第37話 一行も書いておりません
人にお見せするものは、先に表を拭きます。
帳の表紙は、麻を糊で三枚貼り重ねたものでございます。七年めくってまいりましたので、右の下の角が黒うございました。めくるときに、いつも同じところへ指がかかります。
脂でございます。手の脂は、乗っているうちは落ちます。放っておきますと糊まで届いて、そこから剥がれます。
「洗うんですか、帳を」
テアが覗き込んでおりました。
「表紙だけでございます」
「中は」
「中は洗いません。墨が流れます」
「表紙は流れませんか」
「表紙には、字がございませんので」
湯をぬるくして、綿に含ませます。角に置いて、押す。待つ。綿を替える。
三度目の綿に、薄い茶が移りました。
「取れました」
「取れました」
「取ったら、七年が消えませんか」
「消えます」
「いいんですか」
「中に残っております」
ヨナスさんが工房の戸口から仰いました。
「あんた、それ持って城へ行くのか」
「まいります」
「返してもらえなかったら」
「そのときは、そのときでございます」
「気楽だな」
「気楽ではございません。ですが、持ってまいらぬ理由もございません」
「見せろって言われて、はいって渡すやつがあるか」
「見せていただきますと仰いました。返さぬとは仰っておりません」
「言い方を信じるのか」
「言い方しか、まだございませんので」
ヨナスさんは藍の手を前掛けで拭かれました。
「——で、落ちるのか」
「表紙は落ちました」
「そっちじゃない」
「そちらは、まだ分かりません」
夜明け前に発ちまして、昼前に通用の門へ着きました。
名簿には、洗い女、とだけ書いてございます。前と同じでございました。
階を二度下りますと、湯の口が三つ動いておりました。一つ増えております。薪ではなく、当番の割り方を変えられたのでございましょう。
ゲルダ様は、いちばん端の流しの前に立っておいででした。
「リントの娘」
「エルナと申します」
「持っておいでですね」
「持ってまいりました」
布の包みを解いて、七年ぶんのほうをお渡ししました。
ゲルダ様は、両手でお受け取りになりました。片手で受け取る方は、布を扱わない方でございます。
表紙を撫でて、それから角をご覧になりました。
「角が白うございますね」
「拭いてまいりました」
「拭かずにお持ちくださればよろしかったのに」
「人にお見せするものでございますので」
「拭いた角には、めくった数が出ておりました」
ゲルダ様は帳をお開きになりました。
七年ぶんでございますので、紙の色が前と後ろで違います。前のほうは日に焼けて薄い飴色になっており、後ろのほうはまだ白うございます。同じ紙を同じところに置いておりましても、下のほうから先に変わります。
墨も違います。初めの二年は薄うございました。屋敷の墨をいただいて使っておりましたので、磨り方が足りませんでした。三年目から濃くなっております。自分で買うようになりましたので、無駄にせぬよう濃く磨りました。
一頁目でございます。それから、真ん中あたり。それから、終わりのほう。
開き方が速うございました。速い開き方は、探しておいでのときの開き方でございます。
やがて、手が止まりました。
「これは、どう読むのでございますか」
「左に日付、中に布、右に染み、下に落とし方でございます」
「その順は分かります」
「では」
「探しているものが、どこにあるかが分かりません」
「何をお探しでございましょう」
「……たとえば、去る春の、白布のこと」
「日付から引かれますと、時がかかります。布から引かれますと、早うございます」
「布から」
「同じ布は、同じところに綴じてございます。白布は白布で一続き、卓布は卓布で一続き。日付は、そのなかで並んでおります」
「では、日付順ではないのでございますね」
「日付順では引けません。日付を覚えている者は、そう多くございませんので」
ゲルダ様は、しばらく黙って頁をご覧になっておいででした。
「リントの娘」
「はい」
「この帳には、誰の名も書いてございません」
「書いておりません」
「布の名と、染みの名だけでございます」
「はい」
「けれども、これは告発でございます」
「一行も書いておりません」
「一行も書いていないから、告発なのでございます」
湯の口が、低く鳴っておりました。
洗い場の十二人は、手を動かしておられます。動かしすぎではございません。今日は、こちらを見ておられました。
「三年前の春に、この布のここに、この染みがあった。それだけが書いてある」
「それだけでございます」
「それだけで、家が一つ畳まれたと伺いました」
「畳まれました」
「あなたは、何も申されなかったそうですね」
「申しませんでした」
「では、帳が申したのでございます」
ゲルダ様は帳を閉じられました。
閉じてから、表紙を上から押さえて、綴じの糸をご覧になりました。糸は三度替えてございます。七年で三度でございました。
「この書き方を、どなたに教わりましたか」
「誰にも教わっておりません」
「本当でございますか」
「嫁ぎました年の秋に、最初の頁を、この形で書いておりました」
「見たことがおありなのでしょう」
「ございません」
ゲルダ様は、綴じの糸を指でなぞっておいででした。
「わたくしは、この書き方の帳を、以前に一度だけ見たことがございます」
わたくしは、何も申し上げませんでした。
「十二年より前でございます」
「どちらで」
「この洗い場で」
「どなたのものでございましょう」
「名は、申し上げません」
「なぜでございますか」
「洗い場の者は、見たことを書かない。申し上げることも、同じでございます」
ゲルダ様は帳をお返しになりました。両手でございます。
「リントの娘。本日をもって、あなたの立ち入りを止めます」
「布は」
「布は降ろします。あちらでお受けください」
「承知いたしました」
「紙は、挟まれますか」
「挟みます」
「そうですか」
ゲルダ様は、それだけ仰いました。
わたくしは帳を包み直しました。包み布は、湿りを吸わない麻でございます。
階のほうへ二歩ばかり歩いて、それから、振り返って伺いました。
「主任様」
「はい」
「地の下に、三十年ぶんの帳がおありだと伺っております」
「ございます」
「読める者はおいでですか」
「おりません」
「では、一つだけ伺わせてくださいませ」
「どうぞ」
「読める者がいないものを、なぜ残しておいでですか」
ゲルダ様は、お答えになりませんでした。
答えないという答え方がございます。答えられないときと、答えたくないときと、答えが無いとき。この三つは、黙り方が違います。
ゲルダ様の黙り方は、三つ目でございました。
通用の階まで、イルゼさんが送ってくださいました。途中の廊下では、何も仰いません。ただ、帳の包みを何度もご覧になっておいででした。
外へ出ますと、日が高うございました。城の門から灰汁町までは半日でございます。日のあるうちに坂を下りきれます。
橋のたもとで一度休みまして、包みを開けて中を検めました。頁は減っておりません。抜かれた形跡もございません。
両手で受け取り、両手でお返しになる方でございました。
坂を下りながら、三十年ぶんの帳のことを考えておりました。
七年で厚みが指三本でございます。三十年でしたら、部屋が要ります。部屋を取って、火の気を避けて、湿りを避けて、三日ごとに向きを変える者を置いて、それを三十年でございます。
誰も読まないものに、そこまではいたしません。
読まないのではなく、読めないのでございます。読めないものを、それでも残しておいでになる。
残すという判断は、毎年しなければなりません。一度きりではございません。三十年で三十度でございます。
【落ちました】
手の脂は、乗っているうちは落ちます。七年ぶんの角を拭いて持ってまいりましたが、拭かずに持ってくればよかったのだと言われました。めくった数は、角に出ておりましたので。
次回、娘が坂を下りてくる。城から締め出されたその翌々日、城のほうから人が歩いてまいります。
ブックマークは、帳の綴じ糸の替えに足させていただきます。七年で三度替えました。




