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その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


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第35話 三十年の主任

 階を下りていらしたのは、背の高くない方でございました。


 五十を幾つか越えておいででしょうか。髪は隙間なく上げてございます。歩き方が、湯気の立つ床を歩く方の歩き方でございました。踵から下ろさず、足の裏の全部で置いていかれます。


 洗い場の十二人が、いっせいに手を動かしておりました。動かしすぎでございます。誰も布を見ておられません。


 布を見ずに手を動かしますと、擦ります。擦りますと、糸のあいだへ入ります。入ってしまったものは、もう出てまいりません。この方がお下りになるたびに、十二枚ぶんずつ布が悪くなっているのでございました。


 もっとも、それはこの方の咎ではございません。上から人が下りてまいりますと、下にいる者は手を動かします。灰汁町でも同じでございます。


 腰に鍵の束が下がっておりました。三つでございます。三つのうち二つは古うございました。持ち手のところの塗りが剥げております。残る一つは、剥げておりません。使っていない鍵は剥げません。


「ゲルダと申します」


「エルナと申します」


「リントの娘でございますね」


「エルナと申します」


 ゲルダ様は、そこで一度お止まりになりました。


「ハルトヴィヒ。この者を入れたのは、あなたですか」


「わたくしでございます」


「日を選ばれましたね」


「主任がお戻りになりますのは、明日と伺っておりました」


「船が早うございました」


 ゲルダ様は流しの並びを端から端までご覧になって、それから、酢の匂いのする桶の前でお止まりになりました。


「この匂いは」


「酢でございます」


「白に酢を使うことは、こちらでは許しておりません」


「灰が残っておりましたので」


「残った灰は、水で流します」


「流れませんでしたので、中和いたしました」


 ゲルダ様は、敷布の裾を手に取られました。


 日に透かされます。手つきが速うございました。透かして、指の腹で押して、鼻を近づける。同じ順でございます。わたくしと同じ順でございました。


「戻っておりますね」


「戻りました」


「グレーテ」


「はい」


「この方の手順を、あなたは見ておいででしたか」


「見ておりました」


「覚えましたか」


「……覚えたと申し上げますには、まだ一度きりでございます」


「そうですか」


 ゲルダ様は敷布を畳んで、棚へ戻されました。


 畳み方が、四つ折りではなく三つ折りでございました。


 同じところで折り続けますと、折り目から先に傷みます。三つに折れば、次に折るときに線がずれます。これを知っておいでの方は、そう多くございません。母も、三つに折る方だったとドーラさんが仰っておりました。


 それから、こちらをまっすぐにご覧になりました。


 爪が短うございます。指の背に、湯へ長く入る者の皺がございました。ハルトヴィヒ様と同じ手でございます。ただ、この方の手は、皺の入り方が深うございました。深さは年月でございます。


「洗い場の者は、見たことを書かない」


「はい」


「三十年、そのようにしてまいりました」


「さようでございますか」


「あなたは、紙を挟まれましたね」


「挟みました」


「三枚。落ちぬ理由まで書いて」


「書きました」


「あの紙は、記録方へ回ります。記録方から組合へ回ります。組合から、どこへでも回ります」


「伺っております」


「伺っていて、書かれましたか」


「はい」


 ゲルダ様の前掛けが目に入りました。


 胸のところが、灰色に曇っております。


 汚れではございません。湯垢でございました。湯気の立つ流しに、胸まで届く高さで立ち続けますと、そこだけが曇ります。見ているだけの方には付きません。


 曇りの濃さには、段がございました。上のほうが薄く、下へ行くほど濃うございます。同じ前掛けを長く使っておいでのしるしでございます。


「何を見ておいでですか」


「前掛けでございます」


「これがどうかいたしましたか」


「落ちるかどうかを、見ておりました」


 ゲルダ様は、ご自分の胸元を一度ご覧になりました。


「落ちますか」


「落ちません」


「なぜでございましょう」


「湯垢は、染みではございません。水の中の石と、灰と、鉄が混ざって固まったものでございます。染みは上に乗っておりますが、これは糸のあいだに入り込んで、そこで硬くなっております。取ろうといたしますと、糸のほうが先に切れます」


