8. 美の都
レトナへ戻ると、旅から帰ってきたヴィーチェが待っていた。 リズベットの身に起きた災難を聞いたヴィーチェは、あきれたように舌を打ち鳴らした。
「何事もなくて良かったものの、一歩間違えればあの一帯がひっくり返るところだったね。アルゼンがそこらをすっかり焼け野原にしてたんじゃないかい?」
意地悪な口調でヒヒッと笑うヴィーチェに、シャイナが抗議した。
「何ですか、その言い方は! 私たちがどれだけ驚いたか。慰めてくれてもいいじゃないですか」
「無事だったんだからいいじゃない。護衛騎士もちゃんと付いていたし、シャイナ、あんたもいたんだから心配することなんてないだろ?」
そう言うと、ヴィーチェはリズベットの手をがばっと掴んだ。
「よく対応したよ。馬から落ちなかっただけでも十分大したものさ」
「怖くて必死にしがみついていただけです」
リズベットは気恥ずかしそうに呟いた。
「それが出来たのがすごいのよ。落馬事故で死んだり大怪我したりする人間がどれほどいると思ってるんだい?」
今でもあの日の出来事を思い出すと、背筋がヒヤリと凍りついた。これまで自分なりに体調管理や体力作りに励んできたが、まだまだ先は長いと思い知らされた。
(体力は確かに向上したみたい。馬の上で持ちこたえられたのも、そのおかげかもしれないわね。
……問題はメンタルよ。危険な瞬間にパニックに陥ってすくんでしまったら、コレットまで危険に晒してしまうわ。メンタル強化なんて、何か良い方法はないかしら?)
そんな思考に没頭していると、ヴィーチェがシャイナに問いかけた。
「ときにあんたは、恋愛を始めたんだって? どうだい、楽しいか?」
「な、何ですかその質問? 素直にお祝いしてくれたらいいじゃないですか!」
ヴィーチェはクスクスと喉を鳴らして笑った。
「どうしてさ? どれほど重要な質問か。恋愛してる時くらい楽しくなくちゃね。人間の人生の中で数少ない輝く時間なんだからさ」
リズベットはヴィーチェの顔色を伺いながら、申し訳なさそうに言った。
「お聞きになったかもしれませんが、私が二人を引き合わせたのです。ヴィーチェがいない間に身勝手な真似をしてごめんなさい」
ヴィーチェがシャイナを可愛がっていることを知っていたため、内心ずっと気にかかっていたのだ。
ヴィーチェは首を振った。
「あたしに謝ることなんてないさ。当人同士が惹かれ合って、親が許したんならそれで良いじゃないか」
そう言うと、シャイナを指差してニッと笑った。
「むしろよくやってくれたよ。こいつはたまに変なツボにハマるところがあるから、下手におかしな男に引っかかりはしないかと心配だったんだ。おかげでまともな男と結ばれたじゃないか」
「何よそれ! ヴィーチェ婆まで、お父さんやお母さんと同じようなこと言って!」
シャイナは頬を膨らませてヴィーチェを睨みつけた。
「テイトン子爵様を高く評価してくださって安心いたしました」
ヴィーチェの好意的な評価に、リズベットは胸を撫でおろして微笑んだ。
「あの男なら十分まともな部類さ。身元も確かだし、言動も落ち着いていて信頼できる。
……ところでリズベット、あたしが留守の間にまた新しいことを始めたんだって?」
「ええ。ヘアとメイクアップを専門とする人材を育ててみようかと思いまして。本格的にカラーコスメも発売する予定ですので、そちらの専門家が必要になると思ったのです」
「ほう、騎士学校みたいなものかな? 何人くらい教えるつもりだ?」
「まずは最初ですので、12人から始めようと思っています」
ヴィーチェが意味深な表情で尋ねた。
「これからもっと規模が大きくなる可能性もあるのかい?」
「それはやってみないと分かりませんね」
先のことはまだ分からないため、リズベットは含みを持たせた。
「ふうむ……レトナが名実ともに『美の帝国』の心臓になりつつあるね」
「美の帝国だなんて。いくら何でも誇張がすぎますわ」
リズベットは呆れたように笑ったが、ヴィーチェの表情は至って真剣だった。
「冗談じゃないよ。あたしが今回あちこち旅をして回っただろう? 今、人々がレトナをどう呼んでいるか知ってるかい?
