40. 決意
オロールとの出会い、衣装や公演の構成を彼女と共に練り上げた日々のこと、そしてドレス制作の裏話――。リズベットが熱心に話を続ける間、アルゼンは時折、短く質問を投げかけてきた。
やがて、彼の問いかけが次第に途切れがちになったかと思うと、リズベットの肩にふっと心地よい重みが加わった。見ると、アルゼンが彼女の肩に寄りかかったまま、眠気に落ちていた。
揺り動かして起こそうとしたリズベットだったが、差し伸べかけた手をそっと引っ込めた。もう少しだけ、こうして彼と同じ時間を共有していたかったのだ。
(随分と疲れていたのね)
この世界にやってきて分かったことの一つは、ゲームの中では優雅で暇そうに見えた領主という存在が、現実には多忙を極めるという事実だった。
ラヴェンナが特別そうであるのかは分からないが、アルゼンは内政の行政実務に加え、領内の巡察や軍事訓練に至るまで、目が回るほどのスケジュールを日々こなしていた。
特に今回の式典に際しては、開催前から期間中にかけて、連日のように様々な行事や会合が重なっていた。疲労が溜まるのも無理はなかった。
リズベットは、先ほどアルゼンから贈られた指輪をそっと指先でなぞった。
伯爵夫人としての印章指輪をはじめとする数々の絢爛な宝飾品、以前に彼から贈られた高価な真珠の首飾り、そして「高貴なる者の青」で仕立てたあのドレス。そのすべてはリズベット個人のものではなく、あくまで「クラヴァンテ伯爵家の女主人」に帰属するものだ。
しかし、この指輪だけは、絶対的に、そして紛れもなく彼女自身のものであった。アルゼンの純粋な情愛が込められていると思うと、愛おしさと切なさが胸に満ちていった。
(これから、どうすればいいのかしら?)
『嫌われる勇気プロジェクト』は完全に失敗に終わった。リズベット自身が現実から目を背けていただけのことで、思えば最初から決まっていた結末だったのかもしれない。
(本当にこのままここに、アルゼンの傍にいてもいいのだろうか)
途方に暮れるような心地で思考に沈んでいたリズベットの脳裏に、かつてヴィーチェから掛けられた言葉がふと蘇った。
「道に迷ったと感じた時は、まず、自分が本当は何を望んでいるのかを考えなさい」と、彼女は言っていた。
自分が何を望んでいるのかなど、とっくに分かっている。レトナを、アルゼンの傍を離れたくない。今のようにレトナの一員として生きていくこと――それこそが彼女の偽らざる願いだった。
だが、現在の安穏とした暮らしは、嘘という土台の上に築かれた脆い砂の城にすぎない。この砂の城を押し流す破滅の波が、いつ、どのような形で押し寄せるのか、あるいは一向に来ないのか、何一つとして確かなことはない。
(ゲームの始まりは、国王夫妻の銀婚式の夜会だったわね。本来のシナリオであれば、その時点で私はすでにこの世にいないはずの人間。
もし何事もなく無事にあの夜会に出席することができたなら……その時は、未来に希望を抱いてもいいのかしら?)
どうにかして希望の糸を繋ぎ止めたい。だが同時に、最悪の事態への備えも怠るわけにはいかない。
首を巡らせてアルゼンを見つめた。無防備に眠るその平穏な寝顔は、少年のように純粋で清らかだった。初めて彼に出会った頃には、到底想像すらできなかった姿だ。
あれほど大きく、恐ろしいばかりだった男が、今では愛らしくさえ感じられる。この一刻がたまらなく愛おしく思えた瞬間、脳裏に一筋の確信めいた覚悟が閃いた。
(今この瞬間は、一度過ぎ去れば二度と捕まえることはできない。
だから……今日を生きよう。毎日を人生最後の日のように大切に生きながら、万が一の事態に備えた準備をしておくの。
それが、今の私にできる最善の道だわ)
リズベットは、アルゼンの頭にそっと自身の頭を寄せた。今はただ、この刹那に訪れた静寂と平穏を、心ゆくまで享受したかった。
*** ***
真昼の温室は、花々を愛でる空間というよりも、素朴な野原のひとかけらのようだった。野の花は蕾を固く閉じ、岩陰の下で静かに息を潜めている。
リズベットは侍女たちを温室の外で待機させ、コレットとオロールの二人だけをその場へと呼び寄せた。二人はこれまでの日々を通じてすでに面識があり、ある程度の親交を結んでいる間柄だった。
「お二人を本日こうしてお呼びしたのは、極秘裏にお願いしたい裏仕事があるからです。今からお話しすることは、決して誰にも口外しないでください」
リズベットが真剣な面持ちで切り出すと、二人は一瞬にして表情を引き締め、彼女に視線を集中させた。
「おそらく遠くない将来、私は誰にも知られずにここを去らねばならなくなるかもしれません。そのような日が本当に訪れるのか、それがいつになるのかは、まだ私にも分からないのです。
