30. 確信
明け方まで続いた夜会が終わり、部屋に戻ったリズベットは、ドレス姿とメイクをそのまました状態でアルゼンと対峙すべきか、しばし躊躇した。この姿のままの方が、アルゼンを挑発するには都合が良いと考えたからだ。
しかし、結局は着替えてメイクを落とし、身を清めることにした。自分の予想通りにアルゼンと衝突し、彼が怒って部屋を出ていってしまったら、自分が泣いてしまいそうな気がしたのだ。
わざわざアルゼンを挑発して喧嘩をふっかけるつもりでいながら、そんな心配をするなんて滑稽だが、とにかくそうだった。泣き顔を侍女たちに見せて、アルゼンを悪者に仕立て上げるのも嫌だった。口論をするにしても、侍女たちのいない場所、二人きりの空間ですべきだと心に決めていた。
身支度を終え、衣替えを手伝った侍女たちが退室した。リズベットはアルゼンに告げる言葉を心の中で何度も反芻した。今夜の彼女は、図々(ずうずう)しくも挑発的な悪女になるつもりだった。
(できる! 私は、ドレス一着に数億円もつぎ込んだ女よ!)
アルゼンが入ってくる気配に、リズベットは勢いよく立ち上がり、夜会の前と同じように目をキッと見開いて彼を真正面から見据えた。そして、アルゼンが口を開く前に先手を打った。
「今夜のあのドレス。以前あなたの言った通り、夜会の主役は私なのですから、最大限に華やかで目立つように仕立てました。
『高貴なる者の青』は、真に高貴な者にのみ許された色。古代の神秘を解読する私にこそ相応しいカラーだと思って選んだのです。 私にはそれだけの資格があると思いますけれど。私の言うこと、間違っているかしら?」
極力図太く、傲慢に言い放った後、アルゼンが反論してきたら彼を器の小さいしみったれた男扱いして喧嘩を売る――というシナリオ通り、いささか攻撃的な態度で言葉を投げつけたリズベットは、アルゼンの反応を待った。
ところが、アルゼンは無言で歩み寄るなり、リズベットを力強く抱き締めた。
「ああ、お前にはその資格がある」
リズベットは自分の耳を疑った。
「え?」
「今夜のお前は、最高に美しかった」
リズベットを抱きすくめるアルゼンの腕に、いっそう力がこもる。
(え、ええっ、こんなはずじゃ……?)
困惑したのも束の間、アルゼンの熱い吐息が耳朶をかすめ、彼の大きな手がリズベットの体を優しく愛撫するように滑り落ちていった。
*** ***
だるさを伴う心地よさの中で目を覚ましたリズベットは、自分がまだアルゼンの腕の中にいることに気づいた。昨夜の熱い余韻が未だに残り、朦朧とする意識を整えながら、リズベットはこれまでの状況を整理してみた。
破格の贅沢でアルゼンを怒らせ、「嫌われポイント」を稼ごうという作戦は明白に失敗だった。二日連続で会心の贅沢パレードを繰り広げたというのに、結果がこれとは。虚脱感すら覚える。
(一体どれほど贅沢をすればこの人を怒らせることができるの? 普段の様子を見る限り、決して浪費を好む人ではないのに。なぜ怒らないわけ?)
どうしても理由が分からない。
(ひとまず、今回の行事が終わった後にまた考えましょう)
そう結論づけたリズベットは、アルゼンを起こさないよう慎重に身を引いた。ベッドから抜け出そうとしたリズベットは、毛布の端で胸元を隠し、しばしアルゼンの寝顔を見つめた。
彼はいつも早朝に先起きて出ていってしまうため、その寝顔を見るのは初めてだった。柔らかにきらめくプラチナブロンド、男らしくも繊細で端正な輪郭をじっと見つめていたリズベットは、そっと手を伸ばし、彼の乱れた髪をかき上げた。
万が一にも目を覚まさないかとハラハラしたが、幸いにも深く眠っているのか何事もなかった。もう少し勇気を出して彼の顔を見つめ、そっと愛おしそうに撫でていたリズベットは、ガウンを羽織るためにベッドから下りた。
足音を忍ばせてガウンを手に取ったリズベットは、ふと自分の二の腕が赤らんでいることに気づき、ガウンを大雑把に羽織ると大慌てで化粧台の前へと向かった。
鏡を覗き込んだリズベットは、危うく悲鳴を上げそうになった。自分のうなじのあちこちに、鮮明な赤い花が咲いていたのだ。ガウンの内側を確認してみると、肩や腕、全身がいたる所、赤い痕だらけだった。
(よりによってこんな時に……。今日着るドレスも、デコルテが大きく開いたデザインなのに……!)
