↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/38

第36話 白いものを守る

 船が早く着いたのではない。一日早い船に乗り換えたのだ。


 ゲルダは荷を一つだけ提げて、川縁の道を城まで歩いた。馬車を呼べば半刻で済むが、呼べば誰かが知る。知られると、着く前に話が先に着く。


 知らせは三日前に届いていた。記録方の下役の字だった。下町の洗い場から返り物が来た、紙が挟んであった、落ちぬ理由が書いてある。


 紙が挟んであった、という一行を、ゲルダは船の上で二十度は読んだ。


 城の通用門を入ると、石畳が乾いていた。掃いて、水を撒いて、乾かしてから人を通す。三十年、その順は変わっていない。


 階を二度下りると、湯気の匂いが薄かった。


 湯の口が二つしか動いていない。薪の割り当ては夏に減らされた。戻すよう願い出たが、返事はない。


 洗い場に十二人。二年前は十四人だった。減った二人は、白が上がらぬことの咎を負って辞めさせられたのではない。年季が明けて、賃の良いところへ移っただけだ。


 辞めさせられた者は、三十年で一人もいない。


 それが、この洗い場の実績だった。


 ゲルダが二十二でここへ入った年、洗い場から三人が出された。


 当時の主任が、返らなかった布のことを書いたからだ。書いたのは一行きりで、責める言葉は入っていなかった。ただ、返らなかった、と書いてあった。


 三人は罰されたのではない。ただ、いなくなった。どこへ行ったかは、誰も言わない。


 その年から、この洗い場には掟が一つできた。


 洗い場の者は、見たことを書かない。


 書かなければ、誰も消えない。三十年、実際に誰も消えていない。掟が守ったのだ、とゲルダは思っている。思っているというより、それ以外の説明を持っていない。


 十二年前に、一人だけ書いた者がいた。


 あの女は名簿にいない。名簿に入れる前に、口ききで下働きとして入れた。入れたのはゲルダだ。腕が良すぎて、正規に入れれば上の者に取られると思った。


 あの女は、書いた。


 布に、鉄の墨で書いた。落ちぬ墨で。


 湯の口の当番のミルカが、口の内側を布で拭いていた。布が赤い。


「主任様」


「錆でございますね」


「はい」


「三年前から出ております」


「あの、下町の方が」


「聞いております」


「……錆だと、紙に」


「読みました」


 ミルカは布を握ったまま、次の言葉を探しているようだった。


「主任様は、ご存じだったのですね」


「存じておりました」


「では、なぜ」


「願い出は四度いたしました」


「四度」


「石工と鉄物の職人が要ります。順が回ってまいりません」


「回るまで、白は」


「上がりません」


 ミルカは何も言わなかった。


 奥の流しから、グレーテが手を拭きながら出てきた。


「主任様」


「グレーテ」


「昨日の敷布のことでございますが」


「戻ったそうですね」


「戻りました。三度晒して駄目だったものが、酢で戻りました」


「手順は覚えましたか」


「……見た順は覚えております。なぜそうするのかは、覚えておりません」


「なぜは、要りません」


「要りませんか」


「順を守れば戻ります。なぜを覚えますと、順を変えたくなります」


「変えては、いけませんか」


「変えて悪くしたときに、誰が咎を負うかという話でございます」


 グレーテは手拭きを畳んで、それから畳み直した。


「主任様。あの方は、紙に書いておいででした」


「読みました」


「わたくしどもも、書いてよろしいのでしょうか」


「いけません」


「なぜでございましょう」


「この洗い場では、そのようにしております」


「……はい」


「グレーテ。二十八年、あなたは辞めさせられておりません」


「はい」


「それが答えでございます」


 グレーテは頭を下げて、奥へ戻っていった。


 ゲルダは奥の棚の前へ行き、腰の鍵を外した。


 鍵は三つ下がっている。二つは毎日使うので塗りが剥げている。三つ目は剥げていない。


 開けてはならぬ棚、と洗い場の者は呼ぶ。そう呼べと言ったことはない。開けないうちに、勝手にそう呼ばれるようになった。


