第29話 名前のある洗い場
川沿いの三軒目に、空いた作業場がございました。
もとは桶屋の仕事場で、ヴィルヘルムさんが息子さんに商いを渡したときに使わなくなった建物でございます。桶の板を並べるための土間が広く取ってあって、水が抜けるように床が傾いております。
「洗い場にするなら、いい傾きだよ」
ヴィルヘルムさんは、杖の先で床を叩かれました。
「桶屋の床は、水を落とすようにできてる。洗い場も同じだろう」
「同じでございます」
「日は」
「南が空いております。塀が低うございますので、昼を過ぎても日が届きます」
「見るところが、わしらと同じだな」
証文は、その日のうちに整いました。
ヴィルヘルムさんの息子さんが紙を書き、わたくしが名前を入れることになりました。
「借主のお名前を」
「エルナと申します」
「家名は」
筆が止まりました。わたくしの側でございます。
この町に参りましてから、家名を尋ねられたのは二度目でございます。一度目はドーラさんで、あのときは「ございません」と申し上げました。
「無しでも書けますよ」
「書けますか」
「この町じゃ半分がそうです。屋号でもいい」
「屋号」
「うちは桶のヴィルヘルムで通ってます。父の代からずっと」
わたくしは、しばらく紙を見ておりました。
ヴァルデンではございません。あれは七年借りていた名でございます。
「リント、と入れてくださいませ」
「リント様」
「はい」
「では、エルナ・リント様。判をここへ」
「判はございません」
「では、指で」
墨を指の腹に取って、紙の隅へ押しました。指の紋は、押した力で太さが変わります。強く押しますと潰れて、誰の指か分からなくなります。
軽く押して、離しました。
書かれた字を、しばらく見ておりました。
七年のあいだ、わたくしが立っていた洗い場には、誰の名も付いておりませんでした。あそこは「洗い場」でございました。それだけで通りますし、それで足りておりました。
紙の上の名は、思ったよりも短うございます。
荷は、テアと二人で運びました。
桶が六つ、綿の束、酢の甕、綱、篩。それから帳でございます。帳だけは、この子に持たせませんでした。
「重いですか」
「重うございません」
「わたし、それ持てますよ」
「持てます。持てますが、これは、落としますと綴じが外れます」
「じゃあ、桶を三つ持ちます」
「二つになさい。三つ持つと、下の一つが見えません。見えないものを抱えて坂を下りますと、足のほうが先に転びます」
テアは桶を二つ持って、坂を下りました。
新しい土間に入れますと、この子は真っ先に床の傾きへ行って、しゃがみ込みました。
「水、ここへ落ちますね」
「はい」
「じゃあ、桶はこっち側」
「なぜでございましょう」
「桶を洗った水が、流しの下を通らないから」
わたくしは、この子にそれを教えておりません。
その晩、ドーラさんに灰を焼いていただきました。
いただいた、と申しますより、隣で立たせていただきました。ドーラさんは火の前に樫の枝を組んで、それから、こちらへ顎をしゃくられました。
「あんたが組みな」
「わたくしがでございますか」
「見てただろう、春から」
「見ておりました」
「じゃあ組める」
わたくしは枝を組みました。三本目のところで、ドーラさんの手が伸びてまいりました。
「そこは寝かせる。立てると、下が先に燃えて灰が荒れる」
「はい」
「荒れた灰は、力が偏るんだ。強いところと弱いところができる。白を上げるときに、まだらになるのはそれだよ」
「まだらは、水のせいだと思っておりました」
「水も半分。灰が半分」
火が入りました。
樫と、柴と、水に浸けて乾かした桑。三種の木でございます。桑を混ぜる理由は、初めて灰を焼いた晩にドーラさんへ伺いました。渋が抜けているので、灰にしたときに脂が残らないのだそうでございます。
「順番があるんだ」
「順番」
「樫を先に燃やす。柴は途中で足す。桑は最後だ。桑を先に入れると、いちばん柔らかいのが先に灰になって、下に沈む。沈んだやつは、水に浸けても上澄みに出てこない」
