38. アステア公爵
侍女が茶を注いで部屋を退室すると、アステア公爵は妻のクロエンに目配せを送った。
クロエンは隣に座る息子のディアンの目にそっと片手を当て、口の中で静かに呪文を唱えた。するとディアンは、すぐに椅子の背もたれに寄りかかり、深い眠りに落ちていった。
「折よくジェルニエ侯爵にお目にかかれましたので、ぜひお聞きしたいことがあったのです」
公爵はジェルニエをまっすぐに見つめた。
「この度レトナで開催された式典にて、驚くべき奇跡が目撃されたと聞き及んでおります。
『再生の秘術』。ジェルニエ侯爵はオロールの後援者であられましたから、彼女の状態がどのようなものであったか、誰よりもよくご存じのはず。
オロールの事故については、火傷の程度が大変深刻であり、舞踏手としての経歴は完全に絶たれたと聞き及んでおりました。それが、負傷する前の状態にまで完全に回復したとか……。
私の知るこの噂は、真実と合致しておりますでしょうか?」
ジェルニエは落ち着いた声で答えた。
「その通りです。オロールは回復不可能な損傷を負っており、残された時間も少ない状況でした。
しかし、あの日の公演の場において、またその後、個別に会った際にもはっきりと確認いたしましたが、オロールは傷を負う前の状態へと完全に回復しておりました」
「『再生の秘術』は、神のごとき存在の力を授かるものだとか。僭越ながら、オロールがその儀式でどのような体験をしたのか、お聞きになったことがあれば、詳細に聞かせていただきたいのです」
ジェルニエは煩わしがる素振りも見せず、オロールから語られた彼女の神秘的な体験を詳細に話して聞かせた。
話が終わった後、しばらく険しい表情で考えに耽っていた公爵が尋ねた。
「ジェルニエ侯爵の目から見て、オロールがこれほどの神の恩寵を授かることができた理由は、何だとお考えですか?」
ジェルニエは慎重な態度で言葉を返した。
「神の御心を人間がどうして推し量ることができましょうか。ですが、私なりの考えを申し上げます。
オロールに恩寵を授けられたのはミューシア様であったとのこと。芸術と治癒を司る神であられますから、おそらくはオロールの並外れた才能を愛おしく思われたのではないかと推察いたします。
また、クラヴァンテ伯爵夫人がオロールを高く評価し、そのような機会を与えられたという点も極めて大きいかと存じます」
「ああ、クラヴァンテ伯爵夫人については様々な噂を耳にしております。古代魔法の神秘を継承された方だとか。じかにお会いになった印象はいかがでしたか?」
リズベットの話題が出ると、エルワンは勝手に後ろめたさを感じ、ジェルニエの顔色を盗み見た。しかしジェルニエは表情を変えることなく、平穏に答えた。
「大変聡明で美しく、そして貞淑な貴婦人であられます」
公爵の唇の端に、微かな笑みがかすめた。
「若きクラヴァンテ伯爵が良い伴侶を迎えられたようで、真に何よりです。先代の伯爵が常にその点を案じておられましたのでな。
結婚された後も、度々クラヴァンテ伯爵がこちらに立ち寄ってくれていますが、以前にも増して凛々(りり)しく、活気に満ちているように見えました。
クラヴァンテ伯爵の婚礼もそうですが、今回の式典も当然出席すべきところ、私の健康がこのように優れず、ともすれば慶事の日に水を差してしまうのではないかと案じ、不参加を貫くほかありませんでした」
話している最中、公爵の身体が前にわずかに傾き、猛烈な苦痛に眉間を歪めた。呻き声を漏らすまいと硬く唇を結んで耐えていたが、彼の痩せこけた両手は布団を強く握りしめており、身体全体が小刻みに震えていた。
クロエンが慌てて夫に駆け寄り、その身体を支えながら、小さな瓶に入った液体を飲ませた。
しばらくして身体の震えがいくらか収まると、公爵は辛うじて口を開いた。
「醜い姿を見せてしまい、申し訳ない。せっかく訪ねてきてくれたというのに……」