ですが、もしその時が来たら、ここラヴェンナを離れてパルツワンの方面へ向かおうと考えています」
「
それは……伯爵様には内密に、ここを立ち去るという意味でしょうか?」
コレットが硬い表情で尋ねた。
「ええ。そうせざるを得ないはずよ」
「しかし、伯爵様がそれを黙って見過ごすはずがありません。血眼になって夫人を捜索されるでしょう」
「分かっているわ。だからこそ、お二人の力が必要なのです。理由は聞かないでちょうだい。
先ほども言った通り、まだ起きると決まったわけではない。万が一のための備えだとだけ思っておいて」
コレットとオロールは、重苦しい沈黙の中で思考を巡らせた。
オロールは、先日執務室で交わしたアルゼンとの対話を思い出していた。クラヴァンテ伯爵が妻であるリズベットをいかに大切に想い、深く愛しているかは明白だった。それはリズベットの能力や利用価値といった打算的なものではなく、純粋な愛着と切実な情愛によるものだ。
それなのに、彼に秘密で逃亡を企てるなど。そうせねばならない理由が気になって仕方がないが、「理由は聞かないでほしい」とリズベット自身から拒まれては、これ以上踏み込むわけにはいかない。
(リズベット様のことだ。必ずや深いご事情があるに違いない。私がなすべきは、このお方の御心に寄り添うことだけだわ)
オロールにとってリズベットは、命の恩人という枠を超え、大賢者であり、神の御心を体現する神聖な存在だった。彼女の行うすべての行動には、必ずや大いなる意味があると信じていた。
コレットもまた、オロールと似たような結論に達したのか、それ以上の追及はせず、即座に具体的な実行案を口にした。
「パルツワンまで徒歩で向かうのは不可能です。馬か馬車を利用せねばなりませんが、どちらをお考えですか?」
「馬車は他のお客と同席せねばならないし、経路を自由に変えることも難しいわ。だから、馬に乗って行きたいと思っているの」
「私も同感です。となると、奥様の愛馬であるパールを、いかにして周囲の目を欺いて連れ出すかを考えねばなりませんね。
それと並行して、レトナからパルツワンへ最も迅速に、かつ隠密に移動できるルートをいくつか割り出しておきます」
コレットに続き、オロールが言葉を繋いだ。
「伯爵様の目を盗んで脱出されるのでしたら、まずは周囲にリズベット様だと発覚しないよう、入念な変装が必要となります。変装用の衣服や小道具のほかにも、非常食や水など、多くの備蓄が必要でしょう。それらの物資の調達は、私にお任せください。
ただ、一つ懸念されるのは、追跡を含め、道中で予期せぬ危険に遭遇する可能性です。戦闘能力のない私が同行しては、足手まといになり、かえってご迷惑をおかけしてしまうのではないかと……それが心配でなりません」
その点に関しては、リズベットもすでに算段を立てていた。オロールは戦闘員ではないため、武芸に秀でたコレットとは違い、有事の際に身を守るのが難しい。
二人の非戦闘員を護衛するとなればコレットの負担も倍増するし、何よりコレットの弟であるノイドをどうするべきかという問題もある。
「パルツワンへ向かうのは、私とコレットの二人だけよ。オロールは、コレットの弟のノイド君を連れて、王都へ向かってちょうだい。
あそこならオロールにとって馴染みの土地だし、融通の利く知り合いもいるでしょう? のちにパルツワンで安全な拠点を確保できたら、必ずこちらから連絡を入れさせてもらうわ」
「……かしこまりました」
オロールは手元の茶杯をじっと見つめ、躊躇いがちに尋ねた。
「ですが……伯爵様が、果たしてそう簡単に諦めてくださるでしょうか?」
「まだ本当に逃げると決まったわけではないわ。どこまでも、万が一に備えてのことだから」
そう答えるしかなかった。
アルゼンは、逃げた自分をただ座して待つような男ではない。彼自身、そう口にしていたではないか。だからこそ、もし本当にレトナを去る日が来たならば、彼の追跡が及ばないほど遠く、深く隠れ潜まねばならない。
伯爵家の女主人の座をいつまでも空席のままにしておくわけにはいかないだろう。ある一定の時間が経てば、アルゼンも現実を受け入れ、前を向くほかなくなるはずだ。それこそが、お互いにとって最善の道なのだとリズベットは己の心に言い聞かせた。
事情も明かさぬまま、二人を自身の危険な逃亡計画に巻き込むのは心苦しいが、自分一人の力だけでは脱出もその後の生活も、安全を担保することは不可能だった。
(どこまでも、万が一のための準備よ。あの銀婚式の夜会さえ無事に乗り切ることができれば……その時は、少しは心を休めてもいいのかもしれないわね)
リズベットは祈るような心境で、一縷の希望に全てを賭けるのだった。