今夜は、リズベットが主催する貴婦人たちとの茶話会が控えている。こんな気恥ずかしい姿を人目に晒すわけにはいかない。
「どうしよう……。マッサージでもすれば、夕方までに引いてくれるかしら……」
困り果てて独り言を呟いていると、いつの間にか近づいていたアルゼンが、リズベットを背後から抱き締めた。
「それは困るな。せっかく、お前が俺のものだという印を刻んでおいたというのに」
「え?」
目を丸くするリズベットとは対照的に、鏡に映るアルゼンの表情と眼差しは余裕に満ちあふれていた。
「何ですって? じゃあ、わざとやっておられたの!?」
呆れ返ったリズベットが声を荒らげると、アルゼンはニヤリと唇を歪めた。
「絶対に消えないよう、もう一度刻み直さねばならないな」
そう言うと、リズベットを束縛するように強く抱き寄せ、彼女のうなじに深い口づけを落とした。
「あ、だめです、今日のドレスが……っ」
リズベットは逃れようと必死でもがいたが、抗えば抗うほど、その身体は頑なに拘束された。アルゼンの手がリズベットの肌を熱く這い上がっていく。胸元を過ぎ、腰、そしてその下へと。
「お前は海のようだ。ますます俺を溺れさせる……」
アルゼンの囁きに、リズベットの体からすとんと力が抜けた。
何かが彼女の内側でぷつりと切れてしまった。リズベットは衝動に突き動かされるまま身体を反転させ、アルゼンを力いっぱい抱き締めた。今、この瞬間だけでも、完全に彼を自分のものにしたかった。
*** ***
アルゼンが部屋を出ると、扉の脇にはメリンダとベティナ、そしてルパートが並んで控えていた。
「お目覚めでございますか」
「今、何時頃だ?」
「先ほど正午を過ぎましたので、1時を回ったところかと存じます。お部屋へ行かれますか? お食事をご用意させましょうか」
「そうしてくれ」
アルゼンは、どうしても零れそうになる笑みを隠すように、手で口元を拭った。
リズベットと共に昼食を摂りたかったが、彼女が「こんな恥ずかしい姿で一緒に侍女たちの前に立てるわけがない」と、半ば力ずくで彼を追い出したのだった。
リズベットが先に身を起こした時、アルゼンもうっすらと目を覚ましていた。しかし、彼女と共に朝を迎える心地よさをもう少し楽しむため、眠ったふりをして目を閉じていたのだ。
自分の髪をかき上げ、顔に触れるリズベットの手つきは、柔らかく温かかった。その感触は、幼い頃に母トリシがしてくれたのと同じように、深い慈愛に満ちたものだった。
リズベットがここでの、自分との生活に満足し、楽しんでくれることを願っていた。リズベットが敢えて言葉にしなくとも、彼女が情熱的に成し遂げていく仕事ぶりを見て、きっとそうだろうと漠然と考えていたし、少なくとも不安を覚えることはなかった。――まさに、昨日までは。
昨日の夜会におけるリズベットは、燦然と輝く神秘的な蝶、いや、ジェルニエの言葉通り、海の神秘と威厳を纏った女神のようだった。そこに集った男たちの、彼女へ向けられた熱烈な賛辞と欲望の眼差しは、アルゼンを誇らしくさせると同時に、深い不安へと突き落とした。
家門間の取引によって成立した結婚。挙式当日、リズベットは可憐な姿で涙を流していた。あの時は、その涙に全く動揺しなかった。
互いの義務を全うすること。アルゼンが最初からこの結婚に期待していたのは、それだけだった。だからこそ、花嫁の涙に対しても特に失望することも、怒ることもなかった。
ところが、その後にリズベットが見せた思いがけない姿の数々。気丈でありながらも時に突拍子もなく、温かで神秘的な彼女の魅力に、いつの間にか溺れてしまっていた。
リズベットは一体、自分のことをどう思っているのだろうか。一度も彼女がアルゼンへの想いを口にしたことはなく、自分自身もそれを確かめようとしたことはない。
あるいは、かつて自分がそう考えていたように、リズベットにとって自分は「義務」以上の何物でもない存在かもしれない、という恐怖のせいだったのかもしれない。
だからこそ、昨夜はあのように激しくリズベットを抱いたのだろう。彼女が今にでもどこかへ消え去ってしまいそうな不安が、彼を襲っていた。
しかし今日、リズベットの優しい手つきはその不安を払拭してくれた。彼女の触れる手がもたらす、心地よい温もりと安らぎ。それはリズベットから愛されているという証拠のようだった。そして、先ほど、リズベットが自分を激しく抱き締め返してくれた瞬間、それは確信へと変わった。
数多の男たちが熱望する、美しくも魅惑的なレトナの女神が、自分を選び、愛してくれているのだと。




