20. 練習
ダンスの練習は、何も舞姫たちだけに限られたものではなかった。夜会をひと月後に控えた頃からは、リズベットとアルゼンも練習を始めていた。二日目の夜会は辺境伯夫妻が主役であるため、二人のダンスによって舞踏会の幕が開ける予定だったのだ。
(まさか、ここに来る前にダンスくらいは習っているわよね)
そう高をくくっていたリズベットだが、いざ始めてみると、状態は想像以上に芳しくなかった。一応習ってはいるようだが、実戦経験がないせいか、あるいはすっかり忘れてしまったのか、ほとんど初心者同然だった。
「あっ、ごめんなさい!」
リズベットは顔を真っ赤にして謝った。ステップが何度ももつれ、その度にアルゼンの足を強く踏みつけてしまっていた。
「大丈夫だ。このくらい、何ともない」
かなり痛むはずなのに、アルゼンは眉一つ動かさず平然としていた。
「それでも、少し休んで様子を見たほうが……」
「いや。もう少ししたら会議へ行かねばならない。それまでは練習を続けよう」
そう言うと、アルゼンはリズベットに問いかけた。
「社交界にデビューしたことがないと聞いたが、夜会に参加するのは今回が初めてか?」
「ええ、まあ、そんなところです」
記憶にはないが、令嬢らしい暮らしをしてこなかったのは確実なので、間違いではないだろう。
アルゼンの口元に、かすかな微笑みが浮かんだ。 彼がなぜか上機嫌になったのを察し、リズベットは内心首を傾げた。
(遊び慣れた令嬢じゃないから嬉しいってことかしら?)
アルゼンが会議の時間に合わせて退出した後、リズベットが男性役を務める侍女を相手に練習を再開しようとしたところへ、ヴィーチェが姿を現した。
「ダンスの練習、まだ終わらないの?」
「私はもっと練習が必要です。何度もステップを間違えてしまって」
「アルゼンは?」
「会議があるからって、先に行きました」
ヴィーチェはリズベットに近づくと、優雅な所作で手を差し伸べた。
「それなら、私が練習相手になってあげる」
「男性パートを踊れるんですか?」
「ええ。男装して出歩くこともあるからね」
「本当に?」
「本当よ。これでも結構モテるんだから。女の子たちは私に首ったけなの」
ヴィーチェは悪戯っぽく微笑んだ。男装の話が本当かどうかはさておき、ヴィーチェが男性パートを完璧に踊れるのは事実だった。実力だけで言えば、アルゼンよりもずっと上手だった。
「ヴィーチェは何でもできるんですね」
リズベットの感嘆の言葉に、ヴィーチェは意味深な笑みを浮かべた。
「時間が有り余っているから、あれこれ手を出してみただけよ」
ふと、ヴィーチェは何歳なのだろう、と気になった。ギスカールより年上なのは知っているが、どういうわけかそれ以上、遥かに長い時を重ねているような気がした。
しかし、リズベットはその疑問を口には出さなかった。触れてはならない領域だと、本能的に予感したからだ。
ふと顔を上げたリズベットと、ヴィーチェの視線が交差した。 ヴィーチェの黒い瞳は、月のない夜のように深く静まり返っていた。以前目にした、あの途切れた黄金の輪は見当たらなかった。
リズベットは気まずさを誤魔化すように言葉をかけた。
「ヴィーチェも夜会に出席するんですか?」
「当然、不参加よ。夜会の期間中は、いっそ遠くへ出かけるつもり。人が大勢集まる場所は苦手だからね」
そう言うと、彼女はリズベットに念を押した。
「初日の公演が終われば、オロールの件で途方もなく騒がしくなるはずだ。前に教えた通り、主にシャロナに対応させなさい。
シャロナは長年トリシの秘書役を務めてきたから、そういう場でのあしらいには慣れている。それでもしつこく問い詰められたら、私のせいにすればいい。いざとなったら、全部私に押し付けちゃって構わないから」
「ヴィーチェは、本当にそれでも大丈夫なんですか?」
ヴィーチェはニッと笑った。
「私はただの風来坊だからね。面倒になれば、ふらりと消えてしまえばいいだけさ」
「家は、ないんですか?」
「ないわよ、そんなもの」
ヴィーチェの顔に、一瞬寂しげな色がよぎったような気がした。
「ギスカールという家族がいるじゃないですか。ここに落ち着くわけにはいかないんですか?」
「それって、スカウトの提案?」
「そういうわけでは……」
ヴィーチェはグッと体を寄せると、リズベットの耳元で小さく囁いた。
「もうここに留まる気になった? それとも、相変わらず立ち去る準備を進めている最中かしら?」
リズベットは答えることができなかった。彼女の身体が強張ったのを察したヴィーチェは、優しく言った。
「答えなくていいわ。誰にだって、大小なりとも秘密はあるものよ。それが悪いわけでもない。……相手の信頼を利用して、欺きさえしなければね」
「欺く」という言葉に、リズベットは一瞬動揺した。バランスを崩し、ヴィーチェの足を強く踏みつけてしまった。
「ごめんなさい!」
慌てて謝るリズベットを見て、ヴィーチェはクスクスと笑った。
「アルゼンが客の前で足を引きずるなんていう不祥事を防ぐためにも、たっぷり練習が必要みたいね。
毎日私と練習しましょう。私は回復もものすごく早いの。リズベットのためなら、このくらいの足の甲、いくらでも生贄に捧げてあげる」
リズベットは呆れたように笑った。
「そんなあからさまな口説き文句を言うなんて。ヴィーチェが女性で本当に良かったです」
