3. 春の準備
「奥様のご指示通りに整えましたが、いかがでしょうか? 改善すべき点があれば、何なりとお申し付けください」
家令のステアンが、リズベットの顔色を窺いながら恐る恐る尋ねた。
大きな格子窓のある広々とした部屋。その壁面には大型の鏡がいくつも取り付けられ、手前には横に長いドレッサーと椅子が整然と並んでいた。鏡の周囲には、自然光を限りなく再現した魔導照明が配置されている。
壁を彩るのはパステルカラーの華やかな壁紙。床には汚れや埃を防ぐ「防汚魔法」が施された最高級のカーペットが敷かれ、天井からはクリスタルシャンデリアが眩い光を放っていた。
「素晴らしいわ。想像していた以上に清潔感があって、素敵なメインサロンね」
リズベットの称賛に、ステアンの表情に安堵の色が浮かんだ。
「お気に召していただけて光栄にございます」
室内をゆっくりと見渡したリズベットは、開け放たれた大きな格子窓に歩み寄り、外に広がる庭園の風景に目を向けた。
(思ったより、また話が大きくなっちゃったわね。少し規模を広げすぎたかしら? 今のところはせいぜい10人くらいで始める予定なのに……)
先日の貴族夫人たちとの集まりで痛感したこともあり、リズベットは本格的にヘアメイクの弟子を育成し、この世界に自分の技術を広めようと決意していた。
そうなれば、コスメ商品の製造や販売も活性化するだろうし、もしここを去ることになっても、自分の技術を活かして自立して生きていけるはずだ。
少人数を厳選してヘアメイクの技術を教えたい、という構想をアルゼンに話したところ、彼はすぐにステアンに準備を命じた。 その結果、レトナ内城の別館のうち二棟の改修が始まったのだ。
この別館には、いま見ているメインサロンの他に、ヘアメイクの理論と実習を行うための施設が整えられ、もう一棟には、アカデミー生たちが寝食を共にする寮が作られている最中だった。
「ビューティーアカデミーの候補生の選考は、どうなっていますか?」
リズベットの問いに、背後に控えていた内政官のルロイが答えた。
「はい。現在、家臣団や領内の各所から、奥様の提示された条件に合致する候補者を推薦させているところでございます」
ルロイは理知的で、いかにも有能そうな印象を与える若い男だった。
「本人が『学びたい』と強く望んでこそ、上達する仕事です。志望者が少ないからといって、無理に人数を合わせる必要はありません。10人に満たなくても構いませんから、あくまで本人の強い意志を尊重してくださいね」
「そのご心配は無用にございます。すでにかなりの推薦が集まっており、これより数回にわたる厳格な選考を重ねる予定ですので」
「そうなの?」
リズベットは少し首を傾げた。
(ヘアやメイクを女性が専門的に学ぶなんて、まだ馴染みのない概念のはずなのに。やりたがる人がそんなにいるなんて、意外だわ)
男性の髪を整えたり髭を剃ったりする理髪師は、この世界にも存在する。しかし、女性の髪やメイクを専門に扱う職業はまだなかった。一般的には、エリーやメリンダのような侍女や下女が片手間にやる雑用と見なされていたのだ。
だが、リズベットは自分が愛し、誇りを持っていたこの仕事を、れっきとした「専門職」として確立させたかった。だからこそ『ビューティーアカデミー』と名付け、候補生も厳選することにしたのだ。
文字の読み書きをはじめとする教養があり、絵や刺繍に素質がある10代後半の少女――という厳しい条件をつけたのもそのためだった。この条件では一般の平民が除外されてしまうのは分かっていたが、裾野を広げるのは後々、徐々に進めていけばいい。
魔法オイルの配合比率やカラーコスメの成分理解、さらには顧客の肌タイプをカルテに記録し、読み解くためには、文字の解読力は必須である。それに加えて、確かな美意識と手先の器用さが必要な仕事なのだ。
「候補者が多すぎると、ジルマが大変じゃないかしら? ただでさえ、普段から忙しいのに……」
リズベットは心配そうにジルマのほうを見た。
内政官のルロイが一次選考を行った後、侍女長であるジルマが面接を行い、最終合格者を絞り込む予定になっていた。
ジルマは穏やかに微笑みながら答えた。
「奥様から直接手ほどきを受けられる、光栄かつ重要な機会にございます。厳正なる審査を行うのは当然のこと。
奥様のお仕事をお手伝いできることは、私の役目であり、何よりの喜びにございます」
「ありがとう、ジルマ。皆さんもお忙しい中お手数をおかけしますが、よろしくお願いしますね」
「全力を尽くします」
3人は恭しく一礼した。
*** ***
バルマン辺境伯夫人エルザから招待状が届いた。 トリシとリズベットを、バルマン辺境伯家の別荘に招待するという内容だった。リズベットがフランゼットのドレスやヘアメイクを手掛けたことへの、お礼を兼ねたものだ。
