22. エンジット公爵夫妻
バルマン辺境伯家に続き、周辺領地の貴族たち、そして王都からも続々と客人が到着していた。その中には、リズベットの実家ということになっているエンジット公爵夫妻の姿もあった。
大伯爵とアルゼン、そしてリズベットが出席する中で歓迎の晩餐会が開かれた。それはひどく堅苦しく、退屈な席だった。
「リズベットが我が家の一員となって以来、多くの変化が起きております。これほど素晴らしい娘を送り出してくださり、誠に感謝いたします」
大伯爵の挨拶に、エンジット公爵はぎこちない微笑みを浮かべて答えた。
「行き届かぬ娘ですが、そのように温かく迎えていただき、感謝の念に堪えません」
「今回の祝宴は、かなり盛大なものとなりました。王都からも多くの高貴な方々が出席される予定です。マリサ令嬢も今回、ご一緒できれば良かったのですが」
「ええ、出発の直前に酷い風邪を引いてしまいまして」
型通りの会話がいくつか交わされた後、晩餐会場は静まり返った。アルゼンは短い挨拶以外にはほとんど口を開かず、リズベットにいたっては、なおさら話すことなどなかった。
結婚式当日の記憶がほとんどないリズベットにとっては、公爵夫妻と会うのはこれが初めてのようなものだった。しかし、二人から受ける印象は微妙に異なっていた。
エンジット公爵に対しては、何の感情も湧かなかった。好感など微塵もないが、かといって酷く嫌悪したり恐怖したりする感覚もない。ただの壁や岩を見ているかのように、無色無臭だった。
だが、公爵夫人であるエヴリンは違った。彼女と視線が交わした瞬間、全身に悪寒が走り抜けた。わざとらしく優しげな笑みを浮かべてはいるが、その冷酷で傲慢な眼差しは、今でもリズベットを自分より遥か下の存在として見下していた。
(可哀想な元のリズベットを虐げていたのは、あの女ね)
身体が記憶している、無意識に刻まれた恐怖。そんなものに無力に支配されたくはない。リズベットは必死に心を落ち着かせようとした。
その時、アルゼンがテーブルの下で、リズベットの太ももにそっと手を置いた。すると、次第に不安が静まり、心が落ち着いていくのが分かった。
リズベットは顔を上げ、毅然とした表情で公爵夫人を真っ直ぐに見つめ返した。正面から視線がぶつかると、エヴリンは一瞬、狼狽したように見えた。
*** ***
翌日の午前、エンジット公爵夫妻から「一緒に庭園を散策しないか」と提案があった。気が進まなかったが、一度は通らなければならない道だと考え、リズベットは応じることにした。
庭園へ出る前、リズベットはいつも以上に念入りに髪を整え、隙のないメイクを施した。公爵夫妻が自分を呼び出す正確な理由は分からないが、決して良い意図ではないことくらいは察しがついたからだ。
気後れしては負けだという思いから、目元を強調し、アイスブルーのアイメイクで冷涼かつ気高きイメージを演出した。
(よし、これくらいなら。絶対に舐められちゃダメ。忘れないで、私はファイターなんだから!)
簡単に屈するものか、と心に誓い、リズベットは部屋を後にした。
初春の庭園はまだ肌寒かった。侍女たちが距離を置いて控える中、三人並んで歩き始めた。
「ずいぶんと上手くやっているようね」
エヴリンが、リズベットの纏うスカイブルーのサテンドレスと、大粒のアクアマリンのネックレスを値踏みするように上下に舐め回した。
「ええ。皆様、とても親切にしてくださいます」
リズベットは感情を交えない、抑揚のない声で答えた。お世辞にも「おかげで」などという言葉は、口にしたくなかった。
公爵が、いかにも高圧的な口調で言った。
「分かっているとは思うが、クラヴァンテ家は武門の家柄だ。どこに目や耳があるか分からん。間違っても、卑しい育ちを露呈せぬよう、常に言動には気をつけるのだな」
「心得ております。自負の持てる振る舞いをしておりますので」
リズベットの冷ややかな返答に、公爵は面食らったのか、わざとらしい空咳をした。
エヴリンが嫌味を口にする。
「一年ばかり伯爵夫人の真似事をしたからと、随分と生意気な態度になったものね。あなたが今こうして贅沢を享受できているのが、誰のおかげか忘れたわけではないでしょう?」
リズベットは冷静に言い返した。
「公爵家のほうこそ、私のおかげでクラヴァンテ家からかなりの援助を受け取っていらっしゃるのではありませんか?」
「なっ……!」
エヴリンの声が鋭く跳ね上がり、その手が怒りでピクリと震えた。
「お気をつけに。私の侍女たちが、あちらで見ておりますわ」
リズベットの警告に、エヴリンはかろうじて憤怒を抑え込んだ。
「この恩知らずが……今の栄華が本当に自分のものだとでも思っているの? あなたの正体が露見すれば、どうなるか分かっていて?」
