第36話 白いものを守る
船が早く着いたのではない。一日早い船に乗り換えたのだ。
ゲルダは荷を一つだけ提げて、川縁の道を城まで歩いた。馬車を呼べば半刻で済むが、呼べば誰かが知る。知られると、着く前に話が先に着く。
知らせは三日前に届いていた。記録方の下役の字だった。下町の洗い場から返り物が来た、紙が挟んであった、落ちぬ理由が書いてある。
紙が挟んであった、という一行を、ゲルダは船の上で二十度は読んだ。
城の通用門を入ると、石畳が乾いていた。掃いて、水を撒いて、乾かしてから人を通す。三十年、その順は変わっていない。
階を二度下りると、湯気の匂いが薄かった。
湯の口が二つしか動いていない。薪の割り当ては夏に減らされた。戻すよう願い出たが、返事はない。
洗い場に十二人。二年前は十四人だった。減った二人は、白が上がらぬことの咎を負って辞めさせられたのではない。年季が明けて、賃の良いところへ移っただけだ。
辞めさせられた者は、三十年で一人もいない。
それが、この洗い場の実績だった。
ゲルダが二十二でここへ入った年、洗い場から三人が出された。
当時の主任が、返らなかった布のことを書いたからだ。書いたのは一行きりで、責める言葉は入っていなかった。ただ、返らなかった、と書いてあった。
三人は罰されたのではない。ただ、いなくなった。どこへ行ったかは、誰も言わない。
その年から、この洗い場には掟が一つできた。
洗い場の者は、見たことを書かない。
書かなければ、誰も消えない。三十年、実際に誰も消えていない。掟が守ったのだ、とゲルダは思っている。思っているというより、それ以外の説明を持っていない。
十二年前に、一人だけ書いた者がいた。
あの女は名簿にいない。名簿に入れる前に、口ききで下働きとして入れた。入れたのはゲルダだ。腕が良すぎて、正規に入れれば上の者に取られると思った。
あの女は、書いた。
布に、鉄の墨で書いた。落ちぬ墨で。
湯の口の当番のミルカが、口の内側を布で拭いていた。布が赤い。
「主任様」
「錆でございますね」
「はい」
「三年前から出ております」
「あの、下町の方が」
「聞いております」
「……錆だと、紙に」
「読みました」
ミルカは布を握ったまま、次の言葉を探しているようだった。
「主任様は、ご存じだったのですね」
「存じておりました」
「では、なぜ」
「願い出は四度いたしました」
「四度」
「石工と鉄物の職人が要ります。順が回ってまいりません」
「回るまで、白は」
「上がりません」
ミルカは何も言わなかった。
奥の流しから、グレーテが手を拭きながら出てきた。
「主任様」
「グレーテ」
「昨日の敷布のことでございますが」
「戻ったそうですね」
「戻りました。三度晒して駄目だったものが、酢で戻りました」
「手順は覚えましたか」
「……見た順は覚えております。なぜそうするのかは、覚えておりません」
「なぜは、要りません」
「要りませんか」
「順を守れば戻ります。なぜを覚えますと、順を変えたくなります」
「変えては、いけませんか」
「変えて悪くしたときに、誰が咎を負うかという話でございます」
グレーテは手拭きを畳んで、それから畳み直した。
「主任様。あの方は、紙に書いておいででした」
「読みました」
「わたくしどもも、書いてよろしいのでしょうか」
「いけません」
「なぜでございましょう」
「この洗い場では、そのようにしております」
「……はい」
「グレーテ。二十八年、あなたは辞めさせられておりません」
「はい」
「それが答えでございます」
グレーテは頭を下げて、奥へ戻っていった。
ゲルダは奥の棚の前へ行き、腰の鍵を外した。
鍵は三つ下がっている。二つは毎日使うので塗りが剥げている。三つ目は剥げていない。
開けてはならぬ棚、と洗い場の者は呼ぶ。そう呼べと言ったことはない。開けないうちに、勝手にそう呼ばれるようになった。
