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18. 記憶の宮殿

 翌日、リズベットは図書室でジェルニエと顔を合わせた。魔法研究所に保管されていたベルケススの本を運び出し閲覧台に載せた後、リズベットはジェルニエと並んで閲覧台の前に立った。


「私はその絵が何であるか分かりませんので、侯爵様が開いてくださるのが宜しいかと」


「感謝いたします。では、お言葉通りに」


 ジェルニエが本に手を触れた瞬間、ページが勝手にめくれ始めた。本は自ら翻り、中盤のあるページでぴたりと止まった。


 複雑で抽象的な形状が絡み合う絵画の中で、リズベットの目には宮殿のように見える形が浮かび上がっていた。宮殿の輪郭が鮮明になるにつれ、その丸い屋根に文字が刻み込まれた。


(記憶の宮殿……?)


 一方、ジェルニエに見えたのは、横を向いた体勢で片手に大きくしなった剣を手にした男の姿だった。写本で目にしたものよりも、遥かに鮮明で確固たる形であった。


 ところが絵が突如として動き出し、描かれた男が首を巡らせて正面を向いた。男の瞳が金色に明るく輝いた瞬間、周囲の景色が一変した。


         ***     ***


 リズベットは自分が夜の野原に立っていることに気づいた。


(妖精の涙……)


 ()え冴えとした満月の下に広がる野原に、「妖精の涙」がかすかな光を放ちながら見渡す限り咲き誇っていた。そしてそこには、幼いリズベットがある女性の手を握って立っていた。


「きれいね」

 幼子の愛らしい声が響いた。


「そうね。きれいね」

 女性が応えた。


 リズベットは静かに二人のもとへ歩み寄ってみた。二人はリズベットの存在に全く気づいていないようだった。


 ふと二人とは異なり、自分には影がないこと、そして己の体が空気のように軽やかに感じられることに気づいたリズベットは、ここがある種の幻影の世界であることを悟った。


(リズベットの記憶なのかしら?)


 二人の正面に回ったリズベットは、幼いリズベットと女性をまじまじと見つめた。


 10歳になるかならないかの幼いリズベットは、屈託のない無垢な表情をしていた。そして愛おしそうにその手を握りしめている女性は、若く美しい姿で、現在のリズベットに実によく似ていた。


 直感で、彼女がリズベットの母親であると分かった。彼女の視線は花咲く野原ではなく、遥か遠くの目に見えぬどこかへ向けられているようだった。女性の目元にじんわりと涙が滲み、白い頬をつたって静かにこぼれ落ちた。


 あたかも己の娘であるリズベットが辿ることになる苛烈な時間を知っているかのように、彼女の顔は深い悲しみに満ちていた。その涙が胸を締めつけ、初めて目にする人物であるはずなのに、不思議と見慣れぬ感覚はなく切ない懐かしさがこみ上げてきた。


 突如として女性が視線を巡らせ、リズベットを真っ直ぐに見据えた。驚くリズベットに向かって女性が口を開いた。その瞬間、猛烈な風が吹き荒れ、リズベットの髪が無造作に舞い上がって視界を遮った。


 声は全く届かなかったが、女性の唇の動きから彼女が伝えようとした意味が読み取れた。それは紛れもなく――(お願いね)という言葉だった。


*** ***


 風が収まった後、リズベットが立っていたのは冬の水井戸の傍らだった。牡丹(ぼたん)(ゆき)が舞い散る中、幼いリズベット――先ほど目にした時よりも少しばかり成長した姿の少女が、うずくまって洗濯をしていた。


 古びて惨めな薄着を纏い、氷の混じる冷たい水に凍えた手を幾度もすくませながら洗濯物を擦り合わせる小さな少女の姿は、あまりにも痛々しく可憐だった。


 荒れた小さな手に突き刺さる、錐で刺されたかのような鋭い寒気がリズベットにもそのまま伝わってきた。しかし、それ以上に苦痛だったのは、凄絶(せいぜつ)な孤独と絶望であった。


 この状況から逃れられないという絶望が、幼い心を重く押し潰していた。凍てついた小さな手を握り締め、少しでも温めてやりたいと願うのに、リズベットの手は幼いリズベットに届くことはなかった。


「こんな寒い日に、そこで何をしているんだい?」


 背後から聞こえた男の声に、リズベットは驚いて振り返った。


 ジェルニエだった。現在よりもどこか青臭さの残るジェルニエが立っていた。


 幼いリズベットと、彼女の前に置かれた洗濯物を目にしたジェルニエは、事情を察したように痛ましい表情を浮かべた。


「こんな寒い日に、わざわざ外でこんな仕事をさせるなんて……」


 リズベットはすっかり怯えきり、子猫のように身を縮めていた。


「服が薄そうだね。寒くはないかい?」


 ジェルニエの優しい声にも、リズベットは相変わらず怯えたまま首を深く垂れてかぶりを振った。


 ジェルニエはリズベットの前にしゃがみ込むと, 己の首に巻いていたマフラーを解き、彼女の首元に巻いてやった。そして赤く凍えた小さな手を、両手で優しく包み込んだ。


 彼の手を通して、温かな気合いが凍りついた体へと滲み渡っていった。暖かな春風が全身を包み込むかのように心地よく、体の内側からぬくもりが満たされていく感覚だった。


 リズベットが今まさに顔を上げて礼を言おうとしたその刹那、遠くからマリサの声が聞こえた。


「ミロス様、どちらにいらっしゃいますの?」


「おっと」

 ジェルニエは声のした方をちらりと見やり、どこか悪戯っぽい口調で囁いた。


「僕を見たことは秘密にしておいておくれ」


 そう言うと、急いでその場を立ち去った。


(雪のせいで足跡が残ってしまうわ……)


 振り返って見ると、別の方向へ歩み去るジェルニエの足元から微かな風が巻き起こり、彼の足跡を雪で綺麗に覆い隠していた。


 不思議そうにその光景を見つめていたリズベットはマリサの存在を思い出し、慌てて首に巻かれたマフラーを解いてスカートの下へ隠した。


 間もなくマリサがそこに姿を現した。ジェルニエの足跡はすでに跡形もなく消されていたため、彼が訪れていたことには全く気づかなかった。


「あんた、またここで何してるのよ?」

 マリサが神経質な口調で詰問した。


「お嬢様がこれを今すぐ洗うようにとおっしゃいましたので……」


 マリサはリズベットの言葉を最後まで聞きもせず、苛立ちを露わにした。


「そんな汚らしい格好でどこに出てきてるのよ! ミロス様に見られたらどうするつもり!? 見るのも不愉快だから、早く消え失せなさい!」


 リズベットがいそいそと洗濯物を拾い集める間、マリサはジェルニエを探して周囲を見回し、やがてやって来た方向へと戻っていった。


「どこへ行かれたのかしら? せっかくうちにいらしたのだから、こんな機会に二人きりでお話しでもしたいのに」


 リズベットはマフラーを隠し持ち、その場を後にした。相変わらず雪は降り続いていたが、先ほどとは異なり、もう寒くも苦しくもなかった。母親と別れて以来、初めて味わうぬくもりだった。


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