日ごとに

母の布は、物置の二階に置いてございます。


 麻の袋に入れて、藁の上ではなく、脚の折れた台の上に載せました。床に置きますと、下から湿りが上がります。湿りは布の中で動きますので、落ちない染みは、置き方ひとつで滲みます。


 三日、わたくしはそれを開いておりません。


 開かないまま、湯を沸かし、桶を洗い、綱を張り、依頼を受けて、また湯を沸かしておりました。手は動きます。手が動いているあいだは、何も決めなくてよろしゅうございます。


 王城への文は、二度書きかけてやめました。


 一度目は、書き出しの敬称のところで。二度目は、母の名を書こうとしたところでございます。ハルトヴィヒ様が王城へ上がられたのは九年前だと伺いました。十二年前の洗濯場に、あの方はいらっしゃいません。名を書いても、お分かりにはなりません。


 お分かりにならない名を書いて、何をお尋ねするのか。そこが決まっておりませんでした。


「あんた、王城の女官様に文を出したかい」


 ドーラさんが、火の前から仰いました。


「まだでございます」


「出すのかい」


「出しますと、伺うことになります」


「そうだね」


「伺いますと、しばらく戻れません」


 ドーラさんは木を一本くべ足されました。この方は、聞かないことで人を追い詰めない方でございます。


「ドーラさん」


「なんだい」


「もし、わたくしが町を出ましたら、この流しは」


「空くね」


「……はい」


「空いた流しは、次の誰かが使うよ。うちはそういう商売だ」


「はい」


「戻ってきたら、また空けてやる。ただし端のほうだ。水の遠いところ」


「あそこは、日が長うございます」


「知ってて貸したんだよ」


 わたくしは桶をすすぎました。ドーラさんは火のほうへ向き直られました。


「決めるのはあんただ。あたしはね、決めた人間しか見たことがない。決めなかった人間は、いつのまにかいなくなってる」


 昼過ぎに、路地から声がいたしました。


「おい」


 ヨナスさんでございました。肩に前掛けを掛けて、片手に何も提げておいでになりません。


「今日は頼む」


「何をでございましょう」


 ヨナスさんは肩の前掛けを外して、わたくしの桶の縁に放りました。麻の厚い前掛けで、裾のほうまで藍が食い込んでおります。


 初めてお会いした日と、同じ置き方でございました。


「裾の油」


「六年ぶんございます」


「六年ぶんだな」


「あのときは、要らないと仰いました」


「言った」


「油の染みが一つあったって、誰も困らない、と」


「よく覚えてるな」


「帳に書いてございます」


 ヨナスさんは笑いました。声を出さずに、肩だけで笑う方でございます。


 わたくしは前掛けを広げて、日に透かしました。


 藍は、糸の芯まで入っております。これは染みではございません。落とすものではございません。裾の右の端だけが、光を通す位置が違います。油は藍の上に乗っておりますので、透かすと、そこだけ膜が浮いて見えます。


