19. すれ違う運命
リズベットは自分の居室である小さな屋根裏部屋の秘密の場所に、ジェルニエのマフラーを隠しておいた。この屋敷でリズベットが受けた唯一の特別待遇と言えば、大部屋を大勢で使う他の下女たちとは異なり、狭く汚らしい屋根裏部屋であろうと自分ひとりだけの空間があることだった。
悲しく寂しい夜には、リズベットはそのマフラーを大切に抱きしめて眠りについた。そうすると、ジェルニエが手を握ってくれたあの時のように温かな感覚が広がり、寂しさや悲しみが少しは和らぐ気がした。
マリサや周囲の人々が交わす話から、あの温かく親切な人物がジェルニエ侯爵家の後継者、ミロス・ジェルニエであることを知った。マリサはミロスとどうにか縁を結びたがって躍起になっていたが、彼が己の思い通りにならないことに腹を立てては憤慨していた。
(あのお方に違いないわ。私の運命の人……)
ここへ立ち去る前、母親がリズベットに授けてくれた言葉があった。酷く苦しく厳しい時間が続くであろうが、その時間を耐え抜けば運命の人に出会えるだろうと。その人から思う存分愛され、愛し、幸せを育んでいくことになるだろうと、母親は語っていた。
そして、その時までは、どれほど苦しくとも自分をひた隠しにしなければならないと釘を刺された。生半可に己の知る事柄やできる業を露わにすれば、永きにわたってさらなる不運と苦難を味わうことになると告げられていたのだ。
だからこそリズベットは、ひたすら待ち続けた。彼が本当に自分の運命の人であるならば、いつか、どのような形であれ再びめぐり合い、結ばれるはずだと信じていた。
ところが、思いがけず王都から遥か遠く離れたラヴェンナの領主、クラヴァンテ辺境伯のもとへ偽りの娘として輿入れさせられることになった。
マリサは面白くてたまらない様子でリズベットをあざ笑った。
「あそこへ行けば、この屋敷が恋しくなるはずよ。毎日生臭い魚ばかり食らって暮らすことになるんだから。
あの男はね、年中船に乗って回ってるおかげで肌は真っ黒に焦げ、垢抜けなさの極みみたいな図体ばかりでかい男よ。母親だってどこ出身かも分からない卑しい冒険者だったっていうじゃない。
名ばかりの貴族で、実質野蛮人と変わりないわ。毎日ぶん殴られるのはおまけみたいなものだから、腹を括っておくことね」
リズベットの心は打ちくだかれた。彼女を支えていた唯一の希望が崩れ去ったのだ。
輿入れを控え、無理やり貴族家の令嬢としての教育を受けていたある日、リズベットは一生一代の決意で公爵邸を脱出し、ジェルニエ侯爵邸へと向かった。ジェルニエをむやみに訪ねて何をどうすべきかも分からなかったが、このまま望まぬ結婚へと引き立てられるわけにはいかないという切迫感ゆえの行動であった。
時折、他の下女とお使いで外へ出た際、ジェルニエ侯爵邸の位置を把握しておいたのだった。しかし外部の地理に疎かったため途中で道に迷い, 結局のところ侯爵邸からそう遠くない場所で、彼女を捜しにやってきた公爵家の使用人たちに捕まってしまった。
馬車へ無理やり押し込められる過程で、胸に抱いて逃げ出したジェルニエのマフラーが地面へ落ちた。マフラーを拾おうと馬車から身を乗り出そうとするリズベットの髪を若い使用人が荒々しく掴み上げると、年配の別の使用人が注意を促した。
「気をつけろ。公爵様のお言葉を聞かなかったのか? 顔に傷でもついたらどうするつもりだ」
涙すら出なかった。胸に大きな穴がぽっかりと穿たれたかのように、空虚で乾ききった絶望だけが満ちていった。
*** ***
いつしか過去のリズベットに完全に同化し、死のような絶望の中に閉じ込められていたリズベットは、はっと正気に戻って顔を上げた。
彼女は冷え冷えとした街頭に立っており、哀れなリズベットを乗せた馬車が道の向こうへと消え去っていく光景が目に映った。
吹きすさぶ風に襟元を正しながら、人々が足早にリズベットの体を空気のようにすり抜けて通り過ぎて行った。どんよりと曇り空の広がる灰色の空からは、雪が舞い散り始めていた。
(記憶の宮殿……ここはリズベットの記憶なのね)
そう悟った瞬間、先ほどまで己を支配していた凄惨な悲しみが幾分やわらいだ。ここから出なければと考え周囲を見回すと、道の真ん中にポツンと佇む白い扉が見えた。
リズベットはその扉をくぐり、別の空間へと足を踏み出した。外は白い大理石でできた長い廊下であった。
廊下に立ったリズベットは胸に手を当てた。重い石に押し潰されるようだった痛みは消え去っていたが、ずしりと重い悲しみの余韻は依然として残っていた。
過去のリズベットにとって、ジェルニエ侯爵は初恋、あるいは救済の象徴であった。レトナでジェルニエに初めて出会った時に感じた奇妙なときめきは、もしかすると彼を今なお記憶していた心臓の鼓動であったのかもしれない。
もしもあの日、リズベットがジェルニエに出会うことに成功していたならば。そうであったなら、リズベットの物語は現在とは異なるものになっていたはずだ。少なくともジェルニエは、己に救いを求めて駆け寄ってきた哀れな少女を見捨てるような真似はしなかっただろうから。
けれど、今は……。
リズベットはアルゼンから贈られた指輪をぎゅっと握りしめた。やがてジェルニエへと思いを馳せたリズベットは、彼を捜し求めて歩み出した。




