Lv.102 光の泉
[Ⅰ]
一方その頃……。
フィオナが白い壁の奥に足を踏み入れてから、1時間あまり経過していた。
壁の外にいる護衛の者達や神官は、その場にて静かに待機しているが、流石に帰りが遅い為、少しソワソワする者も現れはじめていた。
フィオナの護衛を務める女性近衛騎士のルッシラもその1人であり、帰りの遅い主の身を案じ、同じ場所を行ったり来たりを繰り返しているところであった。
磨き抜かれた美しい銀の鎧に身を包み、その上から赤いマントを纏うルッシラは、うなじで結ったブロンドの長い髪を揺らし、誰にともなく呟いた。
「遅い……遅すぎる……これほどの時が掛かる事は今までなかった。中で何かがあったのではあるまいか」
ルッシラの言葉に、赤い神官服を着た初老の神官が反応した。
「ご案じ召されるな、ルッシラ殿。この奥は神託の間……女神の力によって守られた、云わば聖域。まず危険が及ぶような事などはありますまい」
「しかし、グスコー神殿管理官。今まで、これほど時間が掛かった事があったであろうか?」
尚も、ルッシラは険しい表情を浮かべていた。
「フィオナ様が遅いのは、女神から深い啓示を受けているからとも考えられますぞ。何れにしろ、我等に出来るのは、ただ待つ事のみ。近衛騎士である貴殿の思いもわからぬではないが、今はフィオナ様が出てくるのを待ちましょうぞ」
「まぁ確かに、そうなのだが……ン?」
と、その時であった。
白い壁が横にスライドし、奥からフィオナが姿を現したのである。
疲れた表情を浮かべたフィオナは、ややおぼつかない足取りでルッシラ達の元へとやってきた。
ルッシラは、フィオナを労った。
「フィオナ様、長い間、お疲れ様でございました。顔色が優れぬようですが、お身体の方は大丈夫で?」
「え、ええ……身体はなんともありません。ですが……」
フィオナは歯切れ悪く答えると、納得のいかない表情を浮かべた。
ここでグスコーと呼ばれた神官が口を開いた。
「フィオナ様、なんと啓示があったのかは存じませぬが、女神の意思は、古来より、このイシュマリア国の進むべき道標であります。それを、ゆめゆめお忘れなきよう」
「グスコー神殿管理官……。私もイシュマリアの末裔ですから、それは十二分に心得ております」
「ならば、何も言いますまい」
「……では神授の儀は終わりました。ピュレナ神殿に戻りましょう」
「ハッ」――
フィオナ達一行が女神像の台座から出ると、外はもう完全に日も落ち、月夜の世界となっていた。
一行は明かりの魔法・グローラムで足元を照らしながら、台座の反対に位置するピュレナ神殿へと移動を始める。
程なくして、神殿の中へと入ったフィオナ達は、女神像のある礼拝堂で立ち止まった。
そこで、グスコー神殿管理官と呼ばれた男が、フィオナに向かい、恭しく頭を下げた。
「フィオナ様、沐浴の用意は既に済んでいるそうなので、このまま光の泉へとお向かい下さい」
「わかりました。ではルッシラ、すいませんが、着替えの用意をお願いします」
「畏まりました」
ルッシラは返事をすると、女性騎士の1人に指示をした。
「フィオナ様のお着替えをすぐにご用意し、光の泉まで持ってくるのだ」
「はッ、ただ今」
指示を受けた女性騎士はキビキビと返事をし、この場を後にした。
「では行きましょう、ルッシラ」
「はい、フィオナ様」
フィオナ達一行は神殿の外へ出ると、湖がある方角へと伸びる石畳の道を進んだ。
暫く進むと、一行の前に、やや小さな神殿様式の建造物が現れた。
一行はその建造物の前に来たところで、一旦立ち止まる。
フィオナはそこでルッシラに視線を向けた。
「ではルッシラ、この前で待っていてください。すぐに戻りますので」
「仰せのままに」――