「……存じませんでした」
「知らないだろうね。あたしも、教わるまで知らなかった」
「どなたに」
ドーラさんは、火のほうをご覧になったままでおられました。
「三十年前に、ここに立ってた人だよ」
「三十年前」
「あたしが三十二のときだ。そのころは桶を洗うことしか知らなかった」
「その方のお名前は」
「知らないよ」
「三十年、ご一緒でしたのに」
「一緒じゃない。半年だ。半年いて、いなくなった。名前は一度も聞かなかった」
ドーラさんは、火のほうをご覧になったままでおられました。
「この町はね、名前が残らないんだ。残るのは手だよ。順番と、力の入れ方と、匂いの覚え方。それだけが次の人間の手に移る」
「はい」
「あんたの母さんも、名前は残さなかった」
「……はい」
「けど、灰の焼き方は残った。あたしの手に残って、今、あんたの手に移ってる」
わたくしは、木を足しました。
夜半に一度、灰を掻き寄せて、その上へ木を足します。一度に焼きますと灰が荒れます。荒れた灰は白を上げません。
二度目に掻き寄せたとき、ドーラさんが前掛けを外して、わたくしのほうへ寄越されました。
「ついでだ。これも見とくれ」
厚い麻の前掛けでございました。もとは生成りだったはずでございますが、今は色が付いております。灰の色でございます。
膝から下が、殊に濃うございました。
「三十年やると、こうなるんだね」
「はい」
「落ちるかい」
わたくしは日に透かす代わりに、火の明かりに透かしました。
灰は、布の外に付いているのではございません。糸の芯まで入っております。灰汁は水を通しますので、洗うたびに、少しずつ内側へ運ばれます。三十年ぶんが、内側に積んでございました。
「落ちます」
「そうかい」
「二日いただければ、生成りに戻ります」
「じゃあ頼むよ」
「承りません」
ドーラさんが、こちらをご覧になりました。
「なんだって」
「落とせます。けれども、承りません」
火の音だけがしておりました。木の中の水が、内側で鳴っております。
「これは、染みではございませんので」
「灰は染みだろ」
「ドーラさんが焼いた灰でございます。三十年ぶん、ご自分で焼いて、ご自分で使ったものが、内側に入っております。落としますと、三十年が生成りになります」
「……戻るだけだろう」
「戻ります。戻りますが、この色は、もう一度は作れません」
ドーラさんは、前掛けを取り返して、膝の上に広げられました。指で、濃いところを撫でていらっしゃいます。
「あんた、母親そっくりだね」
「よく仰います」
「あの人も断ったんだ。同じ前掛けを、断った」
わたくしは、火に木を足しました。
「あのときは、意地悪だと思ったよ」
「はい」
「三十年経つと、意地悪じゃなかったって分かる」
灰が上がったのは、明け方でございました。
白い灰でございます。掻き寄せて、壺へ移して、蓋を掛けます。壺は三つ。一つ使って、一つ寝かせて、一つが焼き上がりを待ちます。
「持っていきな」
「一つで充分でございます」
「三つ持っていきな。三日ごとに替えるんだろ」
「……はい」
「あたしはね、あんたに場所を貸しただけだよ。灰は貸してない。灰は、あんたが焼いた」
わたくしは壺を三つ抱えて、坂を三軒ぶん下りました。
新しい土間に、壺を並べました。壁際に一つ、窓の下に二つ。窓の下は日が入りますので、寝かせるほうを置きます。
板は、まだ掛けておりません。
初めに掛けた板は、ドーラさんの洗い場の柱に残してまいりました。あそこはあそこで、まだ客が参ります。
新しい板は、戸口に立て掛けてございます。
墨は、ヨナスさんに借りました。工房の墨は膠が濃うございますので、雨に当たっても流れません。
書くのは、明日でございます。
【落としません】
灰は貸していない、あんたが焼いた。——場所を貸しただけだと仰る方の、いちばん長い一言でございました。壺を三つ抱えて、坂を三軒ぶん下ります。
次回、最終話。板に、字を書きます。




