31. 淑女たちの夜
アルゼンが出ていった後、メリンダとベティナが部屋に入ってきた。
「お早うございます、奥様」
リズベットはガウンの合わせ目を引き締めながら、決まりの悪さを隠そうと必死だった。しかし、先ほどアルゼンが再びうなじから胸元にかけて、さらに鮮明な痕を刻みつけていったせいで、隠そうにも隠しきれない状況だった。
窓を開け、乱れた寝具を整えながらベティナが言った。
「お顔を洗われましたら、すぐにお食事をお持ちいたします」
続いてメリンダが尋ねた。
「マッサージ師を手配いたしましょうか?」
案の定、必死で笑いをこらえているような声だった。
「……お願い」
二人の侍女が退室した後、リズベットは真っ赤になった顔を両手で覆った。
「うう、なんで私だけがこんなに恥ずかしい思いをしなきゃいけないのよ……!」
*** ***
恥を忍んでマッサージまで受けたものの、アルゼンの残した痕を完全に消すことには失敗した。鏡に映る自分のうなじを見つめ、困り果てた様子で額を押さえていたリズベットは、ある方法を思いつき、ハッと顔を上げた。
侍女たちにドレスのトーンと合わせた大きなシルクシフォンのスカーフを持ってこさせたリズベットは、それを首元に優雅に巻きつけ、肩と胸のラインへと波打つように垂らした。
薄く透明なシルクシフォンのスカーフが、彼女の肩とデコルテの上を流麗に流れ落ちるビジュアルは、神秘的な霧を身にまとっているかのようだった。
見守っていた侍女たちは感嘆を禁じ得なかった。
「まあ! なんて素敵で美しいのでしょう!」
「まるで最初から計算されていたかのように自然ですわ!」
ほんのり透けるシースルーの生地が重なり合うことで、肌が艶やかに透けて見えつつも、赤い痕は錯視によって完全に覆い隠されるという完璧な効果が生まれた。
アルゼンが残していった難題を無事に解決し、ホッと一息ついたリズベットは、トリシと並んで夫人たちの集まりへと向かった。
今回の行事に出席した貴族夫人たちと親睦を深める名目で集まる席だった。エンジット公爵夫人は突然の頭痛を言い訳に欠席していた。リズベットにとっては好都合だった。
初日のパールホワイトのドレス、二日目の「ロイヤル・サファイアブルー」に続き、この日のリズベットは、銀糸で刺繍を施し、小さな青いリボンで飾られたミスティミントのシルクドレスを纏い、初春に芽吹く若葉のような瑞々(みずみず)しいイメージを演出していた。
トリシは落ち着きのあるセージアイボリーのシルクに銀糸の刺繍をあしらったドレスを着用し、リズベットとお揃いの、海竜が刻まれた大ぶりの純銀のブローチを胸元につけて、二人の連帯感を示していた。
「お二人とも、なんと優雅で美しいのでしょう!」
「ドレスの上にシルクスカーフをあんなに見事にレイヤードされるなんて、さすがクラヴァンテ伯爵夫人ですわ!」
「本当ね。デコルテをこうしてあえて仄かに隠す方が、ずっと神秘的でエレガントに見えますわ。私も真似してみなくては!」
貴婦人たちは口々にリズベットのスタイリングを絶賛した。
女性だけが集まる席だからか、夫人たちは非常に積極的な態度で、リズベットのドレスからヘアスタイル、公演でお披露目された衣装や小道具に至るまで、多様な質問を浴びせてきた。
最初はいくらか緊張していたリズベットだったが、すぐに順応し、微笑みを絶やさずに余裕たっぷりに、かつ巧みに会話をリードしていった。
実際、この手のコミュニケーションは彼女にとって非常に馴染み深いものだった。前世でヘアメイクアップアーティストとして活動していた頃、芸能人やインフルエンサーなどのセレブはもちろん、政財界の要人と接する機会も多かった。
人を相手にする仕事である以上、ヘアメイクの技術もさることながら、対人コミュニケーション能力は必須のスキルだった。
「今回新しくお披露目いたしましたシルク製品は、まもなく正式に発売される予定です。もちろん、こうしてレトナ城へと足を運んでくださった皆様は、先行してご購入いただけます。
事業に関しましては夫に一任しておりますので、夫の方へお声がけください」