「滅相もないことです。我々が少々長居をして、ご負担をかけてしまったようです。本日はこれにて失礼いたします」
ジェルニエは丁重に一礼し、エルワンと共にその場を後にした。扉の前で控えていた医師が中に入り公爵を診察する間、二人を見送ったクロエンが部屋に戻ってきた。
医師を部屋から退室させ、ベッドの傍らに座ったクロエンは、手拭いで公爵の額に浮かんだ汗を静かに拭った。じっと夫を見つめていたクロエンが、不安を押し殺すようにして尋ねた。
「まさか……『再生の秘術』を試みようとなさっているのでは、ありませんよね?」
「まだ、その時ではない。お前が案じているように、私にとってはあまりにもリスクが大きすぎる。今すぐに命を落としかねない危険を冒すわけにはいかない。
今は一日でも長く時間を稼ぐことが重要だ。お前とディアンを守るため、耐えられる限り耐えて戦わねばならん」
黙って彼の言葉を聞いていたクロエンの手の甲に、涙がぽつりと落ちた。彼女は夫にその姿を見せまいと、慌てて顔を背けて涙を拭った。
公爵は静かだが、断固とした口調で言った。
「だが、最後の最後の時が訪れたなら……その時は試みるつもりだ。ただ死を待つよりは、いかなる手段であれ足掻いてみるほうがマシだからな」
*** ***
重苦しい表情でしばらく外をじっと眺めていたエルワンが、ジェルニエに尋ねた。
「アステア公爵は、本当に『再生の秘術』を試みるだろうか?」
「少なくとも、今すぐではないはずだ。危険が大きすぎる。
アステア公爵はあまりにも多くのものを失い、今も水面下で敵と熾烈な戦いを繰り広げている。
オロールとは違い、公爵が回復すれば本格的に敵との戦いに打って出ることになるだろうし、その過程でまた少なからぬ血が流れることになる。
だから、たとえ公爵が『再生の秘術』を試みようとしても、公爵夫人が引き止めるはずだ。彼女は魔導士だからこそ、私よりもその危険性を熟知しているだろう」
エルワンは真顔になって反論した。
「悪いのは向こう側だろう。アステア公爵は自分と家族を守るために反撃しているだけだ」
「それはあくまで人間の基準であり、考え方だ。神の目には、人間同士のみっともない醜争にすぎないのかもしれない」
ふと話を止めたジェルニエが、薄い笑みを浮かべた。
「来るのを嫌がっていたのではなかったか?」
「お前のことが心配だったからだよ。僕にとっては呪いだろうが何だろうが関係なかったさ」
ぶすっとした顔で言い返したエルワンは、自分でも後ろめたさがあるのか、しばらく言葉を詰まらせた後、しおしおと呟いた。
「正直、気が進まなかった部分がないわけじゃない。子供の頃、憧れの対象だったアステア公爵の衰弱した姿を見るのが、何というか……英雄の凋落を目撃するようで、少し辛かったんだ。
かといって、僕が今すぐ何か力になれるわけでもないしな」
ジェルニエは口を閉ざし、思考に沈んだ。
アステア公爵は衰え、痩せ細ったものの、決して屈していなかった。彼が苦痛に耐え、生を繋ぎ止めている理由。それは、妻と幼い息子を守るための死闘だった。
9年前のあの戦いでアステア公爵が致命的な打撃を受け、対外的な活動が困難になった隙を突いて、公爵の異母弟であるロヴァンと叔父のウーゴが手を結び、公爵家を乗っ取ろうと執拗に陰謀を巡らせていた。まだ公爵が存命であるため、彼らの野望は実を結んでいないが、公爵が世を去れば状況は急変するだろう。
かつて公爵の長男と忠実な家令が不可解な死を遂げたように、彼の妻と幼い息子ディアンがどうなるか、想像に難くない。
心情的には手を貸したいところだが、それはジェルニエ侯爵家全体を賭けた過酷な戦いへと自ら足を踏み入れることに等しかった。アステア公爵家は、他者が安易に介入することを許さない大名家の一つだった。
それゆえにクラヴァンテ伯爵家も、レトナから遠くないこの海岸沿いの要塞でアステア公爵とその家族を保護していながらも、それ以上の深入りはできずにいるのだった。




