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その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


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第32話 荷車が坂を下りる

 荷車が坂を下りてまいりましたのは、二日あとの朝でございます。


 引いていらしたのはルカスさんという方でございました。三十がらみで、肩の片方だけが厚うございます。荷を担ぐ側でございましょう。


「ここでいいのか」


「こちらでございます」


「城から二十。判を押してくれ」


「判はございません」


「じゃあ名前を書いてくれ」


「書いてもよろしいのですか」


「受け取ったやつの名前がないと、あたしが疑われる」


 書きました。エルナ、と。家名は書きませんでした。


 白布は木箱に二段で入っておりました。畳んだまま日を経ておりますので、折り目のところが硬うございます。


「重かったでしょう」


「軽いよ。布だからな」


「濡れておりますと、四倍になります」


「濡らさないでくれ」


「濡らします」


「……そりゃそうだ」


 ルカスさんは水を一杯飲んで、坂を上がっていかれました。


 木箱の底には藁が薄く敷いてございました。城から坂の下までは半日でございます。揺れますと、畳んだ布の角が擦れます。藁の敷き方が丁寧でございました。荷を作られた方は、布をご存じでございます。


 二十枚を、まず全部広げました。


 広げる前に、番号を控えました。


 城の布は、端の折り返しに番号が入っております。糸で縫い取ってございました。三つ並びでございます。百の位、十の位、一の位。二十枚は、二百十四から二百三十三まで続いておりました。


 控えておきませんと、返すときに見分けがつきません。同じ白布が二十枚ございますので、見分けはこれだけでございます。


 広げてから、日に透かして三つに分けます。落ちるもの、手間のかかるもの、落ちないもの。分けるのが先でございます。手をつけてから分けますと、落ちないものに一日費やすことになります。


 畳んだまま日を経た布は、折り目のところが硬うございました。硬いところは水を弾きますので、そこだけ遅れて濡れます。遅れて濡れたところは、遅れて乾きます。遅れて乾きますと、そこに輪が出ます。


