35. もしかしたら
その時、ノックの音と共に侍従が入り、アルゼンの入室を告げると、間もなく彼が姿を現した。ジェルニエと挨拶を交わしたアルゼンは、極めて自然な仕草でリズベットの隣に腰を下ろした。
(この時間に、一体何の用かしら?)
不思議に思いながらも、リズベットはジェルニエを温室に招待したという話を持ち出した。余計な誤解を招かないためだった。
すると、アルゼンが不意に口を開いた。
「私も同席しよう。かねてよりジェルニエ侯爵とは、じっくりと言葉を交わす機会を持ちたいと思っていたところだ」
「ご一緒していただけるとは、嬉しい限りです」
ジェルニエは礼儀正しい微笑みで応じた。
リズベットは内心不審に思いながら、アルゼンを盗み見た。
『妖精の涙』にまつわる逸話が気に入らないと言っていたのはどこの誰だったか。それなのに、温室でお茶を飲むなどと言い出すなんて。
リズベットのそんな心中を知ってか知らずか、アルゼンはさらに畳みかけた。
「リズベットと私は、よくあの温室で夜の情趣を楽しみながら、茶を嗜んでいるのです」
この図々(ずうずう)しい嘘にリズベットはますます呆れ果てたが、ジェルニエの前で問い詰めるわけにもいかず、微笑みを浮かべて誤魔化すしかなかった。
「左様でしたか」
ジェルニエは静かに頷くと、別の話題を口にした。
「実は、この夏にレトナ城で開催される予定のメロヴィッツ王国との定期会合に関して、一度閣下とお会いしたいと思っておりました。
メロヴィッツの国王夫妻と王弟殿下が自らレトナ城を訪問されるとのこと、ヴァルネムベルク王国としても相応の応対が必要でしょう。
国王陛下に奏上した上で正式に決定されますが、私も王都から貴賓をお連れして出席することになるかと思います」
「そうしていただけるなら、ありがたいことです」
海を挟んで向かい合っているメロヴィッツ王国と、ラヴェンナのクラヴァンテ伯爵家は、5年に一度定期的に会合を開いていた。両者は海の管轄権や海賊、そして海の魔獣への対応など、多方面において時に反発し合い、時に協力し合う関係にあった。
これまではメロヴィッツの王とクラヴァンテの伯爵が、5年ごとに双方が領有する島で交互に会談を行ってきた。
ところが、今回の祝賀パーティーに出席したメロヴィッツの大使が、今年クラヴァンテ伯爵領で開催される予定の会合をレトナ城で行いたいという意向を伝えてきたのだ。
理由は明かされなかったが、『レトナの翼』や『レトナ・シルク』などに関連しているだろうことは容易に察しがついた。
前例のない破格の提案だったが、アルゼンと大伯爵は快くこれを受け入れ、ディクレール公爵とジェルニエ侯爵にその事実を伝えてあった。
メロヴィッツ王国の名が話題に上ると、リズベットの心臓が激しく脈打った。メロヴィッツの王弟ラカスは、ゲームの男性主人公(攻略対象)の一人だった。その上、ジェルニエまで出席するとなれば、ゲームの男性主人公4人のうち、実に見事3人までもがレトナ城に集結するという意味になる。
「クラヴァンテ伯爵は、王弟であるラカス殿下と親交があると聞き及んでおりますが」
「親交と言うほどのものではなく、面識がある程度です。幼少期からお会いする機会もありましたし、海の上でも度々出くわすものですから」
「ああ、ラカス殿下は海軍提督でもいらっしゃいましたね」
『炎のラカス』。ラカスはゲームの男性主人公たちの中でも、最も男らしく情熱的なキャラクターとして人気が高かった。それとは対照的に、アルゼンは冷気の漂う寡黙で冷徹なキャラクターとして知られていた。
(ゲームでは、アルゼンとラカスに接点があるなんて話はなかったけれど……)
リズベットは二人の会話を聞きながら、自分の知っているメロヴィッツ、そしてラカスに関する記憶を掘り起こしていた。
(やっぱり、すべてがゲームの通りに進むわけじゃない。私がここに来たことで変わってしまった部分もあるはず。
だとしたら、これからの展開もゲームとは違った方向へ進む可能性が開かれているということよね)
もしかしたら、違う結末を迎えられるかもしれない――そんな希望が胸に芽生えた。
