第34話 石の流し二十四
城から迎えがまいりましたのは、荷車が三度目に下りた朝でございます。
文は一行だけでございました。本日一日、洗い場へお入りいただきたい。ほかには何も書いてございません。
歩いて半日でございます。夜明け前に発ちまして、昼前に通用の門へ着きました。
灰汁町から王都の坂を上がりますと、道の途中で水の匂いが変わります。灰汁町の水は堰の落ち口の水でございますので、石と泥の匂いがいたします。坂を上がりきったあたりから、その匂いが薄れます。
橋のたもとで、干し物を見ました。前に通りましたときと同じでございます。この町の白は、どれも襟と脇と裾の折り返しが黄ばんでおります。人の脂が溜まるところでございます。
留守は、テアに頼みました。湯を沸かすこと、灰の壺の向きを変えること、来た方には明日また来ていただくよう申し上げること。三つでございます。三つより多く申しますと、どれかを落とします。
門の番の方が、名簿をお繰りになりました。
「その名は無いが」
「ございませんか」
「洗い女、とだけ書いてある」
「では、それでございます」
石畳は前と同じように乾いておりました。掃いたあとに水を撒いて、乾かしてから人を通す。そういう順で世話をされた石でございます。
回廊を三つ折れて、階を二度下りました。
湯気の匂いがいたします。前に伺いましたときより、薄うございました。
「エルナ様」
「ハルトヴィヒ様」
「一日でございます。日が落ちましたら、お帰りいただきます」
「承知いたしました」
「……主任は、明日お戻りになります」
石の流しが二十四。桶が八十ほど。湯の口が四つ。
数は変わっておりません。変わりましたのは、湯気の立っている口が二つだけになっていることでございます。
「湯の口は、四つとも使えます」
「使えますが、二つで回しております」
「なぜでございましょう」
「薪でございます。夏のあいだに、割り当てが減りました」
壁際に灰の壺が並んでおりました。数えますと、七つでございます。
蓋を一つ開けさせていただきました。
上澄みの色が薄うございます。手で掬って指の腹で擦りますと、粒が残りました。焼きの浅い灰でございます。
「この灰は、どちらから」
「買い入れでございます。月に二度、荷が入ります」
「焼いてはおられませんか」
「城で火を焚くところは、厨と鍛冶場だけでございます」
買い入れの灰は、荷ごとに違います。焼いた木も、焼いた者も、焼いた日の風も違いますので、同じ量を使っても効き方が変わります。
効き方が変わりますものを同じ量で使いますと、足りない日と、多すぎる日が出ます。多すぎた日のぶんは、糸のあいだに残ります。
洗い場には十二人ほどおいででした。前より二人少のうございます。
みなさまの棒を見ました。握りの減りが、上のほうへ寄っております。低い位置から短く打つ打ち方でございます。水の柔らかい土地の打ち方でございました。
柔らかい水では、短く打っても泡が立ちます。泡が立ちますと、落ちたように見えます。見えるだけで、糸のあいだのものは動いておりません。
いちばん奥の流しに、背の低い方が立っておいででした。六十の手前でございましょうか。棒の握りが、手のかたちに凹んでおります。二十年より長く同じ棒を使いますと、こうなります。
「グレーテと申します」
「エルナと申します」
「下町の洗い場の方だと伺いました」
「はい」
「うちの布に、紙を挟んだ方でございますね」
「挟みました」
「三枚、落ちなかったと」
「落ちませんでした」
グレーテさんは、棒を流しの縁に置かれました。
「二十八年おります」
「さようでございますか」
「二十八年、白を上げてまいりました。落ちなかったと紙に書かれたのは、初めてでございます」
「今までは、どうなさっておいででしたか」
「棚へ入れます」
「入れて」
「それきりでございます」
湯の口の一つへ、手の甲を当てました。
湯は柔らこうございます。石の少ない水でございました。この水でしたら、白は白のまま上がるはずでございます。
口の内側を、指で撫でました。赤い粉がつきました。
湯の口のそばに、二十歳ほどの方が立っておいででした。柄杓をお持ちでございます。当番の方でございましょう。