「落ちます」


「——で、いくらだ」


「銅貨で一枚いただきます」


「安いな」


「六年経っておりますが、油は油でございます。日を浴びておりませんので、焼けておりません。工房の中においでだったからでございます」


「表で干さないからな」


「はい」


 湯をぬるく沸かしました。


 布の下に綿を敷いて、上から湯を含ませます。押す。綿を替える。押して、待つ。


 藍は動きません。動かないものの上に乗った油だけが、下へ落ちてまいります。落ちる先を作ってやりませんと、藍のあいだへ入るだけでございます。


 綿を三度替えました。


 ヨナスさんは、流しの縁に腰を掛けて、それを見ておいででした。


「あんた、灰の壺、増やしたな」


「三つにいたしました」


「三日ごとに替えるには、三つ要るからか」


「はい。一つ使って、一つ寝かせて、一つ焼き上がりを待ちます」


「なるほどな」


 ヨナスさんは、それから、少し間を置いて仰いました。


「うちは四つある」


「四つ」


「甕が七つあるからな。灰は、三日ごとに替えてある」


 わたくしは、綿を替える手を止めました。


 替えている、ではございませんでした。替えてある、と仰いました。


「いつからでございますか」


「六年」


「六年」


「親父が死んで、甕を継いだ日からだ。それまでは親父のやり方でやってた。親父は替えなかった。足してた」


「足すと、濁ります」


「濁った。十年濁ってた。うちの藍は、この町でいちばん濁ってるって言われてた」


「では、六年前に、どなたかに教わって」


「いや」


 ヨナスさんは、自分の手の甲をご覧になりました。指の股まで青い手でございます。


「教わったのは、もっと前だ。十七のときだ」


「十七」


「この町に、灰を焼いてる人がいた。毎朝、工房の裏の道を通ってた。おれが甕の縁で親父に怒鳴られてるのを、二回か三回見てる。三回目に、一言だけ言って行った」


「何と」


「灰は、三日ごとに替えろ。替えないと、白いものが黄ばむ」


 わたくしは、綿を持ったままでおりました。


 白いものが黄ばむ、と仰いました。藍の工房で。白など一枚も置いていない場所で。


「意味が分からなかった」


「はい」


「分からないまま覚えてた。十二年、意味の分からない一言を持ってた。六年前に甕を継いで、初めてやってみた。三日ごとに替えた。ひと月で濁りが引いた」


「……その方のお名前を」


「聞いてない」


「はい」


「聞こうと思ったころには、もういなかった。その年の暮れだ。王城へ行ったって話だった」


 十二年前でございます。


 わたくしは、綿を四枚目に替えました。手が動いておりましたので、顔のほうは、どうにかなっておりました。


「あんたが来て、同じことを言った。町に着いた次の日にな」


「……はい」


「そのときに、ああ、と思った。十二年かかった」


「十二年」


「長いだろ」


「長うございます」


「けど、濁ってた十年よりは短い」


 わたくしは湯を替えました。


「ヨナスさん」


「ああ」


「その方は、どんな手をしておいででしたか」


「手」


「はい」


 ヨナスさんは、しばらく黙っておいででした。


「爪が短かった。それから、右の親指の腹に、硬いのがあった。ここだ」


 ご自分の親指を立ててお見せになりました。


 わたくしの親指にも、同じところに硬いものがございます。布を押す指でございますので。


「……さようでございますか」


「あんたと同じだな」


「同じでございます」


「顔は覚えてない。十七だったからな。灰を焼いてる女は、この町に何人もいた」


「はい」


「けど、白の話をした人は、一人だけだった」


 五枚目の綿の真ん中に、うっすらと油の色が丸く移りました。


 水に沈めて、二度すすぎ、絞らずに日向へ運びました。


「落ちました」


 前掛けは、藍でございました。ただの藍でございます。


 ヨナスさんは、それを受け取って、裾を日に向けられました。それから、肩に掛け直されました。


「なあ」


「はい」


「あんた、出てくのか」


 綱の下を風が抜けました。干した白が一斉に膨らんで、それから戻ります。


「まだ、決めておりません」


「決めろとは言わない」


「はい」


「ただ、決めるときに、灰のことだけ考えて決めるなよ。灰は、こっちにもある」


 わたくしは、しばらく綱を見ておりました。


「ヨナスさん」


「なんだ」


「……ありがとう」


 ヨナスさんは、手を止めてこちらをご覧になりました。


「今、ございますって言わなかったな」


「申しません」


「ふうん」


 そう仰って、路地のほうへ歩いていかれました。途中で一度、肩の前掛けを直しておいででした。


 わたくしは桶をすすぎ、湯を落とし、綱の位置を直しました。


 それから物置の二階へ上がって、母の布の袋を、日の当たらない側へ半寸だけ動かしました。

【落ちました】


二話目からずっと替えていた、という話でございました。ランニングギャグは笑っていただくために置くのではなく、こういう日のために置いております。エルナが敬体を崩しますのは、第一部でここ一度きりでございます。


次回、自分の名で洗い場を借ります。板は、まだ掛けておりません。


ブックマークと評価をいただけますと、湯をもう一度多く沸かせます。

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