市場に出回る前に先行購入できるというリズベットの言葉に、夫人たちの目がキランと輝いた。彼女たちの顔は、多大なる満足感と期待感で満たされていった。
(人より先んじて最高級の新商品を手に入れたいという熱狂は、この世界でも同じなのね)
ファッションショーを大成功に導き、新ブランドを立ち上げたかのような、誇らしい充実感が込み上げてきた。
「そういえば、マリサ令嬢とは一歳違いでいらっしゃいますよね? エンジット公爵邸には夫と何度か伺ったことがあるのですが、一度も奥様にお目にかかれませんでしたわ」
エンジット公爵家と親交があるというフェラオン子爵夫人が投げかけた言葉に、リズベットはドキリとした。
「当時は静かに過ごしておりましたので……」
「それにしても、これほど素敵なお姉様がいらっしゃるのに、一度も紹介してくださらないなんて、水臭いですわ」
フェラオン子爵夫人がどのような意図でこの言葉を発したのか測りかねたため、リズベットは微笑みで受け流した。どこか天然が入った屈託のない顔を見るに、深い意味はないようにも思えた。
空気が気まずくなる前に、機転の利く別の夫人が話題を変えた。
「それにしても、どうしてこれほどお肌が艶やかで美しいのですか? どうすればそのように内側から澄んだ光沢が宿るのかしら?」
「目元や口元のメイクも実に見事ですわ. 市場では決して見かけない色彩と輝きですが、もしやこれも奥様がお作りになったのでは?」
「本当ですわ。目元の陰影も実にお上品で美しい」
「伯爵夫人がお使いになっているカラーの化粧品は、どこでも見たことがございません。やはり、奥様が開発されたのですか?」
話題がメイクへと移ると、リズベットの心は一段と軽くなった。
「ええ。シャロナと共に古代の知恵を応用して作ってみましたの。カラーコスメは完成して間もないため、まだ準備段階にあります」
女性たちは焦れったそうに、急かすように尋ねた。
「もしよろしければ、奥様がお使いのものを拝見することはできませんかしら?」
「ほんの少しで構いません、どうかお願いいたします!」
人々の熱意に押され、リズベットはアイテム袋からメイクボックスを取り出した。
「私が愛用しているのは、このようなものですわ」
メイクボックスを目にした瞬間、夫人たちの目は丸くなった。色とりどりのカラーコスメと様々な道具は、一体どんな用途でどう使うのか、彼女たちには想像すらつかなかった。
「メイクボックスと呼んでいるのですが、これほどのセットになりますと、メイクアップを専門的に学ばなければ使いこなすことは難しいです。
市販用としては、色彩ごとに分けた簡素なバージョンを何種類か製造する予定です」
すると、ある若い夫人が尋ねた。
「これが一式あれば、今の伯爵夫人のようなお化粧が可能になる、ということですのね?」
「理屈の上ではそうですが、専門的に学びませんと、正しく活用するのは容易ではありません。それに、こういったお品は非常に高価でもありますし……」
言いながら、リズベットはハッと気づいた。ここに集まっている面々にとって、価格など何の問題にもならないということに。
「その、メイクアップとやらを専門的に修めた者は、どこで雇うことができますの?」
ディクレール公爵夫人が真剣な面持ちで尋ねた。魔導士であり学者としても高名な公爵夫人は、知性あふれる佇まいの女性だった。
他の面々も一斉に相槌を打った。
「おっしゃる通りですわ! そういう者を紹介していただければ良いのですもの!」
「ぜひお願いいたします、クラヴァンテ伯爵夫人!」
この時点で、リズベットは自分が成すべき仕事がまた一つ増えたことを自覚した。これまでは侍女たちにだけ技術を教えていたが、その対象を広げ、専門的な人材を育成する必要性を感じたのだ。
(そりゃそうよね、正しく使いこなせる人間が増えてこそ、需要も生まれるんだもの。
ある程度普及しておいてくれた方が、後々ここを出ていった後に、私自身が購入する時も都合がいいわ。今回の行事が終わり次第、さっそく進めなくちゃ!)
