32. 悪夢
トリシと別れて自分の部屋に戻ったリズベットは、緊張を解いて深く息を吸い込んだ。疲労感が一気に押し寄せ、体を洗うのも省略してこのまま横になりたいほどだった。
侍女たちの手伝いを得て何とか身支度を済ませると、リズベットはベッドに横たわるなり、泥のように深い眠りに落ちた。
(寒い……)
全身が凍りつくような恐ろしい寒気に、リズベットは目を覚ました。氷の穴に閉じ込められたかのように、無慈悲で圧倒的な冷気が全身を襲っていた。
目の前には、初めて見る、しかし決して見知らぬ人ではない若い女が立っていた。直感的に、相手がエンジト公爵家の娘、マリサだと分かった。
恐怖――。今にも悍ましいことが起きそうな不安がとめどなく押し寄せ、圧倒的な恐怖が全身を圧迫した。マリサの不遜な佇まいと傲慢な瞳は、リズベットに屈従を強いていた。
足がガタガタと震え、膝が自然と崩れそうになる。本能に刻み込まれた恐怖。その対象はエンジト公爵夫人ではなかった。マリサこそが、リズベットを恐怖の監獄に閉じ込めた張本人だったのだ。
リズベットは拳を固く握りしめ、足に力を入れて耐えた。そして顔をまっすぐ上げ、マリサを毅然と睨みつけた。
マリサの顔に、不審な色がよぎる。
リズベットは体の震えを抑えながら、一言一言はっきりと告げた。
「あなたの知っているリズベットは、もういない。私はあなたに屈服なんてしない」
マリサの赤褐色の瞳が鋭くきらめき、薄い唇がわなないた。
「狂ったのね、あんた! 自分の分際を忘れて、本物の辺境伯夫人にでもなったつもり?
あんたは偽物よ! 今あんたが貪っているそのすべては、本来私のものだった。あんた自身のものなんて、その卑しい肉体以外に何もないくせに!
それなのに、よくも恩知らずにのさばれたものね!」
耳を劈くような甲高い金切り声が響き渡った。再び全身が震えたが、リズベットは絶対に崩れまいと誓って耐えた。
「私の物ではないからといって、あなたの物になるわけじゃないわ。あなたはアルゼンにふさわしい人間ではない。
私に何を要求しようと、あなたが望むものは何一つ渡さない」
マリサの目が狂気にぎらつき、怒りで全身を小刻みに震わせるのが見えた。
「リズベット……!」
マリサの禍々(まがまが)しい声が四方にこだまし、激しい突風がリズベットを巻き込んだ。闇の中から黒く猛々(たけだけ)しい手が飛び出し、リズベットの首を掴んで力任せに絞めつけ始めた。
リズベットは両手でその手を掴み、引き剥がそうと必死に抗ったが、無駄だった。次第に息が苦しくなり、意識が遠のいていく。
(助けて……アルゼン……)
突然、誰かが強い力でリズベットの体を引き寄せ、その魔の手から引き剥がすと、背後から彼女をきつく抱き締めた。
「大丈夫だ、リズベット。大丈夫だから……」
アルゼンの声だった。
マリサの姿は消え去り、リズベットはアルゼンと並んでうららかな野原に立っていた。二人の前には、見覚えのない庭付きのこぢんまりとした家が佇んでいた。
アルゼンが優しく微笑みながらリズベットの手を握り、その家へと導く。呆然と二、三歩ついていったリズベットは、ハッとその場に立ち止まった。
(私が、アルゼンを引きずり下ろしてしまった……)
そう思うと、胸が締め付けられて耐えられなくなった。リズベットはアルゼンの手を振り払い、背を向けてひたすら走り出した。
「リズベット?」
狼狽したアルゼンの声が聞こえ、彼が自分を追ってくるのが気配で分かった。
そして彼の手が自分の手を掴もうとした瞬間――リズベットは目を覚ました。
(夢……)
リズベットは手を伸ばし、自分の首元に触れてみた。夢にしてはあまりにも生々しい感覚で、額には冷や汗がにじんでいた。
隣を見ると、アルゼンはまだ戻っていなかった。眠気は完全に吹き飛び、体までぶるぶると震えてきた。彼のいない広い寝室に、一人きりで佇んでいたくはなかった。
リズベットはガウンを羽織って、部屋を出た。扉の脇に腰掛け、半分眠りかけていた侍女が慌てて立ち上がった。
「何か必要なものでもございますか?」
「ううん、ちょっと風に当たりたくて」
少し考えた侍女が言った。
「温室へ行かれますか?」
「ええ、そこがいいわ」
リズベットは温室へと向かった。




