20. 狂気
幾つもの扉を通り過ぎたリズベットは、とある扉の前で立ち止まった。その中にジェルニエがいるという予感がしたのだった。
扉を開けて足を踏み入れた場所は、見覚えのない屋敷の廊下だった。床にはふかふかのカーペットが敷き詰められ、壁には彫刻のように見事な魔導照明が飾られていた。
壁に掲げられた肖像画に近づき、絵を眺めようとしたその時、廊下の向こうから若い女性の声が聞こえてきた。
「ミロス様、廊下をそんな風に走られては困ります!」
続いて一人の少年がコロコロと声を上げて笑いながら廊下を駆け抜け、リズベットの体をすり抜けて走り去っていった。その跡を追って侍女が通り過ぎた。
(ジェルニエ侯爵様……?)
髪の色と雰囲気からして、ジェルニエに間違いなかった。
*** ***
場面が切り替わり、そこは浴室だった。木桶の中に腰を下ろしている少年の髪を、先ほど目にした侍女が洗っていた。
(なんて愛らしいの……!)
リズベットと思わず感嘆の声を漏らしそうになった。13、4歳ほどの少年は、あまりにも清楚で美しかった。幼子から少年へと差し掛かる境目だろうか。まさに今、蕾をほころばせ始めたバラのように輝いていた。
(幼い頃から人並み外れた美少年だったのね)
「これからは一人で洗うよ」
侍女の手がピタリと止まった。
「どうしてそんなことをおっしゃるのですか? お一人でどうやって洗われるのですか」
「僕だって、もう大人だよ。父様もおっしゃっていたもの。声も変わって、身体も……」
少年は少し照れくさそうに口をつぐんだが、言葉を続けた。
「身体だって、前とは変わってきているでしょう?」
「もう、私がお嫌いになられたのですか?」
侍女が寂しげな表情を浮かべると、少年は慌てて取り繕った。
「そんな意味じゃないよ、エミリー。ただ、大人になったのだから変わらなきゃいけないかと思ってさ」
「大人になられるなんて、まだまだ先のことですわ」
エミリーは澄ました口調で言うと、湯の中に手を差し入れ、ジェルニエの手をすくい上げた。
「こんなにも手がお綺麗で繊細な男性がどこにいますか? 筋肉だって一つもついていらっしゃらないでしょう?」
顔を真っ赤にしたジェルニエが反論した。
「これからもっと鍛錬に励むつもりだよ」
「筋肉なんて誰にでもつくものではありませんわ、ミロス坊っちゃま」
エミリーが朗らかに笑いながらジェルニエをからかった。
その後、腰にタオルを巻き、自力で身体を拭くと意地を張るミロスとエミリーとの間で微笑ましい押し問答が繰り広げられ、妥協案として背中と髪だけをエミリーが拭くこととなった。
一見すると仲の良い姉弟のように思える心温まる光景だった。しかし、リズベットの目には、危うい緊張が透けて見えていた。ミロスを見つめるエミリーの眼差しには、親愛を越えた熱い情念が宿っていたのだ。
そして、その予感は違わぬものとなった。深く静まり返った夜、少年ミロスの寝所へエミリーが忍び込んだのだった。衣服を脱ぎ捨て、少年のベッドの中へと滑り込んでいくエミリーを目にしたリズベットは、驚愕と狼狽でどうしていいか分からなかった。
少年を叩き起こして報せようとしたものの、自分は記憶の訪問者に過ぎず、この状況に何一つ干渉することは叶わなかった。
間もなくエミリーがミロスを抱きすくめると、深く眠っていた少年は跳ね起きるように目を覚ました。
「エミリー、一体何を……!」
びっくりしたミロスがエミリーを押し払おうとしたが、すでに理性を失ったエミリーは少年の体をさらに強く抱き締め、すがりついた。
「ミロス様、愛しております。私を受け入れてください」
エミリーの双腕がミロスの体を縛りつけるように抱きすくめ、全身を密着させた。しばらく揉み合っていた最中、少年の体から強烈な風が吹き荒れ、ついにエミリーを吹き飛ばした。
ベッドから躍り上がったミロスは、真っ白な顔で息を荒らげながらエミリーを睨みつけた。彼の体から湧き立つ風によって髪と衣の裾が乱れ舞った。
震える唇の隙間から、彼らしくもない冷たい声が漏れ出た。
「命令だ。今すぐ出ていけ。それから、二度と私の前に姿を現すな」
*** ***
その後に広がる光景は、先ほどとは一変していた。ミロスがこの件を沙汰にしなかったためか、エミリーが侯爵邸から追放されることこそなかったものの、以前のようにミロスの身の回りの世話をすることは叶わなくなっていた。
エミリーの瞳は相変わらず切望を込めてミロスの姿を追い求めていたが、ミロスがこれ以上彼女に視線を向けることも、言葉をかけることもなかった。
そして、ある日の夜。手に短刀を握りしめたエミリーが、ミロスの前に立ち塞がっていた。エミリーの瞳は狂気に爛々(らんらん)と輝いていた。
「エミリー、何をするつもりだ?」
「どうして私にそんなにも冷たくなさるのですか? いつも微笑みかけ、優しく語りかけてくださったではありませんか!