中には布が積んである。畳んで、間に紙を挟んで、日の当たらぬ側に積んである。湿りが上がらぬよう、三日ごとに向きを変える。それはゲルダが自分でやっている。
どれも落ちなかった布だ。何の染みだったかは、入れるときに書かない。書けば残る。
いちばん奥から、白布を一枚だけ引き出した。
二尺四方の麻。中央が黒い。掌よりひと回り大きく、縁が波打っている。
これは、この春に下町の女が落とした一枚ではない。もう一枚あるほうだ。同じ棚に、同じ手で塗られたものが二枚入っている。
ゲルダは灯りに透かした。
地の下だから、日はない。灯りに透かすと、糸のあいだの粒がわずかに光る。膠の粒だ。
膠は緩む。緩めれば下へ落ちる。落ちれば、下から字が出る。
三十年、白を上げてきた手だ。半日あれば、この程度の膠は緩む。
ゲルダは布を灯りから外し、もとのとおりに三つに折った。
棚へ戻した。
落とさぬ、と口に出さずに決めた。決めるのに、時間はかからなかった。三十年、同じことを何度も決めてきた。
鍵を掛けて、腰へ戻す。
この鍵は、十二年のあいだ、誰にも渡していない。
階の上から履物の音がした。踏む前に石を確かめる歩き方ではない。速い。
記録方だった。
「戻られたか」
「戻りました」
「下町の紙は、綴じた」
「さようでございますか」
「錆と書いてある。写しは組合へ回る」
「回りますでしょうね」
「止めるなら、今のうちだ」
「止めますと、次の紙が来ます」
「では、来ぬようにすればよい」
「布を降ろすのをやめる、ということでございますか」
「そうだ」
「やめますと、白が上がりません」
「上がらぬままでよい。上がらぬのは、今に始まったことではない」
「記録方様」
「なんだ」
「棚のものは、まだ二枚ございます」
「焼けと言ったはずだ」
「棚のものは焼けませぬ」
「誰が決めた」
「決めた方は、もうおいでになりません」
ゲルダは答えを待たなかった。
記録方は指の第二関節を袖で拭いて、階を上がっていった。あの汚れ方をする者は、自分で墨を磨る。人に磨らせない者だ。
洗い場に戻ると、ハルトヴィヒが立っていた。
「主任」
「あなたが入れたのですね」
「わたくしでございます」
「日を選ばれましたね」
「主任がお戻りになりますのは、明日と伺っておりました」
「船が早うございました」
「……申し開きはいたしませぬ」
「求めておりません」
「では、罰をお決めくださいませ」
「罰は、こちらでは出しません」
「三十年、一度もでございますか」
「一度もございません」
ハルトヴィヒは、そこで一度言葉を切った。
「主任。あの方を、また入れてはなりませぬか」
「布は降ります。人は降りません」
「布だけでは、手順が伝わりませぬ」
「伝わらぬままで、三十年やってまいりました」
「三十年やって、白が上がらなくなりました」
ゲルダは答えなかった。
ハルトヴィヒは階のほうへ歩きかけて、立ち止まった。
「主任。十二年前の秋の綴じは、どちらにございますか」
「地下でございます」
「ございませぬ」
「探し方をご存じないだけでございます」
「三度探しました」
「では、四度目をお探しなさい」
ハルトヴィヒは頭を下げて、階を上がっていった。
ゲルダは自分の棒を取り、いちばん端の流しの前に立った。
水の落ち口からいちばん遠い、白にはいちばん向かない流しだ。
白は水で決まる。腕ではない。腕というものは、水の悪いところでどれだけ粘れるかにしか出ない。
三十年、粘ってきた。
粘ったことは、どこにも書いていない。
【落としません】
膠は緩みます。緩めれば下へ落ち、落ちれば下から字が出ます。三十年白を上げてきた手が、その半日をやらないと決めるのに、時間はかかりませんでした。書かなければ誰も消えない——この洗い場では、それが三十年ぶん本当のことでございます。
次回、一行も書いておりません。帳を持って、もう一度あの階を下ります。