『美が生まれる場所』『美の都』なんて呼んでる。レトナ・シルクは文字通り空前の大人気だし、精製水、化粧品、傷の軟膏などなど、レトナから出る商品は品切れで買えないほどさ。
それに、パーティーでリズベットが着ていた『高貴なる者の青』をはじめ、各種ドレスやメイク、公演の際に舞姫たちが披露した衣装や小物に至るまで、すべてのものが話題に上っている。
貴族家はもちろんのこと、金のある商人まで、誰もがリズベットのスタイルを真似しようと大騒ぎさ」
「そうなんですか……?」
リズベットは照れくさそうに頬を赤らめた。自分がこの時代のトレンドセッターであり、憧れのセレブになったようで誇らしく思う反面、心の一隅では漠然とした不安が渦巻いていた。
――光が強いほど、影もまた濃くなるものだ。
このように人々の注目を集め、噂の渦中に置かれ続ければ、万が一にも自分の秘密を知る者たちにまで不穏な刺激を与えてしまうのではないか、という思いが頭をよぎったのだ。
*** ***
最終的に選ばれた12人の少女が決まった。ジルマから名簿を受け取ったリズベットは、少々困惑した。
伯爵令嬢が3人、子爵令嬢が2人、男爵令嬢が3人に、准男爵令嬢が1人。そして最後の3人がそれぞれ豪商の家系が2人、騎士家系出身が1人という構成だった。
「どうしてほとんどが貴族家の令嬢たちなの? 何を受けるのか勘違いしているんじゃないでしょうね?」
まさかという思いで確認するリズベットに、ジルマはきっぱりとした口調で答えた。
「ご安心ください。ヘアとメイクを学ぶのだという点は正確にお伝えしてございます。また、決して身分で選んだわけでもございません。奥様がおっしゃった条件に従って推薦を受け、選抜した結果でございます」
「うーん……伯爵令嬢たちの場合は、どう接すればいいのか分からないわね」
同等の地位の相手であれば、気やすく接することは難しいように思えた。かといって、他の生徒と差をつけたり特別扱いしたりしたくもなかった。
ジルマはむしろ意外だと言いたげな反応を見せた。
「伯爵夫人と伯爵令嬢とでは、その地位と権威において明確な差がございます。伯爵夫人は伯爵家の厳然たる女主人でいらっしゃいますが、伯爵令嬢はどこまでも親の庇護下にいる存在に過ぎませんから。
それに伯爵家と一口に言っても、みな同じというわけではございません。家門の財と威勢が伴わなければ、裕福な商人以下の家柄も多くございます。
ですから身分など一切気になさらず、私どもにお接しになるように、お気兼ねなくお接しくださいませ」
(そう言えば、ゲームの中のロジアーナも伯爵家の長女だったけれど、家が没落して冒険者をしていたわね?)
そう考えると、ある程度納得がいった。
(そうね。気楽に考えることにしましょう。授業料を取るわけでもなく、衣食住まで含めて無料で教えるのだもの。私のやり方が気に食わないと言うのなら、出ていけばいいだけの話よ)
そう割り切ると、ずっと気持ちが軽くなった。
リズベットは席につき、少女たちの絵や刺繍の作品を仔細に観察した。画家や刺繍の専門家が審査したと言うだけあって、並々ならぬ腕前と感性が伺えた。
(これなら、かなりの素質がありそうね。詳しいことは直接教えてみないと分からないけれど)
ふと、若い3人の侍女たちが困惑した様子でお互いの顔を見合わせ、もじもじしているのに気づいたリズベットは、メリンダに尋ねた。
「どうしたの? 何か問題でも?」
「それが……私どもこそ、あの方々にどのように接すれば良いのか分からず……。
奥様は私どもが師範役を務めるようにとおっしゃいましたが、私どもごときが果たしてそのような真似をして良いものかと……」
3人の侍女のうち、エリーは騎士家系、メリンダは大手商会の娘であり、ベティナに至っては庶民出身なのだから、無理もないことだった。自分の不安が侍女たちにまで伝火して怯えさせていたのだと気づいたリズベットは、すぐに諭すように言った。
「学びに身分なんて関係ないわ。あなたたちは教え、指導する『先生』の立場なのだから、堂々と振る舞いなさい。それを受け入れられないのなら、私の下で学ぶ資格はないわ。
もしあなたたちに対して無礼に振る舞ったり、指示に従わなかったりすることがあれば、絶対にうやむやにせず、その場で毅然と対処しなさい。それでも言うことを聞かない場合は、ジルマや私に報告するように」
「はい……」
侍女たちは返事をしながらも、いまだ不安を拭いきれない様子だった。
身分制社会である上に使用人の立場なのだから当然だと理解したリズベットは、この方針をいっそ『公式な規則』として確立しようと心に決めた。




