第33話 落ちない、と書くな
その日は朝から風が強うございました。
綱に掛けた布が煽られますので、裾に石を一つずつ結わえます。石は川原のものを使います。角のあるものは布を傷めますから、丸いものを選んで、十ばかり洗って乾かして置いてございます。
風の日に洗いものをいたしますと、乾きは速うございますが、埃が飛びます。飛んだ埃は、湿った布に付きます。付いた埃は、乾いてから払えば落ちます。ですから、風の日は落とすのではなく、干すことのほうに気を遣います。
石を結わえている途中で、坂の上に人影が立ちました。
黒い上着の方でございます。四十の手前でございましょうか。指の第二関節が黒うございました。書き物を毎日なさる方の汚れ方でございます。
王城の地の下で、一度お目にかかっております。
「洗い女」
「エルナと申します」
「わたしは記録方だ」
「マティアス様でいらっしゃいますね」
マティアス様は、洗い場の石の縁を靴の先で叩かれました。泥が落ちるかどうかをお確かめになったようでございます。
「返り物に紙が挟んであった」
「挟みました」
「三枚とも、落ちないと書いてある」
「落ちませんでしたので」
「城の洗濯場が落とせなかった布を、外の洗い場が落とせなかった。そう書いてあるのと同じだ」
「そう書いてございます」
「その紙は、どこへ行くと思う」
「存じません」
「記録方へ来る。来たものは綴じる。綴じたものの写しは、組合へ回る」
「伺っております」
「では、話が早い」
マティアス様は懐から油紙を出されました。中は卓布でございます。二尺に四尺ほど、麻の目が粗うございました。
「これを落としてくれ」
卓布は、洗いを重ねたものでございました。縁の毛羽が寝ております。目が粗うございますのは、書きつけのためでございましょう。
目の詰んだ布に墨を置きますと、粒が上に乗るだけでございますので、拭えば消えます。粗い布は、粒が糸のあいだへ入りますから、洗うまで消えません。書くための布は、書くために選んでございます。
広げますと、折り目に沿って字が並んでおりました。
黒でございます。日に透かしますと、糸のあいだに粒が挟まっております。膠で貼りついているだけの墨でございました。
「煤の墨でございますね」
「城の洗い場では、受け渡しを布に書く。羊皮紙は湯気で波打つのでな」
「伺っております」
「書き終えたら洗って、また書く。それだけのことだ」
「これは、いつのものでございましょう」
「先月だ」
「では、まだ用が済んでおりません」
「済んでいる。数は写した」
わたくしは、字を目で追いました。
白布、十四枚。手拭き、二十。それから、下のほうに一行、数ではないものがございました。
落ちず、と書いてございます。
「この一行も、洗ってよろしいのでございますか」
「布はもとどおりになる。それが仕事だろう」
「落ちます。けれども、落としません」
マティアス様が顔を上げられました。
「なんだと」
「落ちます。膠を緩めますと、下へ落ちます。半刻でございます」
「では落とせ」
「落としますと、この一行が無くなります」
「無くなって困るものではない」
「困りませんのでしたら、写してからお持ちくださいませ」
「……写す必要がない、と言っている」
「では、なおのこと落としません」
ヨナスさんが、工房の戸口に立っておいででした。腕を組んで、こちらを見ておいでです。何も仰いません。
マティアス様は卓布を畳もうとなさって、途中でおやめになりました。
「洗い女。おまえは、紙に理由を書いた」
「書きました」
「あれを書かれると、洗濯場が責められる」
「責めてはおりません」
「書いたものは、書いた者の思惑と関わりなく読まれる」
「はい」
「分かっているなら、書くな」
「書きませんと、次の一枚も同じようになります」
「次の一枚がどうなろうと、おまえの布ではない」
「わたくしの布ではございません」
「では、なぜ書く」
「落ちるものと落ちないものを分けますのが、わたくしどもの仕事でございます。分けたものを、分けたままお渡しいたします」
マティアス様は、しばらく黙っておいででした。
