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その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


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第38話 娘が坂を下りてくる

 城の布は、四日に一度降りてまいります。


 二十枚を三日で仕上げまして、四日目の朝に荷車へ載せます。載せる前に、番号を控えた紙と突き合わせます。二百十四から二百三十三までの二十枚でございました。今度は二百三十四からの二十枚でございます。


 番号は続いております。続いておりますということは、番号の順に棚から出しておいでだということでございます。汚れの重いものから出すのではなく、並んだ順に出しておいででした。


 どちらが良いということはございません。ただ、並んだ順に出す洗い場では、急ぎのものが遅れます。


 三日目の朝の客は、貸し物屋のヴィルマさんでございました。


「婚礼の被り布が三枚。裾が黄ばんでる」


「拝見いたします」


 三枚とも、裾の折り返しのところだけが濃うございました。畳んで棚に置いた布は、折り返しの内側から先に変わります。空気が回らないからでございます。


「これは、落ちます」


「いくらだい」


「三枚で銅貨六枚でございます」


「城の仕事してるくせに、値を上げないね」


「上げますと、こちらが先に困ります」


「どういうことだい」


「城の布は、いつまで降りてくるか分かりません。町の布は、明日も参ります」


 ヴィルマさんは、少し考えてから頷かれました。


「あんた、思ったより商売人だね」


「商売でございますので」


 三日目の午後に、坂の上に人影が立ちました。


 灰色の外套でございます。丈が合っておりません。借りたものでございましょう。


 降りてこられるのが遅うございました。灰汁町の坂は、上のほうが石で、下のほうが泥でございます。石と泥の変わり目で、初めての方はたいてい足を取られます。


 その方は、変わり目のところで一度止まって、それから足の置き方を変えられました。


「エルナ様」


「イルゼさん」


「……お邪魔でございましょうか」


「邪魔ではございません。桶をお使いになりますか」


「桶」


「足でございます。石と泥の境で、片方だけ濡れておいでです」


 イルゼさんは、ご自分の足元をご覧になりました。


 外套の裾が、膝の下まで泥で撥ねております。半日歩いた方の撥ね方でございました。歩幅が小そうございますので、後ろの裾に集まっております。


「これは、落ちますでしょうか」


「落ちます。けれども、落としません」


「……なぜでございましょう」


「今日、お帰りになりますね」


「はい」


「同じ道を、同じ足で上がられます。落としましても、坂を上がりきる前に同じところが撥ねます」


「では、どういたしましょう」


「乾かします。乾いた泥は、叩けば粉になって落ちます。濡れたまま擦りますと、泥が糸のあいだへ入ります。入ったものは、出てまいりません」


「叩くだけで、よろしいのですか」


「よろしゅうございます。泥は、汚れのうちで、いちばん行儀のよいものでございます」


 イルゼさんは外套を脱いで、日の当たるところへ掛けられました。


 その下は、城の下働きの前掛けでございました。紐が二重に巻いてございます。


 テアが湯を運んでまいりまして、その紐をじっと見ておりました。


「エルナさん。あの人、紐の巻き方が」


「お手が小さいのに、桶が大きいのでございます」


「わたし、前は握ってました」


「握っておいででした」


「今は、握らないです」


「はい」


 イルゼさんは、こちらを見ておられました。


「その子は」


「テアと申します。灰汁町の者でございます」


「わたし、十七です」


「わたくしも、十七でございます」


 二人はそれきり、しばらく黙っておりました。


 ヨナスさんが工房から顔を出されました。


「城の子か」


「イルゼさんでございます」


「歩いてきたのか。半日だぞ」


「はい」


「馬車は」


「使えませぬ。……使えません」


 イルゼさんは、そこで言い直されました。城の言葉と、外の言葉を使い分けようとしておいでなのでございましょう。


「主任様のお使いでいらっしゃいますか」