あなたを愛することが、それほどまでに大きな罪なのですか!?
ただ、私の愛を受け入れてくださるだけで良いのです……!
それ以外には何も望みませんのに。これほどまでにあなたを愛しているのに……。愛して、愛して、愛して狂ってしまいそうなのに、なぜなのですか!?」
半狂乱になって叫んだエミリーが、涙の溢れる瞳でミロスを見つめた。
「私があなたを手に入れられないのなら、誰一人としてあなたを手に入れることなどさせません。
私が永遠にあなたの心を占領してみせますわ。絶対に、絶対に私を忘れることも、私から逃れることもできないようにして差し上げますから!」
エミリーの後に続く言葉は、高笑いのような狂った笑い声へと変わった。
エミリーが手に握った刃を己の喉元へ突きつけると、ミロスは狼狽して絶叫した。
「やめろ! 頼むからやめるんだ!」
刀を奪い取ろうと駆け寄ったものの、すでに遅かった。エミリーは刃で己の喉を突き刺した後だった。鮮血に染まったエミリーが、ミロスに向かって歪んだ笑みを浮かべた。
「これで……ミロス様は私のものですわ。永遠に……」
凍りついたようにその場に立ち尽くすミロスに向かい、エミリーが手を伸ばした。そして恐ろしい力で少年を絡め取るように抱きすくめた。
「あなたは私のものよ……いつまでも、私から逃れることなんてできない……」
エミリーから滲み出た暗赤色の血が、少年の体を伝って広がり始めた。このままではその血の中に、ミロスの体が完全に沈んでしまいそうだった。
(これは現実じゃない!)
リズベットはハッと正気に戻った。
どこまでが真実でどこからが悪夢であるかは分からずとも、少なくとも今のこの状況は現実ではないはずだった。喉を刺したエミリーが言葉を紡げるはずがない。
この光景がジェルニエのトラウマであり悪夢であることを悟ったリズベットは、少年へと駆け寄り、エミリーから彼を引きはがした。
少年は何かに呑み込まれたかのように硬直していた。焦点を失い大きく見開かれた瞳は、虚空を見つめていた。
「しっかりしてください、侯爵様!」
ジェルニエの体を掴んで揺さぶり起こそうとしたが、無駄だった。リズベットは焦燥のあまり、少年の体を強く抱きしめた。
「ミロス様、しっかりなさってください! これは現実ではありませんわ!」
ミロスがポツリと呟いた。
「僕のせいだ……」
間もなく少年は激しく身悶えし、絶叫した。
「僕のせいだ。僕がエミリーをあんな風にしてしまったんだ。あんなに冷たく突き放すべきじゃなかった。上手くなだめるべきだったんだ。
……僕が軽率に行動して誤解させて、結局僕のせいで死なせてしまったんだ……!」
リズベットはきっぱりと否定した。
「いいえ! 絶対に違いますわ! それは愛などではありません!
相手の心を無視し、壊してまで所有しようとするのは、愛ではないのです! それはただの所有欲に過ぎません!
本当に愛しているなら、その人の幸せを祈ること、その人のために自分を捨てて喜んで犠牲になれること――愛とはそういうものですわ!
あなたの温もりや親切、思いやりは、絶対に間違ってなどいません! あなたは何も悪くなどないの!」
必死でジェルニエを落ち着かせようと努めていたリズベットは、いつしかミロスのすすり泣きが収まっていること、そして己が抱きしめている対象がもはや少年の体ではないことに気づいた。
「あ……」
驚いたリズベットは慌てて彼を放し、身を引いた。
ジェルニエは悲しくも落ち着いた眼差しで、かすかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」




