33. 邂逅(かいこう)
温室の中では『妖精の涙』が、ガラス越しに差し込む月光を浴びて、かすかな銀色の輝きを放っていた。リズベットはゆっくりと温室の奥へと歩み進めた。床に敷き詰められた小石が擦れ合う音がはっきりと聞こえるほど、静まり返った夜だった。
先ほどの夢は潜在意識が見せたものなのだろうか、それとも一種の予知夢なのだろうか。頭の中がひどく混乱していた。
エンジット公爵令嬢のマリサが夢で見た通りの人物だとしたら、確実に不安要素ではある。しかし、リズベットの素性が露呈することは、エンジット公爵家にとっても決して望ましいことではない。 マリサがいかに悪辣な性格の持ち主だとしても、自分に明白な損害をもたらすような真似はしないはずだ。
幸いにも王都とレトナは遥か遠く離れており、リズベットが王都に行くか、あるいはリズベット側からマリサを招待でもしない限り、直接顔を合わせることはないだろう。
だが、アルゼンはどうだろうか。夢の中で見せた彼の姿が、彼の愛を確かめたいという自分の願望が生んだものなのか、それとも彼が本当にそうしてくれるという予知なのかは分からない。
いっそ、アルゼンは自分を手段としてしか扱っておらず、無価値になったり足手まといになったりした瞬間、冷酷に切り捨てる人間だと思い込んでしまいたい。しかし、リズベットの心がそれを否定していた。
はっきりしているのは、自分のせいでアルゼンにすべてを捨てるような犠牲を強いたくない、ということだ。アルゼンがこれまで築き上げてきたもの、彼が全うしている役割や職務。そうしたものから、彼を引きずり下ろしたくはなかった。
破滅が訪れた瞬間、アルゼンが最後まで自分を離そうとしないなら、自分のために本当にすべてを投げ出そうとするなら――やはり、答えは自分が彼の前から姿を消し、遠くへ去ることだけだ。
(ここを去れば、二度と会えなくなるのだろうか……)
そう思うと涙が込み上げ、視界の中の花々が輪郭を失ってにじみ、ぼやけた光の塊へと変わっていった。
その時、サクッと小石を踏む音がした。首を巡らせてそちらを見たリズベットは、驚きに目を見開いた。ジェルニエがそこに立っていたのだ。
二人の視線が交錯した。ジェルニエにとってもこれは想定外だったようで、ひどく狼狽した表情を浮かべている。
リズベットは慌てて顔を背け、涙を拭った。そして、できる限り平然を装って声をかけた。
「ここはプライベートな温室ですわ。いかがなされたのですか?」
ジェルニエは表情を正し、非礼を詫びた。
「申し訳ありません。寝付けずに少し散歩をしておりましたところ、温室の中で何かがかすかに光っているのが見え、つい……。
大変な不調法をいたしました。これにて失礼いたします」
慇懃に一礼し、すぐに立ち去ろうとするジェルニエの姿を見て、いささか冷淡にあしらいすぎただろうかと胸が痛んだ。
「事情を知らずに入られたのですから、どうかお気になさらないでください」
「いいえ、私の不手際に違いありません。後ほど改めて、正式に謝罪に伺いさせてください」
「そんな、そこまでなさる必要はありませんわ」
すると、ジェルニエは懇願するように言った。
「謝罪を受け入れていただけなければ、奥様に許していただけなかったような気がして、心が休まりそうにありません。本当に怒っていらっしゃらないのでしたら、どうか機会をください」
ここまで言われては、無下に拒むわけにもいかなかった。
「決して怒ってなどおりませんが……侯爵閣下のお心を曇らせるわけにもいきませんから、そのようにいたしましょう」
「感謝いたします。それでは、良き夜を」
「おやすみなさい」
頭を下げ、背を向けようとしたジェルニエが不意に尋ねた。
「この花は……もしや『妖精の涙』ですか?」
「ええ、そうです」
「これをレトナで、それも温室の中で目にすることになるとは思いもしませんでした」
低く呟いたジェルニエは、静かに温室を後にした。
ジェルニエが去って間もなく、奥の出入り口が開いてアルゼンが入ってきた。
「どうしてここへ? 会議は終わったのですか?」
「今しがた終えたところだ」
アルゼンは温室の中をさりげなく見回すと、問いかけた。
「一人だったのか?」
「先ほどまでジェルニエ侯爵閣下がいらしていました。散歩の途中で温室の中に光る花を見つけ、気になって入ってこられたようです。 プライベートな場所だとお伝えしたところ、謝罪されてすぐに戻られましたわ」
「……そうか」
どこか腑に落ちない様子で呟いたアルゼンは、やや不満げな視線でリズベットの格好に目を留めた。
「ジェルニエ侯爵も、その姿を見たのだな」
リズベットはうろたえた。
「一度ベッドに入ってから出てきたものですから……。上にガウンを羽織っておりますし、それほど失礼な格好ではないと思うのですが」
「そういう問題じゃない」
「え? なら、どういう……」
リズベットの言葉が終わるより早く、アルゼンは片手で彼女の腰を引き寄せ、抱き締めた。
「この姿は、俺だけが見ていいものだ」
予知せぬ行動に、リズベットは戸惑って身を固くした。
「『妖精の涙』か。夜に見ると、確かに美しいな」
リズベットを抱き締めたまま、アルゼンが言った。
そういえば、温室を作ってからも、アルゼン自身はリズベットとここでこの花を共に眺めたことがなかった。
「せっかく温室を作ってくださったのに、どうして一度も見に来てくださらなかったのですか?」
「昼間に何度か様子を見には来ていた」
「だけど、夜にこうして花が開いている時こそが真価でしょう?」
「何というか……この花にまつわる逸話が、あまり気に入らなくてな」
どういう意味だろうかとアルゼンを見上げると、彼はぶっきらぼうに言葉を投げかけた。
「その場所で、ただひたすらに待ち続ける話だろう」
「待つことの何がいけないのですか?」
「消極的すぎる。本当に切実に逢いたいと願うなら、自ら探しに出るべきだ」
「どこにいるかも分からないのに、探し回るというのですか?」
「俺なら、そうする」
断固とした口調で告げると、アルゼンはリズベットの手を握った。
「夜が更けた。部屋に戻ろう」
アルゼンの手に引かれて部屋へと向かいながら、リズベットは夢の中の彼の姿を思い起こしていた。
もしかしたら、あれは単なる夢ではないのかもしれない、という確信に近い予感が胸をよぎった。
アルゼンの手を強く握り返したかったが、リズベットはその衝動を抑え込んだ。
(欲張ってはだめ。この人を愛してはならないの……)




