15. 『ベルケスス博物誌』
リズベットがソファで心地よく寛ぎながら本を読んでいた時のことだった。扉をコンコンと叩く音が聞こえ、シャイナがひょっこりと顔を覗かせた。
「リズベット、今ちょっといい?」
「ええ。今はちょうど休んでいたところよ」
「すごく疲れてるとかじゃない?」
「大丈夫。特に無理な仕事もしていないもの」
シャイナらしくなく歯切れの悪い様子を不審に思い、リズベットは用件を尋ねた。
「何かあったの?」
「うん、実はね、魔導書をひとつ一緒に見てほしいんだけど……」
「魔導書?」
「そう。遠い国の商人が貴重な魔導書を売りたいって持ち込んできたの。『ベルケスス博物誌』の原本だって言うんだけど、それで今それを確認してるところなの」
「『ベルケスス博物誌』の原本ですって?」
『ベルケスス博物誌』の存在については、リズベットも知っていた。ベルケススは200年ほど前に別の大陸で活躍したと言われる大魔導士であった。彼が書き遺したという博物誌には、各種の魔獣や魔法植物、魔法薬の製法など、貴重な魔法の知識が収められていると伝えられていた。
魔導書の性質上、印刷ではなく写本の形でしか存在しないのだが、難解な暗号文字と絵画で記述されているため、現地の人間すらまともに解読できないことで知られていた。それに加え、魔導士らの気性ゆえに自らの解読内容を他者と共有しようとしないため、公式な解読本が存在しなかったのだ。
『ベルケスス博物誌』の評判には、もうひとつ理由があった。大魔導士ベルケススが、その本の中に自らの強大な魔法の源泉を隠しおいたという言い伝えがあるのだ。そのため、当然のことながら偽物も多く出回っていた。
もしその本の原本で間違いないとすれば、途方もない価値を持つ魔導書であるはずだった。
「そういうものなら、ギスカール様やヴィーチェが専門家でしょう?」
「実は本自体は本物で間違いないみたいなの。おじいちゃんが言うには、高い境界に達した魔導士が強い魔力を込めて執筆した書物に間違いないって。
それにヴィーチェ婆はベルケススの筆跡を見たことがあるらしくて、彼が書いた本物に違いないって断言したの」
「なら、何が問題なの?」
「本があまりにも高価でね。それほどの金を支払う価値があるのかどうか、ステアン様も判断に迷っていらっしゃるの」
商人が提示した価格は大金貨5000枚。日本円にして約5億円に相当する巨額であった。
(確かにとんでもない金額だわ)
いくら名高い魔導書とはいえ、家令ステアンが躊躇するのも頷ける金額だった。
「ヴィーチェは何と言っているの?」
「『ある者にとってはそれ以上の価値があろう。だが、大半の人間にとっては珍しい絵本に過ぎん』って。それだけ言って、興味なさそうな顔で出て行っちゃったわ」
「そうなの?」
本物であると既に分かっているのに、自分が観たところで何が変わるのだろうかと思ったが、本への好奇心をそそられたリズベットはシャイナの後をついて行った。
*** ***
魔法研究所で『ベルケスス博物誌』を開いてみたリズベットは、この大陸の文字とは異なる見慣れない文字であることに加え、高度かつ精密に組まれた暗号文であることに気づいた。
一見すると、脈絡も文脈もない文字が無作為に羅列されているように見えたが、リズベットの目には、幾つもの異なる内容が複雑で精巧な法則によって混ざり合わされているのが見て取れた。
挿絵も同様で、現代美術のキュビスムのように幾つもの形態が多角的に解体され、混ざり合っていた。これが単なる知的遊戯ではなく、誰にでも安易にその内容を明かすまいとする意図によるものだということは容易に想像がついた。
世間で言われている通り、魔法植物や魔獣、各種の魔法薬に関する知識であることは間違いなかった。
だが、この魔導書には、そこに記された内容以上の「何か」が存在するという予感が漂っていた。
「奥様からご覧になって、いかがでございますか?」
家令のステアンが尋ねた。
「複雑な暗号と絵画ではありますが、読み解くことはできますわ。多彩で興味深い内容がたくさん詰まっていますね。
それに……そうした知識だけでなく、何かさらに重要で巨大なものが隠されているような気がいたします」
「奥様からご覧になってもさようでございますか! だからこそ、これが一層本物であると確信いたしました」
ギスカールが嬉しそうな表情を浮かべた。
「いかがいたしましょうか?」
ステアンの問いかけに、リズベットはすぐには答えられず躊躇した。ヴィーチェとギスカールが本物だと認め、リズベットの目から見てもこれは特別な魔導書だった。
しかし、この本に秘められた「それ」が一体何であるのか、現時点では全く見当がつかない点と、何より提示された価格が価格だけに、自ら決断を下すには荷が重かった。
リズベットが逡巡しているのを察したステアンが言った。
「閣下へご報告申し上げ、購入の手続きを進めさせます」
*** ***
商人ドゥルファンは、飛んでいくような晴れやかな気分でレトナ内城を後にした。彼の懐には、クラヴァンテ伯爵家から受領した受渡書と書類が納められていた。
辺境伯家の家令は代金をすぐさま金貨で支払うと申し出たが、ドゥルファンはクラヴァンテ伯爵家で生産されている商品――レトナ・シルクや希少な染料、再生軟膏、高級化粧品などの現物での受け取りを希望したのだった。
家令はこれを快く承諾し、本の価値に見合う物資の引換書を作成してくれた。
「思ったよりずっと早く、あっけなく終わったな。鑑定だけでも何日もかかると思ってたのに」
弟のガビが胸を撫でおろしながら言った。
「俺が何と言った? ここならあの本の価値を見抜き、それ相応の対価を払ってくれると言ったろう? 苦労してあの本を手に入れた甲斐があったというものさ」
「鑑定が早かったのもそうだけど、正直驚いたよ。あれほどの額の金を即座に出すと言い切るなんてさ」
「確かにな。俺も相当な金持ちだとは思っていたが、さすがにスケールが違う」
ドゥルファンはふと足を止め、レトナの翼を振り返った。折良く翼が角度をわずかに変え、大きく優雅に羽ばたいた。
船に乗り、レトナ港へ入る途上、遥か丘の上で輝く「レトナの翼」を目にした時、ドゥルファンは確信していたのだ。あのような神話を地上に再現してみせた人物であれば、必ずやあの本の価値を理解するはずだと。そしてその予想は見事なまでに的中した。
「いつ頃品物を受け取れるんだろうな?」
ガビが興奮を隠せない声で呟いた。
「焦る必要はないさ。準備ができ次第連絡すると言っていたから、それまで俺たちは自分たちの仕事をしていればいい。
船に残っている残りの商品を売り払って、レトナで他に仕入れるものがないか見て回ろう」
レトナ・シルクをはじめとする特上品は、需要に対して供給が絶望的に不足している状態であり、よそ者の商人が大量に買い付けることなど事実上不可能に近かった。それを「特別供給」という形で、望む商品を指定して製造してもらえるのだから、それだけで破格の特権と言えた。
視線を戻したドゥルファンは、満足げに呟いた。
「金貨よりもこちらの方が何倍も価値がある。船いっぱいにあの品々を積み込んで無事に戻りさえすれば、一気に目眩のするような富を掴むことができるのだからな」
「兄さん、俺たちもこれで本当に『豪商』の仲間入りだな」
「ああ、間違いないさ」
兄弟は膨らむ野心を胸に、レトナの市街地へと足を進めた。