*** ***
集まりが終わり、部屋へと戻る道すがら。同席していたトリシが満足げな表情で言った。
「お疲れだった、リズベット。完璧な女主人の佇まいだったわ。誰も彼もがあなたに魅了されて、目が離せない様子だったもの」
「お義母様が傍で見守ってくださったおかげです」
「私はただ、見ていただけよ。初日の公演から今日に至るまで、これほど多くのものを準備するのは本当に大変だったでしょう」
「滅相もございません。シャロナをはじめ、多くの方々が支えてくださったからこそ成し遂げられたことです」
リズベットの言葉に、トリシの後ろに控えていたシャロナが深く頭を下げた。
「身に余る光栄にございます」
貴婦人たちの集いらしく、話題はファッションやメイクだけに留まらなかった。詩や哲学、歴史といった教養も重んじられたが、シャイナの助言を受けて事前に予習していたお陰か、取り立てて困ることはなかった。
「昔、私が初めて社交界に出た時は、まるで洗礼を受けるかのような厳しい雰囲気だったけれど……。今日はむしろ、皆がリズベットの前で一目置いているように見えたわ」
トリシの言葉に、シャロナが当然だと言わんばかりに口を開いた。
「リズベット様は古代の神秘を継承されているお方ですもの。高名な魔導士であられるディクレール公爵夫人ですらリズベット様に敬意を払っておいでなのですから、他の者たちが浅薄な知識で探りを入れようなど、言語道断です」
話しているうちに可笑しなことを思い出したのか、シャロナが声を立てて笑った。
「アメリア様が奥様に気に入られようと必死に愛想を振りまいている姿、本当に傑作でしたわ。
トリシ様にはあんなに不遜な態度を取っていた人が……本当に同一人物かしらと疑うほどでした」
その言葉を聞いて、トリシもクスリと笑った。
「ふふ、今回の滞在では、以前とは違って私にもずいぶん恭しかったわね」
鼻声を出しながら親しげに擦り寄ってきたアメリアを思い返すと、確かに滑稽だった。適当にあしらいはしたものの、絶対に深く関わるつもりはなかった。
その手の人間は、前世の世界でも嫌というほど見てきた。自分に利益がある時は卑屈なほどに媚びへつらい、利用価値がなくなると途端に手のひらを返し、ハイエナのように噛みついてくる類の人間。あえて敵に回す必要はないが、心の距離を許して良いことなど一つもない。
シャロナが笑いを収めて言った。
「何はともあれ、閣下がご心配される必要は全くございませんでしたね」
「アルゼンが、心配していたの?」
「はっきりと口にされたわけではありませんが、私を個別に呼び出され、奥様をしっかり補佐するようにとお命じになったのです。
どうしてもこうした席には不慣れでしょうから、緊張されているかもしれない、と」
リズベットは首元に巻いたスカーフをいじりまわした。
(今日がどんな集まりか知っていたのね、あの男。それなのにこんな痕を残すなんて……。夫人たちの間で恥ずかしい噂でも広まったらどうするつもりよ!)
そう毒づきながらも、アルゼンの細やかな気配りが嬉しくもあった。
それぞれの部屋へと別れる直前、トリシが不意にリズベットを愛おしそうに抱き締めた。
「ありがとう、リズベット。あなたのおかげで、すべてが良い方向へ向いているわ。何より……アルゼンを幸せにしてくれて、本当に本当に感謝しているのよ」
「そんな、私の方こそ……」
リズベットは瞬間、胸が熱くなるのを堪えながら、どうにか言葉を紡いだ。
「色々と……ありがとうございます」




