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その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


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第31話 王城からの返し文

 秋になりますと、干し場の綱を張る高さを変えます。


 日が低くなりますので、夏と同じ高さでは布の裾が影に入ります。影に入ったところだけ乾きが遅れて、そこに輪が出ます。綱は、指三本ぶん下げました。


 灰の壺は四つでございます。一つ使い、一つ寝かせ、一つ焼き上がり待ち、それから、留守にするための一つ。四つ目はヨナスさんからお借りしたものでございます。返しに参りますと申し上げましたので、まだ返しておりません。


 朝いちばんの客は、井戸番の孫のエミルでございました。


「ねえさん」


「おはようございます」


「じいちゃんの前掛け。縄の油がついた」


 広げますと、腰のあたりが黒うございました。縄を手繰る者の前掛けは、いつも同じところが汚れます。


「これは、落ちます」


「いくら」


「一枚でございますから、一枚ぶんいただきます」


「銅貨一枚か」


「はい」


「じいちゃんは、ただにしろって」


「では、ただにいたしません」


「なんでだよ」


「ただにいたしますと、次から持っておいでになりません」


 エミルは前掛けを置いて、走っていきました。転ばずに坂を上がるようになりました。


 王城からの返し文が届きましたのは、板に名を入れてから十三日目でございます。


 運んでこられたのは城の使いの方でございました。外套の裾に泥が跳ねております。乾いておりません。今朝、この坂を下りていらしたものでございます。


「エルナ・リント様に」


「エルナと申します」


「お一人で承っておいでですか」


「一人でございます」


「洗い場を見せていただいても」


「どうぞ」


 使いの方は流しの前に立って、桶の数を数えておいででした。


「六つでございますか」


「六つでございます」


「城は八十ございます」


「伺っております」


「……八十あって、白が上がりませんので」


「湯の口はいくつ動いておいでですか」


「四つのうち、二つでございます」


「二つで八十を回しておいでですか」


「回しておりません。急ぎのものから通します」


「急ぎのものは、どうなさいます」


「熱い湯で、短く」


「さようでございますか」


「……いけませんか」


「いけないとは申し上げません。短く済ませたぶんは、あとから出てまいります」


 油紙の包みを二つ、置いていかれました。一つは薄く、一つは厚うございます。


 薄いほうが文でございました。字が細く、右上から左下へわずかに傾いでおります。坐らずに卓の縁で書いた傾ぎでございました。


 洗濯場の主任が城へ戻ったこと。あなたを洗い場へ入れることは当分できぬこと。代わりに白布を外へ出すこと。外へ出す布には、洗い場の名を記さぬこと。


 そこまでが一枚目でございました。


「お返事は」


「日暮れまでにお書きいたします」


「では、橋のたもとで待ちます」


 厚いほうは白布でございました。一枚だけ。見本でございます。


 広げますと、角に輪がございました。


 輪は、乾いたところと湿ったところの境に出ます。布を置いて席を離れますと、離れたぶんだけ境ができます。この輪は二重でございました。一度出た輪の外に、もう一つ。二度、離れていらっしゃいます。