それから、指で卓の縁を探すような動きをなさいました。書く物を探す癖でございましょう。ここには卓がございません。洗い場にあるのは石の流しと桶と綱でございまして、坐って書く場所は一つもございません。
城の洗い場でも、書く者は坐らずに書きます。ですから字が右上から左下へ傾ぎます。この方の字も、あの文の字も、同じように傾いでおりました。城で書かれた字は、どれも同じ形に傾ぐのでございましょう。
「では、こう書け。落ちなかった、とだけ」
「理由は」
「要らん」
「理由が無いものは、腕が足りなかったと読まれます」
「読まれて困るのか」
「わたくしは困りません」
「なら書くな」
「困りますのは、次にその布を持つ方でございます」
マティアス様は油紙を懐へ戻されました。
「洗い女。城の記録には、おまえの名は無い」
「存じております」
「前に一度、洗い場で仕事をした。あのときも名は残っていない」
「はい」
「なぜだと思う」
「わたくしが、書かないでくれと申し上げました」
「……そうだったな」
マティアス様は坂のほうへ歩きかけて、立ち止まられました。
「名を残さない者が、なぜ紙を挟む」
「名を残さないことと、書かないことは、別でございます」
「同じだ」
「違います。名は、わたくしのものでございます。落ちるか落ちないかは、布のものでございます」
坂を上がっていかれるうしろ姿を、テアが見ておりました。
「エルナさん。あの人、指が汚れてました」
「汚れておいででした」
「墨ですか」
「墨でございます。第二関節のところだけでございました」
「それが、どうかしたんですか」
「筆を持ちますと、汚れますのは親指と人差し指の先でございます。第二関節が汚れますのは、墨を磨る方でございます」
「磨るんですか、あの人が」
「ご自分で磨っておいでなのでございましょう。人に磨らせない方でございます」
夕方に、ヨナスさんがいらっしゃいました。
「落とさなかったな」
「落としませんでした」
「銭になったのに」
「なりませんでした」
「あの卓布、なんて書いてあったんだ」
「白布十四枚。手拭き二十。それから、落ちず、と」
ヨナスさんは、藍の手を前掛けで拭かれました。
「落ちず、か」
「はい」
「城の洗い場ってのは、落ちなかったものを、いちいち書くのか」
「書きませんでしたので、あの方はお困りなのでございます」
「じゃあ、なんであの一行はあるんだ」
わたくしは、それには答えられませんでした。
ヨナスさんは、工房のほうへ歩きかけて、立ち止まられました。
「あんたの物置の布は、まだ落ちないのか」
「落ちません」
「見てるのか、まだ」
「見ております。三日ごとに、袋の向きを変えております」
「向きを変えると、落ちるのか」
「落ちません。ただ、置いておくだけでも変わりますので、変わり方を揃えております」
「変わり方が揃うと、どうなる」
「今のわたくしに分かることが増えましたときに、前と比べられます」
日が落ちてから、帳をつけました。
頁の左に日付、中に布、右に染み、下に落とし方。七年、この形で書いてまいりました。誰に教わったものでもございません。嫁ぎました年の秋に、最初の一頁を、なぜかこの形で書いておりました。
本日は二行でございます。
一行目、井戸番の前掛け、縄の油、灰汁を薄く当てて湯で流す。
二行目、城の卓布、煤の墨、承らず。
承らなかったものも書きます。書きませんと、承らなかったこと自体が無くなります。無くなりますと、次に同じものを持ち込まれたときに、前はどうしたのかが分かりません。
七年ぶんの帳は、厚みが指三本でございます。新しい帳は、まだ指一本の半分にも届きません。頁が薄いうちは、めくる手が軽うございます。
筆を置いてから、外の綱を見に出ました。
風は止んでおりました。裾の石を外して、一つずつ籠へ戻します。石は乾かしてから仕舞います。濡れたまま重ねますと、下のものが黴びます。
城の布は、明日また二十枚まいります。
【落としません】
落ちます。けれども、落としません。——布を元どおりにすることと、書いてあったことを無かったことにするのは、同じ手つきで別のことでございます。主人公が承らない理由は、いつも金銭ではございません。
次回、石の流し二十四。城の洗い場へ、一日だけ入ります。
評価の☆は、返り物を包む油紙の代わりにいたします。