「ミルカと申します」
「エルナと申します。この口は、いつ替えられましたか」
「替えたことはございません」
「では、拝見してもよろしゅうございますか」
口の縁を布で拭きますと、布が赤くなりました。
「これは錆でございます」
「錆は、湯には害がないと伺っております」
「飲むぶんには害がございません。洗うと害がございます」
「なぜでございますか」
「鉄は、汚れを布に食いつかせます」
グレーテさんが顔を上げられました。
「食いつかせる」
「染物では、わざと使います。色を留めるためでございます」
「こちらは、染めておりません」
「留めているものが、色ではなく汚れでございます」
グレーテさんは湯の口を長くご覧になっておいででした。
「二年ほど前から、白が上がらなくなりました」
「二年」
「腕が落ちたのだと言われました。年でございますので、否めませんでした」
「腕ではございません」
「……そう仰いますか」
「腕は、水の悪いところでどれだけ粘れるかにしか出ないものでございます。ここの水は良うございます。良い水を悪くしておいでなのは、口でございます」
奥の棚から、敷布が一枚出てまいりました。
二尺に六尺ほど。裾のところが灰色でございます。日に透かしますと、糸が細うなっておりました。
「三度晒しました」
「三度でございますか」
「一度目で落ちませんでしたので、二度、三度と」
鼻を近づけました。
薄く、あの匂いがいたします。
「これは、染みではございません」
「では、何でございましょう」
「灰が残っております」
グレーテさんが、こちらへ一歩お寄りになりました。
「灰は、流しております」
「流しても、糸のあいだに残ります。残った灰は、しばらくすると色に見えてまいります。晒すたびに増えますので、三度晒しますと三度ぶん残ります」
「では、どういたします」
「酸で中和いたします」
桶に水を張って、酢を落として薄めました。濃くいたしますと麻の張りが抜けますので、鼻を近づけて、匂いが立つか立たないかのところで止めます。
裾を沈めて、押さずに待ちました。
「押さないのでございますか」
「押しますと、抜けかけたものが、押した先で止まります」
半刻ののち、引き上げました。
灰色が、まだらに薄くなっております。もう一度、新しい水で同じことをいたしました。
二度目のあと、絞らずに広げて、湯の口の上の小窓の下へ運びました。
乾いたところから、白が戻ってまいりました。
「……白でございます」
「もとの白でございます」
「三度晒して駄目だったものが」
「三度晒したから、こうなったのでございます」
グレーテさんは、敷布の裾を指で挟んでおられました。
「二十八年、逆のことをしてまいりました」
「逆ではございません。灰は要るものでございます。流し方を、どなたも書き残しておられなかっただけでございます」
「書き残す」
「はい」
グレーテさんは、それきり何も仰いませんでした。
湯の口のそばに、痩せた娘が立っておりました。桶を腰で持っておいでです。前掛けの紐が、二重に巻いてございました。
「イルゼさん」
「覚えていてくださいましたか」
「桶の持ち方が変わっておいでです」
「はい」
「肘は、鳴りませんでしたか」
「鳴っておりません」
イルゼさんは、酢を落とした桶のほうをご覧になっておいででした。
「エルナ様。今の、書いてもよろしいでしょうか」
「何をでございますか」
「三度晒したものは、酸で戻る、と」
「どちらへお書きになりますか」
「……紙は、ございません」
階の上から、履物の音がいたしました。
早い音ではございません。踏む前に、一度ずつ石を確かめる歩き方でございます。
洗い場の十二人が、いっせいに手を動かしはじめました。
「エルナ様」
ハルトヴィヒ様が、こちらへお寄りになりました。
「主任が、お戻りになりました」
【落ちました】
三度晒しても落ちなかったものは、三度晒したから落ちなくなっておりました。灰は要るものでございますが、流し方を書き残した者が一人もいなかった洗い場では、要るものが少しずつ布を殺します。
次回、三十年の主任。明日お戻りになるはずの方が、一日早くお戻りになりました。