「そうね。私が若い男だったら、一日中厳重な監視下に置かれるか、ハナからリズベットの傍に近づくことすら許されなかっただろうね」
「それ、どういう意味ですか?」
「アルゼンみたいな男はね、一途だからこそ、ただ一人の人にしか尽くさない。その代わり、独占欲も嫉妬心も凄まじいんだから。
考えてごらん。リズベットの周りの若い男なんて、既婚者の護衛騎士くらいしか置いていないじゃない。乗馬の教師も、ダンスの教師も全員女性でしょう?」
リズベットは混乱した。ヴィーチェが敢えてアルゼンの気持ちを分からせようとする意図が理解できなかった。ヴィーチェは今まで、自分を誘惑してきたのではなかったか。
「なぜそんなことを言うんですか?」
「私は基本的に、フェアプレイを好む主義だから。それに、友人であれ恋人であれ、あなたの傍に寄り添えるなら、どんな形だって構わない。
何よりも一番大切なのは、リズベット、あなた自身の気持ちでしょう?」
しばらく言葉を切ったヴィーチェは、リズベットの目をじっと見つめてから言った。
「もし道に迷ったと感じるなら、自分の心を見つめ直してみて。自分が本当に望んでいるものが何なのかを把握することから始めるのよ」
リズベットはうつむいた。
「望む通りにできない時は、どうすればいいんでしょうか?」
「自分の努力で変えられることと、変えられないことを区別する。変えられることならそれに向かって動き出すし、変えられないことならそれに対して自分が取れる対策を講じるべきだね」
ヴィーチェはリズベットを抱きすくめ、大きく一回転した。
「分かっている。口で言うほど簡単なことじゃないって。でもな、何もしなければ、何も変わらないよ」
*** ***
魔導炉のある中央製作所に向かって歩いていたテイトンは、製作所の屋上、より正確には『レトナの翼』がある場所から下へと飛び降りるシャイナを見て、驚きのあまり足を止めた。
それは単純な落下ではなかった。浮遊魔法を使い、長い軌跡を描きながら徐々に高度を下げて、やがて地面に着地するのであった。
「こんにちは、テイトン子爵」
テイトンの近くに舞い降りたシャイナが声をかけてきた。
「こんにちは、シャイナ嬢」
便利な魔法とはいえ、普通に歩けばいいものを、なぜわざわざ危険な真似をするのだろうかと思ったが、表には出さずに挨拶を返した。
「ねえ、どうでした?」
突然の問いかけに、テイトンはその意図を掴めず、シャイナをまぬけに凝視した。シャイナは期待に満ちた表情でテイトンを見上げていた。
(どうだった、とは一体どういう意味だろうか。魔法の実力のことか? それとも着地の美しさのことか?)
テイトンが黙り込んでいると、じれったくなったのかシャイナが再び尋ねた。
「空を飛んでくる姿がどうだったか、と聞いているんです」
「飛んでくる姿、ですか?」
「ええ。不自然じゃなかったですか? 自然に見えました?」
「自然かどうかは分かりかねますが……見慣れない光景ではありました」
「見慣れない、ですか?」
「人間は本来、空を飛ぶ生き物ではありません。ですから、自然と捉えるのは難しいのではないでしょうか」
テイトンの生真面目すぎる返答に、シャイナは呆れたような表情を浮かべ、質問を変えた。
「見た目の話ですよ! カッコよく見えたとか、綺麗だったとか、そういうことです」
(見た目がどうだったか、だと。これはまた何を意図した質問なのだ?)
テイトンは、まずこの状況自体を把握すべきだという結論に至った。
「つまり……今なさっていたのは、格好良く飛び降りる練習とでもいうことですか?」
「そんな感じです!」
「そのような練習が、なぜ必要なのですか?」
「気になります?」
シャイナが悪戯っぽく微笑むと、恩着せがましく条件を提示してきた。
「本当は部外秘なんですけど、手合わせの申し込みを受けてくれるなら、子爵にだけこっそり教えてあげます」
(またその話か)
テイトンは苦笑した。テイトンから何かを察したのか、シャイナはしきりに彼の戦闘力を確かめたがっていた。
「何度も申し上げている通り、私はシャイナ嬢と立ち合えるような器ではありません。武器など、辛うじて身を守れる程度にしか扱えぬ身です」
「どうしてそんなに隠すんですか?」
シャイナは不満げに唇を尖らせた。
「隠してなどおりません」
先の会議以降、顔を合わせれば気安く話しかけてくれるようになったのは良いが、妙な点に執着されてしまったのが問題だった。
「おい、ガキ。早く上がってこないで何をしてるんだ? 練習はもう終わりか?」
製作所の屋上から、ヴィーチェが大きな声でシャイナを呼んだ。
「今行きます!」
ヴィーチェに返事をしたシャイナが、テイトンに向き直って尋ねた。
「製作所に行されるところですか?」
「ええ。少々様子を見ておきたい用事がありまして」
「一緒に行きましょう。練習を続けるには、また上がらなきゃいけないので」
『レトナの翼』がある製作所の屋上は強力な魔法結界で保護されており、5階にある出入り口を通らなければ出入りできない仕組みになっていた。
テイトンは、隣を軽快な足取りで歩くシャイナを盗み見た。雰囲気だけでなく性格まで、これまで出会った誰とも異なる、実に奇妙な人物だった。
(ヴィーチェ様もいらっしゃるということは、どうやらリズベット様が準備されている公演に関係しているようだな)
空を舞い、ゆっくりと降下する少女。当日の公演でシャイナがどのような姿を見せるのか、彼は一瞬、その光景を頭に思い描いていた。




