34. 誤解
翌日の午後、ジェルニエ侯爵が昨夜の非礼を詫びたいと面会を求めてきた。リズベットは応接室で彼を迎えた。
「昨夜は大変な無礼を働いてしまいました。改めてお詫び申し上げます」
ジェルニエは丁重な態度で頭を下げると、リズベットに大きくて華やかな花束を差し出した。
「ありがとうございます。そこまでななさわなくてもよろしいのに」
花束を受け取ったリズベットは、花々の小さな隙間に一枚のメッセージカードが隠されているのを見つけた。
『もし、助けが必要でしたら、何なりとお申し付けください』
どういう意味だろうと、リズベットは不思議に思って顔を上げた。
ジェルニエは穏やかに微笑んでいたが、その灰緑色の瞳には真剣な決意が宿っていた。
(あ……)
少し考えを巡らせたリズベットは、彼がこのカードを忍ばせた理由をすぐに察した。
アルゼンが彼女の身体に残した愛の痕跡は今も鮮明で、現在のリズベットはハイネックに手首まで隠れる長袖のドレスで全身を厳重に包み込んでいる状態だった。
だが、前日の夜に温室で会ったリズベットは、スリップワンピースにガウンを羽織っただけの軽装だった。
首筋や胸元が露わになった衣装に加え、照明もなくオザキ月光だけが差し込んでいた夜の温室。おまけにジェルニエと出くわした当時、リズベットは涙まで流していたのだ。
(どうしよう……! 言い訳のしようもない、最悪の誤解をさせてしまったわ)
リズベットは恥ずかしさと決まり悪さのあまり、顔を上げることができなかった。あの時のジェルニエの表情は、単なる驚きだけではなかったのだ。
おそるおそる視線を上げると、ジェルニエが真摯な、そして痛ましげな眼差しで彼女を見つめていた。
彼が直接口を開いて尋ねず、これほど慎重な方法を取ったのは、おそらくリズベットが邸内で監視されている可能性を考慮したためだろう。
(何とかして正さなきゃ。アルゼンを家庭内暴力(DV)の犯人だと誤解させるわけにはいかない。でも、どうすれば……?)
誤解を解きたかったが、どうしても正攻法以外の名案が浮かばなかった。
ひとまずリズベットは花の香りを嗅ぐふりをしながら、花束の間に挟まれていたメモを抜き取った。そしてジェルニエの目をまっすぐに見つめ、落ち着いた声で言った。
「閣下の思慮深いお気遣い、心より感謝いたします。ですが、昨夜の状況のせいで閣下にいささか誤解を与えてしまったようです。
閣下が私に抱いておられる懸念は、まったくの事実無根です。夫は決して私に乱暴な真似をするような人ではありませんし……」
果たして、このような釈明でジェルニエが納得してくれるだろうか? 言いながらも自分自身で懐疑的になってしまう。
家庭内暴力に苦しむ女性が極度の恐怖や自暴自棄に陥り、脱出の機会が与えられても外部に助けを求められないケースが少なくないと聞いたことがある。
今の自分の否定さえ、ジェルニエには「怯えた被害者の強い拒絶」と映っているのではないかと不安だった。
静かに耳を傾けているジェルニエの顔からは、どんな感情も読み取ることができない。ただ、彼の沈黙は決して納得のそれには見えなかった。
(どうしよう。だからといって、私の口からあの痕の本当の理由を赤裸々(せきらら)に説明するわけにもいかないし……)
困り果てたリズベットの視線が、花束に止まった。
リズベットは花束の中から赤い薔薇を一本そっと抜き取ると、その香りをそっと嗅いだ。
「このお花を見ていると、先日、夫から贈られた見事なバラの花束を思い出すのですわ。とても瑞々(みずみず)しくて、今もそのまま鮮やかな赤色を保って咲き誇っているのです」
(お願い、気づいて……!)
赤いバラの花言葉は『情熱的な愛』。ジェルニエのようなロマンチストが花言葉を知らないはずがない。だが、この比喩が果たして彼に通じるかは別問題だった。
その瞬間、ジェルニエの瞳に安度の光が走り、彼の表情が一段と和らいだ。
「……情熱的な方なのですね」
「ええ、本当に」
安堵感から、リズベットの顔にも自然な微笑みが浮かんだ。最悪の誤解が解けたことで、その後の会話はすっかり打ち解けた雰囲気へと変わっていった。
「『妖精の涙』を温室に植えようと考えられたのは、奥様のご発案なのですか?」
「いいえ。偶然海辺で見かけて、花が咲いた姿を見てみたいと口にしましたら、夫がこの温室を建ててくれたのです」
「クラヴァンテ伯爵らしい、並外れた行動力ですね」
「ええ、そういうところがございますわ」
「『妖精の涙』は王都付近では見られないものですが、奥様はどちらでご覧になったのですか?」
「あ、ええ。幼い頃に偶然……」
「それならば、王国の北、キレアス王国との国境地帯である可能性が高いですね。あの花を『妖精の涙』と呼ぶのはその一帯だけですから。
私は子供の頃、父に連れられてその地を何度も訪れていました。もしかしたら、かつてどこかで奥様とすれ違っていたのかもしれませんね」
ジェルニエの声を、かすかな名残惜しさと感傷的な憂いが帯びていた。
「私が初めてあの花を目にしたのも、その地でした。父に同行してキレアス王国へ赴き、その帰り道のことです……」
それは満月が煌々(こうこう)と輝く、明るい月夜だった。その日に限って妙に胸が騒ぎ、寝付けずに散歩へ出かけたジェルニエは、宿の近くの平原を歩いている最中、遥か地表で光る何かを見つけたという。
光に引き寄せられるように近づいた彼は、淡く輝く花々の中に佇む一人の女性の姿を目にした。
純白のドレスをまとった彼女は、微かな光の粒子に包まれていた。気配を察したのか、女性はゆっくりと首を巡らせて彼を見た。
その姿は、この世の者とは思えないほど悲しくも美しかった。女性の白い頬には、真珠の粒のような大粒の涙が伝い落ちていた。
ジェルニエをしばらく見つめていた彼女は、再び前を向くと、そのまま歩き始めた。彼がまるで狐につままれたように彼女の後を追おうとした瞬間、背後から駆けつけた従僕がその身体を強く組み伏せた。
「いけません、坊ちゃま! あの女を追ってはならない! ついて行ってしまえば、二度とこちらの世界には戻れなくなります!」
息を喉につまらせるほど走ってきた従僕が、喘ぎながら叫んだ。そうしている間に、いつしか女性の姿は幻のようにかき消えていた。
リズベットは、この幻想的な物語にすっかり引き込まれていた。
「『月の妖精』は、本当に実在したのですね」
「ええ、私はそう信じております」
ジェルニエの端正な顔に、寂しげな笑みがかすめた。
(そういえば、ジェルニエ侯爵は精霊術の使い手だったわね。だからあの時、妖精の姿を目にすることができたのかしら?)