別荘の敷地に広がる広大な果樹園が、春の花々で埋め尽くされる美しい景色を楽しめるのだという。両家の女性たちだけで、気兼ねなく親睦を深める趣旨の集まりだった。
レトナ城を出て遠出できる貴重な機会であり、何よりお花見ということもあって、リズベットは喜んで招待に応じることにした。
(お出かけの当日に、お義母様と私が着るピクニックドレスを新調しなくちゃ。薄桃色の花が満開の景色だっていうから、その背景に映える色合いがいいわね。
お義母様はお義父様が亡くなられてから初めての遠出になるそうだし、気分転換も兼ねて、お出かけ用の服を何着か新しく仕立てて差し上げようかしら)
リズベットはさっそく、ドレスのデザインに取りかかった。
*** ***
ヴァルネムベルク連合王国の王都ヴァルテム。
アステア公爵家の邸宅の一室で、二人の男が密かに言葉を交わしていた。アステア公爵の異母弟ローヴァンと、叔父のウーゴである。
30代前半のローヴァンは、痩せ型でいかにも冷静沈着そうな佇まいの男だった。物腰柔らかに微笑みを浮かべているものの、その双眸は冷酷で鋭い。対照的にウーゴは肉付きがよく、異様なほど白い肌に血色の良さが目立つ男だった。
「あの『再生の秘術』とやらを使って、エリクが回復でもしたらどうするつもりだ? オロールの火傷が、まるで何事もなかったかのように綺麗に消え去ったというではないか!」
ウーゴが不安を露わにして尋ねた。
「あれは魔導士たちですら『誰しもが成功できる術ではない』と口を揃える代物だと、以前も申し上げたはずです。一歩間違えれば神の怒りに触れ、回復どころか即死する恐れすらあると」
「だが、万が一ということもある。オロールとて、雪のように潔白な身の上だったはずがない。
何かしら後ろ暗いところがあったはずだ。力がないがゆえに復讐を果たせなかっただけで、恨みは深かったろう。
もし、エリクが完全に回復でもしたら……」
「滅多なことでは試みますまい。本当に死が間近に迫れば、藁をも掴む思いで挑むでしょうが。
しかし、成功する確率は極めて低い。我々と同様に、あちらもこれまでに多くの血を流してきましたからな」
ローヴァンがいくら太鼓判を押しても、ウーゴの焦燥は消えなかった。
「だが、万が一ということがあるのだ! このまま手をこまねいて見ているわけにはいかんだろう」
「当然です。仕掛けは継続して行いますとも」
「だが、あの砦はまるで隙が見当たらん……」
低く愚痴をこぼしたウーゴが、ふと思いついたように身を乗り出した。
「いっそのこと、一番の『脆い環』を狙うというのはどうだ?」
どういう意味かとローヴァンが視線で促すと、ウーゴは声を潜めた。
「伯爵夫人のことだ。聞けば彼女は錬金術師で、攻撃系や防御系の魔法は使えないらしい。あの女さえ消せば、秘術とやらも使えなくなる。うまく狙えば……」
「それはいけません」
ローヴァンが即座に、ウーゴの言葉を遮った。
「クラヴァンテ伯爵家を甘く見てはなりません。政界での発言力こそ劣るものの、武力に関しては侮れない武門の家柄です。
彼女はただの貴族夫人ではなく、いまやクラヴァンテ伯爵家に莫大な富をもたらしている『宝』です。彼らが無防備にしておくはずがありません。目に見えない防御壁を何重にも張り巡らせているはずです」
「しかし、これまであれほど画策しても、エリクをどうすることもできなかったではないか! 砦に引きこもっているエリクを狙うよりは、まだ勝算がある。
どうせこの争いに敗れれば、お前も私もタダでは済まないのだぞ」
ウーゴは苛立ちを隠さなかった。
ローヴァンはそんな叔父をじっと見据え、氷のように冷徹な声で告げた。
「下手をすれば、兄上よりも先に我々が破滅します。あの女を狙って我々の関与が露見すれば、それこそ取り返しのつかない事態になる。
野蛮な連中の最も恐ろしいところは、自制を知らないという点です。怒りで我を忘れた彼らは、手段を選ばずに全力で牙を剥いてくるでしょう」
「我々の仕業だと気付かれなければ済む話だろう? クラヴァンテ伯爵家は敵が多い。
北で領地を接するゼクセン侯爵家とは公然と敵対しているし、先代伯爵の頃の婚約破棄以来、ブレットフェン公爵家とも折り合いが悪い。これまで海賊討伐などで彼らが血祭りにあげてきた連中も、星の数ほどいるのだからな」
ローヴァンはしばし沈黙し、思考を巡らせた。やがて、慎重に口を開いた。
「当面は静観しましょう。兄上にとっても、息子が成人するまで一日でも長く生きながらえることが最優先です。今すぐ無謀な賭けに出ることはありますまい。ここで焦って動くのは、悪手というものです」