話が終わり、ジェルニエ侯爵が退出した後。リズベットはアルゼンに向かって、こらえていた疑問をぶつけた。
「さっきのあれ、何ですか? 私と温室でお茶を飲んだことなんて一度もないでしょう?」
「これからそうするつもりだ」
「花にまつわるお話が気に入らないとおっしゃっていたのでは?」
「それとお茶を飲むのは別問題だ」
堂々と返すアルゼンに、呆れるのを通り越して思わずクスッと頼りない笑いが漏れた。
アルゼンはリズベットに釣られて薄く笑うと、テーブルの上に置かれた花束へ視線を巡らせた。
「これはどうするつもりだ?」
「どうするって、部屋に飾るに決まっているでしょう」
「寝室は駄目だ。ここならともかく」
「どうしてですか? こんなに素敵な花束なのに」
「とにかく駄目だ」
断固とした口調で言ったアルゼンは、近くに控えていた侍女たちに命じた。
「適当な花瓶に生けておけ」
「かしこまりました」
エリーがやってきて花束を下げた。
(まさか、嫉妬でもしているのかしら?……いいえ、この人に限ってそんなわけないわね)
リズベットは首を傾げながら、花束を運んでいくエリーとアルゼンの姿を交互に見つめた。
*** ***
ジェルニエは、彼の友人であり腹心でもあるエルワンと共に庭園を歩いていた。エルワンが不意に尋ねる。
「どうだった?」
「誤解だった」
ジェルニエから赤いバラの一件を聞いたエルワンは、短く感嘆の声を漏らした。
「さすがは教養ある貴婦人だな。まあ、クラヴァンテ伯爵がそんな真似をする男には見えなかったが」
「世の中には見かけによらない人間が多い。外ではこの上ない紳士が、家の中では恐ろしい暴君に変貌するケースなどいくらでもあるからな」
「まだ伯爵を疑っているのか?」
「そういうわけではない。奥方と言葉を交わしている最中に、クラヴァンテ伯爵がやってきた」
「伯爵が顔を出しただと? あの多忙を極める男が?」
エルワンもこれには驚きを露わにした。しかし、すぐに何かを察したような表情を浮かべる。
「それで? お前の目にはどう映った?」
「クラヴァンテ伯爵は、女性に手を上げるような獣でもなければ、自身が手にした宝石の価値を理解できない愚か者でもなかった」
エルワンは頷きながら笑った。
「もっともだな。あれほど美しく、その上凄まじい能力まで兼ね備えた奥方なら、誰だって崇め奉るようにして暮らすさ」
ジェルニエが苦渋をにじませて言った。
「いっそ、それほど浅薄な男であったなら……私にも付け入る隙があったかもしれないがな」
エルワンの顔から笑みが消え失せた。
「おい、ミロス。冗談でもそんな口は叩くな。クラヴァンテ辺境伯は、武力においては無視できない武門の家柄だ。その上、今は莫大な富まで手に入れつつある状況なんだぞ」
返事の代わりに苦笑いを浮かべたジェルニエが、静かに呟いた。
「どうやら、罰を受けているらしい」
「罰? どんな罪を犯したというんだ?」
「愛を軽んじた罪さ」
ジェルニエはそう言い残し、口を閉ざした。
パーティー初日のリズベットは、創造性に溢れた芸術家であり、並外れた審美眼を持つ優雅で洗練された知識人だった。二日目の彼女は、海の神秘と威厳をまとった至高の女神のように輝く存在だった。
しかし、昨夜の彼女はまた別の姿をしていた。淡く輝く花々の中で月光を浴びながら佇むリズベットを目にした瞬間、最初は月の妖精と見紛うほどだった。悲しげな顔で涙を流す彼女は、痛々しいほどに美しかった。
もしクラヴァンテ伯爵が本当にリズベットを虐げ、損なわせているのだとしたら、どんな手段を講じてでも彼女を救い出していただろう。
だが、リズベットが見せた冷静で優雅な対応に加え、クラヴァンテ伯爵が彼女に接する様子を目にしたジェルニエは、潔く認めざるを得なかった。あれは、恋に落ちた男だけが見せる眼差しであり、仕草だった。
(ようやく、私の妖精を見つけたというのに……)
王都で、あるいは北の辺境のどこかで、自分のほうが先にリズベットと巡り合っていた可能性もあった。
家門同士の取引によって結ばれたアルゼンよりも、多くの機会と時間が自分にはあったのかもしれないという思いが、未練と痛みをさらにかき立てた。