 中には布が積んである。畳んで、間に紙を挟んで、日の当たらぬ側に積んである。湿りが上がらぬよう、三日ごとに向きを変える。それはゲルダが自分でやっている。


 どれも落ちなかった布だ。何の染みだったかは、入れるときに書かない。書けば残る。


 いちばん奥から、白布を一枚だけ引き出した。


 二尺四方の麻。中央が黒い。掌よりひと回り大きく、縁が波打っている。


 これは、この春に下町の女が落とした一枚ではない。もう一枚あるほうだ。同じ棚に、同じ手で塗られたものが二枚入っている。


 ゲルダは灯りに透かした。


 地の下だから、日はない。灯りに透かすと、糸のあいだの粒がわずかに光る。膠の粒だ。


 膠は緩む。緩めれば下へ落ちる。落ちれば、下から字が出る。


 三十年、白を上げてきた手だ。半日あれば、この程度の膠は緩む。


 ゲルダは布を灯りから外し、もとのとおりに三つに折った。


 棚へ戻した。


 落とさぬ、と口に出さずに決めた。決めるのに、時間はかからなかった。三十年、同じことを何度も決めてきた。


 鍵を掛けて、腰へ戻す。


 この鍵は、十二年のあいだ、誰にも渡していない。


 階の上から履物の音がした。踏む前に石を確かめる歩き方ではない。速い。


 記録方だった。


「戻られたか」


「戻りました」


「下町の紙は、綴じた」


「さようでございますか」


「錆と書いてある。写しは組合へ回る」


「回りますでしょうね」


「止めるなら、今のうちだ」


「止めますと、次の紙が来ます」


「では、来ぬようにすればよい」


「布を降ろすのをやめる、ということでございますか」


「そうだ」


「やめますと、白が上がりません」


「上がらぬままでよい。上がらぬのは、今に始まったことではない」


「記録方様」


「なんだ」


「棚のものは、まだ二枚ございます」


「焼けと言ったはずだ」


「棚のものは焼けませぬ」


「誰が決めた」


「決めた方は、もうおいでになりません」


 ゲルダは答えを待たなかった。


 記録方は指の第二関節を袖で拭いて、階を上がっていった。あの汚れ方をする者は、自分で墨を磨る。人に磨らせない者だ。


 洗い場に戻ると、ハルトヴィヒが立っていた。


「主任」


「あなたが入れたのですね」


「わたくしでございます」


「日を選ばれましたね」


「主任がお戻りになりますのは、明日と伺っておりました」


「船が早うございました」


「……申し開きはいたしませぬ」


「求めておりません」


「では、罰をお決めくださいませ」


「罰は、こちらでは出しません」


「三十年、一度もでございますか」


「一度もございません」


 ハルトヴィヒは、そこで一度言葉を切った。


「主任。あの方を、また入れてはなりませぬか」


「布は降ります。人は降りません」


「布だけでは、手順が伝わりませぬ」


「伝わらぬままで、三十年やってまいりました」


「三十年やって、白が上がらなくなりました」


 ゲルダは答えなかった。


 ハルトヴィヒは階のほうへ歩きかけて、立ち止まった。


「主任。十二年前の秋の綴じは、どちらにございますか」


「地下でございます」


「ございませぬ」


「探し方をご存じないだけでございます」


「三度探しました」


「では、四度目をお探しなさい」


 ハルトヴィヒは頭を下げて、階を上がっていった。


 ゲルダは自分の棒を取り、いちばん端の流しの前に立った。


 水の落ち口からいちばん遠い、白にはいちばん向かない流しだ。


 白は水で決まる。腕ではない。腕というものは、水の悪いところでどれだけ粘れるかにしか出ない。


 三十年、粘ってきた。


 粘ったことは、どこにも書いていない。

【落としません】


膠は緩みます。緩めれば下へ落ち、落ちれば下から字が出ます。三十年白を上げてきた手が、その半日をやらないと決めるのに、時間はかかりませんでした。書かなければ誰も消えない——この洗い場では、それが三十年ぶん本当のことでございます。


次回、一行も書いておりません。帳を持って、もう一度あの階を下ります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。