 その内側に、茶色い箇所がございました。


「見せてくれ」


 ヨナスさんが、いつのまにか後ろに立っておいででした。


「城のか」


「はい」


「立派な麻だ。一寸に十六か」


「十八でございます」


「十八の麻を、こんなにするのか」


 ヨナスさんは角を爪で起こして、鼻を近づけられました。


「焦げてるぞ」


「はい」


「——で、落ちるのか」


「輪は落ちます。焼けは落ちません」


「両方ついてるだろ」


「ついております。ですから、輪だけが落ちます」


「片方だけ落として、どうする」


「輪が消えますと、焼けだけが残ります。残ったものは、はっきり見えます」


「見えて、どうなる」


「見えませんと、次も同じことをなさいます」


 ヨナスさんは布を返して、腕を組まれました。


「輪を消そうとして、鏝を当てたな」


「そのようでございます」


「熱を当てりゃ、その場は消える」


「はい」


「乾いてから出るんだろ」


「出てまいります。これは、出てきたものではございません。糸そのものが変わっております。変わったものには、落とすものがございません」


 ドーラさんが坂を下りてこられました。空の桶を提げておいでです。


「城から使いが来たって」


「まいりました」


「入れてくれるのかい」


「いいえ」


「なんだいそれじゃあ」


「布のほうが、こちらへ降りてまいります」


 ドーラさんは桶を置いて、白布を覗き込まれました。


「あんたが行くんじゃなくて、布が来るのかい」


「はい」


「妙な話だね」


「妙ではございません。洗い場は動きませんが、布は動きます」


「銭は」


「一枚につき銅貨二枚でございます。落ちなかったものは、いただきません」


「安いよ」


「城の布でございますので、丈は同じでございます。同じものを二十枚洗いますのは、違うものを六枚洗うより楽でございます」


 テアが湯を運んでまいりました。この子は朝のうちに水を汲んで沸かします。教えたことはございません。


「エルナさん。その茶色、焦げですか」


「焦げでございます」


「洗ったら濃くなりますか」


「濃くはなりません。減りもいたしません」


「じゃあ、どうするんですか」


「どういたしません。落ちませんと申し上げます」


「言うだけで、いいんですか」


「言わないほうが、あとで困ります」


 昼から、輪のほうを落としました。


 輪は、境の線でございます。境を消すには、境の外まで一度濡らして、全体を同じ湿りにしてから乾かします。落とすのではなく、揃えるのでございます。


「濡らすんですか。汚れてないところも」


「汚れてはおりません。乾き方が違うだけでございます。違いを消しますには、両方を同じにいたします」


「もったいなくないですか」


「布は、洗って減るものではございません。擦って減ります」


 桶に張ったぬるい湯へ、角から沈めました。沈めてから、指で押して空気を抜きます。空気の残ったところは濡れませんので、そこがまた境になります。


 引き上げて、絞らずに広げました。


「絞らないんですね」


「絞りますと、糸の目に残ったものが戻ります」


「絞らないと、乾きませんけど」


「乾きます。遅いだけでございます」


 綱へ掛けまして、日が回るのを待ちました。


 夕方に取り込みますと、輪は二つとも消えておりました。


 角の茶色だけが残っております。輪が無くなりましたので、そこだけが、はっきり見えるようになりました。


「濃くなりました」


「濃くなっておりません。周りが白くなっただけでございます」


 テアは布を持って、日に透かしておりました。


「これ、返すんですか」


「返します」


「怒られませんか」


「怒られるかもしれません」


「じゃあ、なんで」


「焼けたものを焼けたと申し上げませんと、次の一枚も焼けます」


 文の二枚目がございました。


 一枚目より短うございます。用向きではなく、こちらから伺ったことへの返事でございました。


 わたくしは板を掛けた朝に、文を一つ出しております。十二年前の秋に洗濯場においでだった方のことを伺いたい、と。


 洗濯場の名簿を三度検めましたが、レナ・リントという名はございませぬ。十二年前の名簿にも、その前の年の名簿にも、ございませぬ。


 わたくしは二枚目を畳みました。


 ドーラさんは、母が王城へ上がる日の朝に布を置いていったと仰いました。上がる日の朝でございます。


 上がった先の名簿に、名がございません。


「なんて書いてあった」


 ヨナスさんが仰いました。


「布は、明後日に二十枚まいります」


「そっちじゃない」


「そちらは、まだ分かりません」


「分からないのに、顔が変わったぞ」


「変わっておりません」


「変わってる」


 わたくしは返事を書きました。承ります、と、それだけでございます。


 橋のたもとまでは、テアに持たせました。走ると転びますので、歩いてまいれと申しました。

【落ちません】


輪は落ちます。焼けは落ちません。熱を当てて消えたように見えたものは、乾いてから戻ってまいります。城の八十の桶で白が上がらなくなったのは、腕の話ではございません。


次回、荷車が坂を下りる。白布が二十枚まいります。うち何枚が落ちるかは、まだ分かりません。


ブックマークは、王城までの道の半日ぶんに足させていただきます。

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