 ですから、折り目を先に湿らせます。手で開いて、湯を含ませた綿を線に沿って置いて、待ちます。二十枚ぶんで一刻かかりました。


「エルナさん。数えますか」


「数えます。左から、日に透かした順に置いてくださいませ」


 テアが並べました。この子は並べるのが速うございます。


 十七枚は、同じところが濁っておりました。襟でも脇でもございません。布の真ん中でございます。


「真ん中が汚れるって、おかしくないですか」


「おかしゅうございます。人は真ん中を使いません」


「じゃあ、なんで」


「湯でございます」


 わたくしは、いちばん濁った一枚を鼻に近づけました。


 錆の匂いがいたします。ごく薄うございますが、湿った布は匂いを持ちます。


「湯の口が錆びております」


「錆びると、どうなるんですか」


「鉄が湯に混じります。混じった鉄は、布に付いた汚れを留めます」


「留める」


「はい。汚れを、糸に食いつかせます。食いついたものは、上から何を当てても動きません」


「じゃあ、この十七枚は」


「まだ、留まりきっておりません。留まる前でございます」


 ヨナスさんが、工房の戸を開け放したまま藍の甕を掻き回しておいででした。


「鉄って言ったか」


「申しました」


「うちは鉄を金で買ってるぞ。色を留めるのに要る」


「はい」


「向こうは、湯の口から只で降ってくるわけだ」


「只でございます」


「馬鹿な話だな」


「同じ薬でございます。染める側には要り、落とす側には邪魔でございます」


「——で、落ちるのか」


「十七枚は落ちます。三枚は落ちません」


 十七枚のほうから始めました。


 鉄で留まりかけたものは、灰汁では動きません。酸のほうでございます。桶に水を張って、酢を落として薄めます。濃くいたしますと、麻の張りが抜けます。


 布を沈めて、押さずに置いておきました。


「押さないんですね」


「押しますと、留まりかけているものが、押した先で決まってしまいます」


「じゃあ、待つんですか」


「待ちます。半刻ほど」


「半刻、何をするんですか」


「次の桶を用意いたします。待つのは、何もしないことではございません」


 半刻ののち、濁りは薄い茶に変わって水へ出てまいりました。


 水を替えて、二度目。三度目で、水が澄みました。


 絞らずに広げて、綱へ掛けます。二十枚のうちの十七枚が並びますと、干し場が埋まりました。ドーラさんの洗い場の綱まで、二本お借りいたしました。


「あんた、うちの綱まで使うのかい」


「お借りいたします」


「銭は」


「洗い賃から、二枚お渡しいたします」


「いらないよ」


「いただいてくださいませ。次からお借りしにくうございます」


「……あんた、そういうところが」


「母に似ておりますか」


「似てないね。あの人は、黙って使ってた」


 干し場に白が並びますと、坂を通る方が足を止めていかれます。


 灰汁町の白は、どこの家のものも襟と脇と裾の折り返しが黄ばんでおります。人の脂が溜まるところでございます。城の白は、そこが白うございました。その代わり、真ん中が濁っておりました。


 どこが汚れるかで、その布がどう使われてきたかが分かります。城の白布は、身につけるものではございません。敷くもの、掛けるもの、包むもの。人の脂が付かない代わりに、湯と水の悪さだけを吸っております。


 残りの三枚でございます。


 三枚とも、真ん中の濁りが茶を通り越して、灰色に寄っておりました。日に透かしますと、そこだけ糸の目が塞がっております。


 押しました。硬うございます。


「これは、留まりました」


「戻せませんか」


「留めているものを外せば、戻ることがございます。外すには、もっと強いものを使います」


「使えばいいじゃないですか」


「強いものを使いますと、麻が保ちません。二度目は無い布になります」


「じゃあ」


「落ちません、と書いて返します」


 わたくしは紙を三枚用意いたしました。


 布の番号と、日付と、それから、落ちない理由を一行。


 湯の口の錆。留めるものが入っている。強い薬を使えば落ちるが、そのとき布が終わる。


「理由まで書くんですか」


「落ちませんとだけ書きますと、腕が足りないと読まれます」


「読まれたら、困りますか」


「わたくしは困りません。次の布が困ります」


「次の布って、まだ来てないですよ」


「まいります。湯の口を直しませんかぎり、同じところが濁ります」


「言えば、直しますか」


「直すかどうかは、あちらがお決めになります」


「直さなかったら」


「同じ紙を、また挟みます」


「何度も」


「何度でも。書くのは、こちらの仕事でございますので」


 テアは、紙を覗き込んでおりました。


「エルナさん。これ、書き方が帳と同じですね」


「同じでございます」


「教わったんですか」


「見て、覚えました」


 夕方、荷車が戻ってまいりました。


 十七枚を畳んで箱へ収め、三枚は別の油紙へ包んで、紙を挟みました。


「三枚は返り物か」


「落ちませんでしたので」


「銭は十七枚ぶんか」


「十七枚ぶんでございます」


「損だな」


「損ではございません。三枚は、まだ生きております」


「生きてるって、どういうことだ」


「強い薬を使えば、今日のうちに落ちます。落ちた布は、そのあと二度は洗えません」


「使わなかったのか」


「使いませんでした。三枚が二十枚のうちの三枚でございますうちは、使わずに済みます」


 ルカスさんが坂を上がっていかれるのを、橋のところで見ている方がおいででした。


 若い女の方でございます。腕まくりをして、肘から先が日に焼けておりました。晒しの女の方の焼け方でございます。


 こちらをご覧になって、それから、こちらへは来ずに、上流のほうへ歩いていかれました。

【落ちました】


湯の口の錆でございます。鉄は、染める者には要るもので、落とす者には邪魔なもの。同じ薬が、立つ側によって逆に働きます。城の白が二年で死にはじめた理由は、腕ではなく水にございました。


次回、落ちない、と書くな。返した三枚に挟んだ紙のことで、城から人が下りてまいります。

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