ジェルニエが優れた精霊術師であるというのは、ゲーム内における『隠し設定』であり、彼とロジア―ナの関係がかなり進展して初めて明かされる事実だった。
何はともあれ、『妖精の涙』にまつわる不思議な体験を聞かされたリズベットは、それを自分だけで独占するのが少し申し訳なくなり、彼に温室への立ち入りを許すことにした。
「昨夜は私のせいで驚かせてしまい、花をじっくりご覧になれなかったでしょう。ここに滞在されている間は、いつでも『妖精の涙』を見に温室へお立ち寄りくださいな」
「実に寛大な御言葉、感謝いたします。しかし、奥様の特別な温室に私一人が出入りするのはいささか不作法というもの。
もしよろしければ、あの場所で奥様とお茶を共にする栄誉を授けていただけませんか?」
「まあ……、いつ頃でしたら、お時間がよろしいですか?」
「私はあくまで客の身。奥様のご都合の良い時間を指定していただければ、喜んで従いましょう」
ジェルニエが、それこそ華やかに微笑んだ。
深みがあって心地よい、魅力的な低音の響き。わずかに緑が混ざった灰色の瞳とそそがれる熱い眼差しには、見る者を強く惹きつける魔力があった。
しばらく呆然と彼を見つめていたリズベットは、ハッと我に返った。
(ダメダメ。しっかりして、私!)
リズベットは心の中で自分の頬を叩き、正気を取り戻した。
彼の完璧な笑顔には、相手の警戒を解いて無防備にさせる致命的な魅力があった。
(今夜は特に予定はないけれど……でも、いきなり今夜にすると、積極的すぎてがっついているみたいに誤解されちゃうかしら?
かといって先延ばしにしすぎるのも不自然だし。やっぱり明日以降が無難よね。明日の夜は何か予定があったかしら?)
しばしスケジュールを巡らせていたリズベットは、顔を上げて提案した。
「よろしければ、明日の夕食の後などはいかがでしょうか?」
「ええ、喜んで」
「完全に辺りが暗くなってからの姿が最も美しいので、時間を見計らって侍女を迎えに寄こしますわ」
「ええ。本当に楽しみです。宝石のように輝く温室で、女神のように美しい淑女と共に夜の花を鑑賞する機会をいただけるなんて、光栄の至りですよ」
「まあ、過分なお言葉ですわ」
こんな歯の浮くような台詞を、顔一つ赤らめずに堂々と言ってのける男とは。
前世でゲームをプレイしていた頃は「現実世界でこんな台詞が通用するわけがない」と一蹴していたリズベット(ハルナ)であったが、いざ目の前の秀麗な容姿と低音の美声、そして真摯な眼差しを浴びてみると、すべての説得力が腑に落ちてしまうのだった。
(気をつけなきゃ、本当に……!)
リズベットは再び心の中の手綱を引き締めた。その後、話題は初日の夜の公演へと自然に移っていった。
「初日の夜の公演は、実に幻想的で素晴らしいものでした。特に、オロールの舞を再び目にすることができて、この上ない喜びです。
オロールから伺ったのですが、衣装だけでなく公演のコンセプトや演出の企画まで奥様が手がけられたそうですね」
「私は大まかなイメージを提示しただけで、具体的な内容はオロールと相談しながら一緒に決めたのですわ。
オロールはゴールデンローズ劇団にとって極めて重要な存在ですのに、こうして我が家に残ることになってしまい……侯爵閣下には申し訳ないことをいたしました」
「滅相もないことです。オロールはもちろん我が劇団にとって掛け替えのない存在ですが、何よりも優先されるべきは彼女自身の幸福です。
オロールが自らの人生と芸術を取り戻した姿を目にできたことは、私にとってもこの上ない喜びなのです」
事前にオロールから聞いていたジェルニエ侯爵の人品についての話が思い出された。
オロールに対して献身的とも言えるほどの莫大な支援を惜しまなかった彼だったが、世間の下俗な噂とは異なり、彼はオロールが怪我をする以前はもちろん、それ以降も一度として彼女に異性としてアプローチしたり、見返りを求めたりしたことはなかったという。
純粋にオロールの舞を愛し、彼女を一人の高潔な芸術家として扱ってくれた方だと、オロールは深い感謝と尊敬を込めて語っていた。 ゲームの画面越しに見ていたよりも、あらゆる面ではるかに格好良く、比類なき素晴らしい紳士だという思いがした。