フィオナが入口を潜った先は、壁一面に女神の絵が描かれた明るい部屋で、そこには中年の女性神官と、若い女性神官が2人いた。
2人はフィオナの姿を見るなり、跪いて頭を垂れる。
まず中年の女性神官が口を開いた。
「光の泉にようこそお出で下さりました、フィオナ様。こちらで御召し物をお預かりいたします」
フィオナは無言で頷く。
そこで中年の女性神官は、もう1人の若い女性神官に指示を出した。
「さ、フィオナ様のお手伝いを」
「はい」
指示を受けた若い女性神官は、フィオナの背後に回り、脱衣の手伝いを始める。
それから程なくして、一糸纏わぬ姿となったフィオナは、長く赤い髪をフワリと靡かせ、この部屋の奥にある扉へと歩を進めたのである。
奥の扉の脇には若い女性神官が控えていた。
女性神官はフィオナに一礼し、奥の扉を開く。
そして、中へ入るよう恭しく促した。
「どうぞ中へお入りください、フィオナ様。光の泉にて、お身体をお清め下さい」
フィオナはそれに従い、扉の向こうへと足を踏み入れた。
するとそこは、青い石畳の床の中心に、白い石で縁取られた美しい泉があったのだ。
泉の周囲には、白く発光する8本の柱が立っており、その光が泉の水面に反射し、輝いていた。
それはまるで、泉自体が光を発するかのように、白く輝き、揺らめいていた。
フィオナはその泉に向かい、歩を進める。
泉の縁に来たところで、フィオナは片足からゆっくりと身体を沈めていった。
腰のあたりまで泉につかったところで、フィオナは備え付けられた小さな水瓶を手に取り、全身を洗い流すかのように、静かに水を掛ける。
そして、フィオナは右手でイシュラナの紋章を宙に描き、目を閉じて胸の前で手を組んだのだ。
「……遥かなる天上より、慈愛の光にて世を包み、我等を見守りし女神イシュラナよ……今日も1日が無事に終わりました。大地を育み、水を育み、命を育み、世界を育む貴方の息吹に感謝しますと共に、罪深きこの身を清めて悔い改め、我等が主たる貴方様へ感謝の祈りを捧げます。……そして願わくば、世の生きとし生ける物全てに、貴方様の加護と祝福の光があらんことを……」
祈りの言葉を捧げたフィオナは、目を閉じて、静かにそこに佇む。
だが、その時であった。
【祈りはもう済みましたかな、フィオナ王女。クックックッ……】
地の底から響くような、低く怪しい声が響き渡ったのである。
男の声だった為、フィオナは反射的にしゃがみ、首まで泉に浸かった。
「だ、誰です!?」
フィオナは声の聞こえた入口に振り返る。
すると程なくして、入口から、フードを深く被った漆黒のローブ姿の存在が姿を現したのだ。
「何者です! こちら側の泉は男子禁制ですよッ」
フィオナは叫ぶように言葉を発した。
「ええ、勿論、存じておりますとも」
「ル、ルッシラ! 誰かッ!」
フィオナは入口付近に待機しているであろうルッシラ達に、慌てて呼びかけた。
しかし、ルッシラはおろか、他の騎士も現れなかったのである。
それどころか、返事すらなかったのだ。
ローブ姿の存在は愉快そうに言葉を発した。
「ククククッ、助けを呼んでも無駄ですな。外の者達は今、ぐっすりと眠っているところだ。起こさずに休ませてあげたまえ。クククッ」
不敵に笑いながら、ローブ姿の存在は泉の前で立ち止まる。
それを見たフィオナは、後ずさり、険しい表情で弱々しく言葉を発したのであった。
「一体、な、何をするつもりなのです」
「何をするつもりだって? クククッ、決まっている。貴方にとって良くない事だ。だが心配はするな、今はまだ命まで奪うつもりはない。といっても、後の事まではわからんがな。まぁそういうわけだ。観念してもらおうか、フィオナ王女よ……」