「いいえ」


「では」


「休みでございます。月に一度、半日いただけます」


「半日で、こちらまで来られますと、お帰りになれません」


「……はい」


「では、ドーラさんの物置に泊まっていただきます。狭うございますが、乾いております」


「ご迷惑では」


「乾いた場所には、人が眠れます」


 イルゼさんは、前掛けの下に手を入れて、布の包みを出されました。


 小さな包みでございます。開きますと、布の切れ端が十枚ばかり。


 どれも麻でございます。城の白布の端を、鋏で断ったものでございました。


「これは」


「書きました」


「何をでございましょう」


「棚の、帳面に書いてあったことを」


 切れ端は、どれも角のところが鋏で断ってございます。断ち方が同じでございました。同じ鋏で、同じ手が断ったものでございます。


 布に書きますのは、城の作法でございましょう。紙は湯気で波打ちますので、洗い場では布に書きます。イルゼさんは、それしかご存じないのでございます。


「紙には、お書きになりませんか」


「紙は、いただけません」


「では、この布は」


「返り物の端でございます。焼くことになっているものを、少しだけ」


「叱られませんか」


「まだ、叱られておりません」


 一枚を手に取りました。


 字が細うございます。右上から左下へ、わずかに傾いでおりました。坐らずに書いた傾ぎでございます。


 墨は煤でございました。粒が糸のあいだに挟まっております。


 書いてある形が、目に入りました。


 左に日付。中に布。右に染み。下に落とし方。


 わたくしは、しばらく手を止めておりました。


「エルナ様」


「はい」


「読めませんでしょうか」


「読めます」


「よろしゅうございました。湯気で滲んでしまいましたので、読めないかと」


「滲んでおりますのは、この二枚だけでございます」


「はい。乾き部屋に置いておりましたので」


 ドーラさんが、坂の上から下りてこられました。


「客かい」


「城の方でございます」


「城の子が、こんなとこまで」


「歩いておいでになりました」


 ドーラさんは、イルゼさんの外套を見て、それから足元を見られました。


「あんた、いい足してるね」


「……はい」


「褒めてんだよ」


 イルゼさんは、少し笑われました。城へ入って三年、笑い方を使う機会が多くない方の笑い方でございます。


「城の洗い場は、どうなっておりますか」


「湯の口が三つになりました」


「三つ」


「主任様が、当番の割り方を変えられました。薪は増えておりません」


「増えないのに、口が増えますか」


「二つを長く焚くのをやめて、三つを短く焚くようになりました」


「なるほど」


「グレーテさんが、酢の桶を一つ置いておいでです」


「主任様は」


「何も仰いません」


「置いてよい、とも」


「置くな、とも」


 わたくしは、そのことについては何も申し上げませんでした。


 置くなと仰らないのは、許したのではございません。書かないのと同じ形でございます。何も残さずに、事が進むようにしておいでなのでございます。


 夕方に、外套の泥が乾きました。


 裾を持って、下から上へ叩きます。上から下へ叩きますと、粉が下の生地へ入ります。


 粉は落ちました。跡はわずかに残っております。


「残っております」


「はい」


「これは、次にお洗いになるときに落ちます。急がないほうが、生地が保ちます」


「……急がないほうが」


「はい」


 イルゼさんは、外套を畳んでおいででした。


 畳み方が三つ折りでございました。


 同じところで折り続けますと、折り目から先に傷みます。三つに折れば、次に折るときに線がずれます。


 城の洗い場では、そう教えるのでございましょう。教えている方が、どなたかは存じません。


 物置の梯子を上がっていかれるうしろ姿を、テアが下から見上げておりました。

【落としません】


落ちます。けれども、落としません。——今日また同じ道を上がる方の裾を、今日のうちに落とす意味がございませんので。泥は、汚れのうちでいちばん行儀のよいものでございます。乾けば粉になります。


次回、手の甲で確かめる。城から歩いてきた娘が、布の切れ端に書き写したものを持ってまいりました。

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