エヴリンの声は怒りで震えていた。
リズベットは覚悟を決め、エヴリンを真っ直ぐに睨み据えて、一言一言区切るように言い放った。
「私を脅迫するつもりなら、無駄です。私が失うものは、せいぜいこの命一つ。
ですが、公爵家に残されているのは『破産』だけなのではありませんか?」
沈黙の中に、エヴリンの荒い呼吸音だけが響いた。かろうじて感情をなだめたエヴリンが、いくぶん和らいだ口調で言った。
「……ともかく、今回ここまで足を運んだ本題だがね。例のレトナシルクと化粧品のことだが、マリサが……」
リズベットは冷たく遮った。
「おじい様が贈り物として用意されるもの以外は、一切望まないでください。私の名前を出すことも、金忌に処します」
「あなた!」
我慢の手限界を迎えたエヴリンが大声を上げようとした、その時だった。
「リズベット」
アルゼンの声が響いた。向こうから、彼が歩いてくるところだった。エヴリンはハッとして口を閉ざした。
公爵夫妻に軽く目礼を返したアルゼンは、リズベットの傍らに歩み寄ると、その肩を愛おしげに抱き寄せた。
「まだ肌寒い。外に長くいるには時期が早すぎる。風邪でも引いたら大変だ、もう中に入ろう」
そして公爵夫妻に対し、配慮を装った事実上の通告をした。
「リズベットと話したい儀がありますので、これにて失礼します」
リズベットは内心ホッと安堵し、アルゼンに導かれるまま歩き出した。公爵夫妻を背にして歩きながら、アルゼンが低く囁いた。
「無理をしてまで相手をする必要はない。ここはお前の家であり、お前がここの女主人だ」
「……ええ」
頷き、リズベットは言った。
「公爵家への贈り物、過分になさらなくて結構です。万が一、私の名前を出されても、私の本意ではありませんから聞き流してください」
「分かった。おじい様にもそのように伝えておく」
そう言うと、アルゼンはリズベットの肩を引き寄せ、さらに強く抱きしめた。
「身体が冷えているな。戻って温かい茶でも飲もう」
全身に伝わってくる彼の体温に、リズベットの胸がキュッと締め付けられた。エンジット公爵夫妻との面会によって、自分がこの地を去るべき理由はさらに明確になったはずだ。
それなのに、今この瞬間、彼の差し出してくれる温もりが、その決意をまたしても容赦なく揺るがしていく。今だけは、ほんの少しだけでも、彼に寄りかかっていたい。
リズベットが彼の肩にそっと頭を預けると、アルゼンは少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに愛おしげな微笑みを湛えた。
*** ***
エンジット公爵夫妻は、リズベットとアルゼンの後ろ姿を呆然と見送っていた。しばらくして、公爵がぽつりと言った。
「まるで別人のようだな……本当に我が家にいた頃は、自分の能力を隠していたのだろうか?」
エヴリンが鋭く反論した。
「あんな小娘が大魔導士で賢者ですって? 文字くらいは読めるかもしれませんわ。
ですが、それほどの凄まじい能力を持ちながら、何年も完璧に隠し通して雑用をこなしていたなんて、筋が通りませんよ!」
「……」
「どうせ、あのヴィーチェとかいう魔導士が裏で手を引いていて、リズベットを表舞台の顔役に仕立て上げたに決まっています。
あの魔導士は人前に出るのを極度に嫌うそうですから。今回も、別の場所に逃げて姿すら現さないでしょう?」
「周りの人間が全員愚者というわけでもあるまい。世の中、そう単純な話ではない。現に、伯爵家がリズベットをあれほど丁重に遇しているのはどう説明するのだ?」
「顔だけは人並みでしょう。あれで若い伯爵をたぶらかしたのですわ」
エヴリンは、リズベットを連れて遠ざかっていくアルゼンを忌々(いまいま)しげに睨みつけ、蔑むように呟いた。
「あの男の母親だって、どこの馬の骨かも分からない出自でしょう。まともな貴族の女性を相手にしたことがないから、女を見る目がないのですわ」
それから、リズベットに言い返された言葉を思い出し、再び怒りを爆発させた。
「あんな卑しい小娘にこれほどの屈辱を受けるなんて! だからマリサを連れてこようと言ったのです。マリサがいれば、あんな小娘、身動き一つできなかったでしょうに!」
「滅多なことを言うな。あいつの気性で、ここで騒動でも起こしたらどうするつもりだ」
エヴリンは鋭い眼光で夫を睨みつけた。
「あの娘、本当にあなたのご遠方が預けてきた子供なんですの? あなたが外で孕ませて連れてきた子ではないでしょうね?」
公爵は眉をひそめ、素早く周囲を警戒すると、不快に吐き捨てた。
「ここがどこか忘れたのか! いい加減、口を慎みなさい!」




