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その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


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第30話 その染みは、わたくしにしか落とせません

板に字を入れましたのは、朝のうちでございます。


 墨は膠が濃うございますので、筆をゆっくり運びませんと、糸を引きます。板の木目は縦でございますから、横の線から先に入れます。縦から入れますと、木目が墨を吸って、線が太ります。


 書きましたのは、二行でございます。


 落ちない染み、承ります。


 その下に、エルナ、と。


 ヴィルヘルムさんの息子さんが釘を打ってくださいました。ヨナスさんは縄で二重に留めて、下から見上げて、それから何も仰らずに工房へ戻っていかれました。ドーラさんは坂の上で腕を組んでおいででした。


「低いね」


「低うございますか」


「もう半寸上げな。子供が肩をぶつける」


 半寸上げました。


 七年、わたくしが立っていた洗い場には、誰の名も付いておりませんでした。あそこの布は、誰が落としたものでもございませんでした。落ちていることが当たり前で、当たり前のものには名が要りません。


 板の字は、思ったよりも大きく見えました。


 最初の客は、昼前にいらっしゃいました。


「こちらでよろしいのでしょうか」


 黒い外套ではございませんでした。灰色の、目の粗い外套でございます。布の包みの抱え方は、初めておいでのときより、ずっと良うなっておいででした。腕で下から支えて、胸に押しつけておられません。