「では、これは一生このままでございますね」


「そのままでございます」


 ゲルダ様は、前掛けの紐を結び直されました。


「結構でございます。これは、わたくしの帳のようなものでございますから」


 わたくしは、そのことについては何も申し上げませんでした。


「リントの娘」


「はい」


「あなたは、帳をつけておいでですね」


「つけております」


「七年ぶん」


「七年ぶんと、それから新しいものが少し」


「見せていただきます」


「本日は持っておりません」


「では、次においでのときに」


「次がございますか」


「布は降ります。人は降りません。ですが、帳は歩きませんので、あなたが持っておいでください」


 湯の口が、低く鳴っておりました。


 ミルカさんが、当番の刻限を過ぎても口のそばを離れずにおいででした。錆の話を、まだ考えておいでなのでございましょう。


「主任様」


「はい」


「湯の口の内側に、錆がございます」


「存じております」


「ご存じでございますか」


「三年前から」


「替えることは」


「石工と鉄物の職人が要ります。願い出は、四度いたしました」


「四度」


「四度とも、順が回ってまいりません。布の一枚に、人は動きませんので」


 ゲルダ様は、湯の口の縁を布で拭かれました。布が赤くなります。


 拭いた布を、丁寧に畳んでお持ちになりました。捨てずにお持ちになるのが、この方の癖でございましょう。


「リントの娘」


「はい」


「あなたが紙に書いた理由を、わたくしは読みました」


「はい」


「錆、と書いてございました」


「書きました」


「わたくしが四度書いても動かなかったものが、あなたが一度書けば動くとは限りません」


「存じません」


「けれども、動いたときに、誰が困るかはお分かりですか」


「……分かりかねます」


「二年ものあいだ、錆の湯で白を洗わせていた者でございます」


 ゲルダ様は、それだけ仰いました。


 声を荒げてはおいでになりません。責めてもおいでになりません。事実を、順に並べておいででした。


「日が傾いております。門が閉まりますと、通用の階も閉まります」


「では、失礼いたします」


「リントの娘」


「はい」


「次においでのときは、帳をお持ちください」


「持ってまいります」


「見せていただくとは申しましたが、返さぬとは申しておりません」


「はい」


 通用の階まで、イルゼさんが送ってくださいました。


 途中の廊下で、一度だけお立ち止まりになりました。


「エルナ様。主任様は、悪い方ではございません」


「そのように見えました」


「見えましたか」


「前掛けが、あの汚れ方をしております」


「……あれは、汚れているのだと思っておりました」


「汚れております。汚れ方に、年月が出ております」


 イルゼさんは、ご自分の前掛けの胸を見ておいででした。まだ白うございます。


 外へ出ますと、日が坂の向こうへ落ちかけておりました。半日歩きますので、着きますのは夜半でございます。


 石畳は、朝と同じように乾いておりました。


 階を上がる前に、一度だけ振り返りました。


 ゲルダ様は流しの前に立って、棒を握っておいででした。握りの凹んだ棒でございます。


 あの棒は、グレーテさんのものではございませんでした。二十八年の方の棒は、奥の流しに置いたままでございます。


 主任の方が、ご自分の棒をお持ちでございました。三十年、置きっぱなしにしていない棒でございます。

【落ちません】


湯垢は落ちません。乗っているのではなく、糸のあいだで硬くなったものだからでございます。三十年、胸まで湯気を浴びて立った者にしか付かない曇りでもございます。落とすものと、落とさぬままにしておくものがございます。


次回、白いものを守る。城の洗い場は、この三十年、一度も罰せられておりません。

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