6. 安堵
結局、その日の日程はそこでお開きとなり、リズベットとフランゼットはそのまま別荘へと戻った。
別荘で休んでいたトリシは、事故の知らせを聞いてひどく驚き、リズベットの無事を確かめるように彼女の身体を隅々まで撫でさすって確かめた。
「大丈夫ですわ、お義母様。少し驚いただけです」
「本当に良かったわ。もしも落馬でもしていたらと思うと、生きた心地がしなかったわよ。恐ろしい目に遭ったでしょうに、冷静によく対処したわね」
トリシはホッと胸をなでおろしてリズベットを抱きしめ、それからシャイナの労をねぎらった。
「シャイナ、本当によくやってくれたわね。あなたが間に合ってくれたおかげで、リズベットが無事でいられたわ」
「当然のことをしたまでです。奥様が毅然と対応してくださったので、奴らを片付けるのも容易でした」
思いがけないシャイナの称賛に、リズベットは決まり悪さに顔を上げられなかった。悲鳴をあげたり取り乱したりしなかったのは、毅然としていたからではなく、ただ恐怖のあまり身体がすくんで固まっていただけだったのだ。
(これまで、あまりに平和に暮らしすぎていたのかもしれないわ。いざという時に頭が真っ白になって固まるだけだなんて。戦うことはできなくても、これじゃダメよ……)
自分への苛立ちと共に、一度は忘れていた危機感が、リズベットの胸にふつふつと呼び起こされた。
*** ***
夕食の後、一同が応接室に集まってお茶を飲みながら談笑していた時のことだった。外からけたたましい馬蹄の音と馬の嘶き、そしてただならぬ騒がしい物音が聞こえてきたかと思うと、まもなく従者が息を弾ませて駆け込んできて、クラヴァンテ伯爵の到来を告げた。
予期せぬ訪問に全員が驚いて立ち上がる中、扉が勢いよく開かれ、本当にアルゼンが姿を現した。
アルゼンの瞳は、真っ直ぐにリズベットだけを捉えていた。無事な彼女の姿を目にして初めて、アルゼンの強張っていた表情が安堵に和らいだ。
「不躾な夜分のご訪問、お許しください。折よく近くを通りかかった際、事故の知らせを耳にし、立ち寄らせていただきました」
アルゼンがエルザに非を詫びると、エルザは優しく微笑んで応じた。
「さようでございましたか。よくぞお越しくださいました」
エルザへの挨拶を終えるや否や、アルゼンはリズベットに歩み寄り、彼女を強く抱きしめた。
「……無事で良かった」
その声を耳にした瞬間、リズベットの瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。安堵なのか、それとも喜びなのか、自分でも説明のつかない感情が胸に込み上げていた。
ここが、この人の腕の中が、これほどまでに温かく、安全だったなんて。いつか彼のもとを去らねばならないかもしれないと考えただけで、突如として耐えがたいほどの切なさと悲しみが襲ってきた。己の意志とは無関係に、リズベットはすがるようにアルゼンの胸へと顔を埋め、声を殺して涙を流した。
これまで見せたことのない彼女の脆い態度に、アルゼンは一瞬息を呑んだが、すぐにリズベットをさらに強く抱きしめ、エルザに向かって告げた。
「妻はひどく動転しているようです。不躾ながら、予定を少し切り上げて、明朝にはレトナ城へと戻らせていただきたく存じます」
「私どもの別荘で起きた事故ですから、むしろこちらが恐縮しておりますわ。どうぞ、伯爵の望まれるようになさってください」
エルザは従者に命じ、アルゼンをリズベットの部屋へと案内させた。
二人が部屋を後にしたのを見届け、エルザが微笑みながらトリシに語りかけた。
「先ほどまではあれほど凛としていらしたのに、旦那様のお顔を見たとたんに緊張の糸が切れてしまわれたのですね」
トリシは愛おしそうに目を細めた。
「ええ、あの子を心から信じて頼ってくれている姿は、母親として嬉しい限りですわ」
エルザの義理の娘であるアンヌが、羨ましそうなため息を漏らした。
「それは伯爵様とて同じことですわ。奥様に万が一のことがあってはと、こうして一目散に駆けつけてこられたのですもの。お二人の仲睦まじいお姿、本当にうっとりしてしまいます」
「ええ……、本当に喜ばしく、ありがたいことですわ」
トリシの目頭が、じんわりと熱を帯びた。
トリシが流産により死の淵をさまよった、あの日を境にアルゼンは変わってしまった。突如として大人になってしまったかのように見違えるほど凛々しくなり、同時に、自身の感情を一切表に出さなくなった。
子供らしい無邪気な悪戯心も、純粋な笑顔も消え去った。自らの欲を去勢した修道士のように、ただただ己を過酷に鍛え上げ、完璧であることのみを追い求めてきた。
それが自分と、亡き夫ギセンを想う彼なりの不器用な生き方なのだと分かっていたからこそ、トリシは常に胸を締め付けられるような切なさと、申し訳なさを抱えて生きてきたのだ。
二人の婚礼の日。式場で可憐に涙を流す花嫁を見て周囲が囁き合っていた時、トリシの心は張り裂けんばかりに痛んだ。そんな心無い視線に晒されながらも、微塵も動揺を見せず、冷徹なまでの平穏を保ち続けたアルゼンの姿が、彼女にとってはいっそう深い悲しみとして胸に突き刺さった。
人々の前で必死に堪えていた涙が、帰りの馬車の中で堰を切ったように溢れ出した時、トリシは声をあげてむせび泣いた。このすべての歪みが、己の弱さと、罪のせいであるかのように思えてならなかった。
――しかし、あの日の絶望は、いまやこれ以上ない至上の喜びへと姿を変えていた。愛し、愛され、互いを信じて寄り添い合うこと。
その美しく、かけがえのない幸福を、アルゼンが噛み締めている。その事実を目に焼き付けることこそが、いまのトリシにとって、何よりも勝る無上の喜びだった。