「ハンナ様」


「覚えていてくださいましたの」


「抱え方が変わっておいでです」


 ハンナ様は笑われました。春に、干し場の前で動けずにおいでだった方でございます。


「喪が明けました」


「はい」


「店は、わたくしが継ぎました。石けんを売る者が、こんなものを持ってまいりまして」


 包みを開かれますと、男物の上着が出てまいりました。良い毛織でございます。肩と襟に、灰色がかった点が散っておりました。


「主人のものでございます。半年、櫃に入れたままにしておりまして」


 わたくしは日に透かしました。


 点は表に浮いております。糸の中には入っておりません。しまい込んだ布に出るものでございます。湿りと、暗さと、動かないこと。この三つが揃いますと出てまいります。


「落ちます」


「本当でございますか」


「表に乗っているだけでございます。日と、風と、ぬるい湯で足ります。ただ、擦ってはなりません。擦りますと、糸の中へ押し込むことになります」


「……三軒の洗い場では、みなさま擦っておいででした」


「あのときは、みなさま落としてさしあげようとなさったのでございます」


 外へ出しました。


 まず、日に当てます。一刻。それから、乾いた綿で、点の上を撫でるのではなく、はたきます。上から下へ。点は表に乗っておりますので、はたいたぶんだけ減ります。


 残ったところに、ぬるい湯を含ませた綿を置きます。押す。待つ。綿を替える。


 畳み皺のほうは、湯気を当てて、重石を載せて、置いておきます。半年ついた皺は、一刻では戻りません。


 その間に、テアが桶を運んでまいりました。


 この子は、朝のうちに水を汲んで、湯を沸かして、綱を張ります。教えたことはございません。見て覚えた順にやっております。


「奥様」


「その呼び方は、そろそろ」


「……エルナさん」


「はい」


「点、減ってます」


「減っております」


「なんで、擦らないほうが減るんですか」


「乗っているものは、押すと入るからでございます」


「入ったら」


「出てまいりません。糸のあいだは、指より細うございますので」


「じゃあ、屋敷の卓布も」


「あれは、入ったものではございません。焼けたものでございます」


「違うんですか」


「違います。入ったものは、時をかければ出せます。焼けたものは、出すものがございません」


 テアは、綿を一枚取って、日に透かしておりました。


「エルナさん」


「はい」


「わたし、二十度洗ったんです。あのとき」


「伺いました」


「二十度洗って、悪くしたんですね」


「はい」


「……先に聞けばよかった」


「聞ける日に、聞けなかっただけでございます」


 テアは、しばらく考えておりました。


 考えているあいだ、この子は指を動かします。前掛けの紐を握るのではなく、何かを摘む形に動かします。あの握り方は、もういたしません。


 昼を過ぎて、上着は白い日の下で乾きました。


 点は、どこにもございませんでした。畳み皺は、肩の線のところに薄く残っております。


「こちらは、残ります」


「残りますの」


「半年ぶんの折り目でございます。三日、掛けておかれますと、目立たなくなります。消えはいたしません」


「消えなくて、結構でございますわ」


 ハンナ様は上着を受け取って、袖の長さをご覧になりました。


「店の若い者に譲ります。背丈が同じなのでございます」


「さようでございますか」


「主人のものだと、言わずに渡すつもりでおりました。けれども、言うことにいたしました」


「はい」


「言わないでおくと、あの子は、ただの上着として着ますでしょう。それはそれで、よろしいのですけれど」


 ハンナ様は、銅貨を三枚、石の縁に置いていかれました。


 あのときは、銀貨を一枚置いていかれました。今日は三枚でございます。そちらのほうが、正しゅうございます。


 夕方に、ドーラさんが灰の壺を覗きにいらっしゃいました。


「替えたかい」


「今朝でございます」


「三日ごとだよ」


「はい」


 ドーラさんは、壺の蓋を戻してから、板のほうをご覧になりました。


「名前、入れたね」


「入れました」


「なんで入れたんだい。落ちない染み承ります、だけで足りるだろう」


 わたくしは、綱の下をくぐって、干した布の位置を直しました。日が傾きますと、影が動きます。


「母は、名前を残しませんでした」


「そうだね」


「灰の焼き方を、ドーラさんに残しました。三日ごとの一言を、ヨナスさんに残しました。落とし方を、わたくしに残しました。けれども、どこにも母の名は残っておりません」


「……そうだね」


「わたくしにしか落とせない、と申しますのは、わたくしが偉いという意味ではございませんでした」


「じゃあ、なんだい」


「継いだ者が一人しかおりませんと、その一人が終わったところで、消えるという意味でございます」


 ドーラさんは、それきり何も仰いませんでした。坂を上がりながら、一度だけ板のほうを振り返っておいででした。


 日が落ちるころに、ヨナスさんが路地から出てこられました。


「見に来た」


「何をでございましょう」


「板だ。半寸上げたって聞いた」


「ドーラさんが仰いましたので」


 ヨナスさんは板の下に立って、見上げておいででした。それから、こちらをご覧になりました。


「名前が入ってる」


「入れました」


「——で、落ちるのか」


「板の字がでございますか」


「そうだ」


「落ちません。膠が濃うございますので」


「そうか」


 それだけ仰って、しばらく板をご覧になっておいででした。


「あんた、王城へは」


「参ります」


「そうか」


「文を、今朝出しました」


「早いな」


「板を掛けましたので」


 ヨナスさんは、こちらをご覧になりました。


「順番が逆だろ。行く先を決めてから、板を掛けるもんだ」


「逆でございます」


「なんでだ」


「戻る場所が無いところへは、参れませんので」


 ヨナスさんは、藍の手を前掛けで拭かれました。拭いても落ちない手でございます。


「灰、三つでいいのか」


「三つで足ります」


「四つにしとけ。留守にするなら、寝かせるのが一つ余分に要る」


「……四つにいたします」


「うちのを一つ持ってけ。返さなくていい」


「お返しいたします」


「返さなくていいって言ってるだろ」


「返しに参ります」


 ヨナスさんは、それきり何も仰いませんでした。


 板の字は、雨に当たっても流れません。膠が濃うございますので。


 訪ねてこられる方がいらっしゃるかぎり、その名は板に残ります。板が残りますと、誰かが読みます。読んだ方のうちの一人が、いつか戸を叩きます。


 叩きましたら、教えます。


 その日は、まだ来ておりません。


 戸を閉める前に、物置の棚を見ました。


 麻の袋がひとつ、日の当たらない側に置いてございます。三日ごとに向きを変えております。向きを変えませんと、下から湿りが上がります。


 湯を沸かし、灰を替え、綿を替え、三十日のあいだに二十二枚の布を落としてまいりました。落ちなかったものは、一枚だけでございます。


 わたくしは棚の高さを一寸だけ上げて、戸を閉めました。


 袋の向きを変えますのは、明後日でございます。あの一枚が何であるかは、まだ分かっておりません。

【落ちました】


三十日のあいだに、二十二枚。落ちなかったものは、一枚だけでございます。板の字は、雨に当たっても流れません。膠が濃うございますので。


第一部「灰汁町の洗い場」は、ここまででございます。


この洗い場には、まだ落ちていない布が一枚ございます。三日ごとに向きを変えて、置いてございます。次回、王城からの返し文。板に名を入れてから十三日目に、坂を下りてまいります。


ブックマークと評価は、新しい洗い場の壺に足させていただきます。

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