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19. 秘術の執行

 オロールに対する儀式は、ヴィーチェとギスカール一族以外には()せて進められた。どの程度の効果があるか不透明な状況で、不必要(ふひつよう)な注目を浴びたくないというリズベットの意向によるものだった。


 儀式当日。「造形の館」には、リズベット、ヴィーチェ、オロールのほかに、儀式を手伝うためにシャロナとシャイナの母娘が(ひか)えていた。秘術を授かるオロールは何の装飾(そうしょく)もない白い服を(まと)い、リズベットは古代の司祭の法衣に身を包んだ。


 祭壇(さいだん)に上がる前、オロールは仮面を外した。仮面の下から、凄惨(せいさん)な状態の素顔が(あら)わになる。シャロナ母娘は淡々とした態度でオロールを祭壇に横たわらせ、内部の準備を点検した後、儀式の場を後にした。


「準備はいいかい?」


 ヴィーチェの問いに、リズベットは深く頷いた。 リズベットが『美の錬金術』を開き、呪文を朗読し始めた。


       ***   ***


 目を閉じ、祭壇(さいだん)に横たわっていたオロールは、突如として目の前が明るくなる感覚に襲われ、目を開けた。虹色に輝く6枚の翼を広げた神秘的な存在が、宙から彼女を見下ろしていた。


 本能的に、その存在が神聖なる存在――「女神」であることを悟った。女神がオロールに手を差し伸べると、オロールは自分の体が(ちゅう)に浮き上がるのを感じた。


 次の瞬間、オロールは蒼穹(そうきゅう)の中に立っていた。(まばゆ)い黄金の太陽が、手に取れるほど間近で輝いている。それは燦然(さんぜん)と光を放ちながらも、驚くほど柔らかく温かかった。


 どこからともなく、玲瓏(れいろう)と輝く美しい精霊たちが現れた。舞い踊りながら近づいてきた精霊たちは、(いつく)しむように微笑み、オロールの手を取って導いた。


 オロールは精霊たちと共に、空を自在に飛び回り、舞い踊った。悲しみ、不安、罪悪感、怒り、怨恨……といった負の感情は跡形(あとかた)もなく消え去り、ただ純粋な喜びと愉悦(ゆえつ)だけが心を満たした。


 いつしか、彼女たちは青い海の上にいた。水面をかすめて踊る彼女たちの下を、色とりどりの魚たちが悠々(ゆうゆう)と泳いでいく。


 次にオロールと精霊たちは、広大でうっ(そう)とした森の上にいた。深い陰を落とす巨木の森の上を自在に渡り歩き、舞う彼女たちの周囲を、美しい羽を持つ鳥たちが楽しげに飛び交った。


 さらに空高く舞い上がると、今度は神秘的な静寂に包まれた群青の夜空が広がった。かつて見たこともないほど巨大な満月が、世界を隈なく銀色に染め上げていた。


 精霊たちが別れを告げるように、オロールを優しく抱きしめては、銀色の空気の中へ溶け込むように消えていった。


 恍惚(こうこつ)とした高揚感と、胸が震えるほどの充足感の中で、オロールの意識は先ほどの祭壇へと戻ってきた。女神の姿が、慈愛に満ちた微笑みを残したまま、(かすみ)のように消えていくところだった。


 ――チリン。

 清らかな鈴の音を聞いて、オロールは目を開けた。


 夢だったと言うには、あまりに鮮烈な感覚だった。精霊たちと踊り、見て、感じた至高の幸福が、今もなお胸の中に溢れていた。


 シャロナ母娘が歩み寄り、オロールの体を支えて起こしてくれた。オロールはまだ夢見(ゆめみ)心地(ここち)余韻(よいん)に浸っており、彼女たちが自分を見て驚愕(きょうがく)していることにも気づいていなかった。


 シャイナが鏡を正面に掲げ、オロールに自分の顔を見せた。鏡を覗き込んだオロールの目が大きく見開かれた。


 鏡に映った彼女の顔は、火傷の痕など微塵(みじん)も見当たらない、白く滑らかな素肌に戻っていた。この信じがたい奇跡を前に呆然としていたオロールだったが、すぐに我に返ると、リズベットの元へと歩み寄った。


 リズベットの前に膝をついたオロールは、震える声で言った。


「夫人様……何とお礼を申し上げればよいか分かりません。 これより私、オロール・ペインジは夫人様の人間として、生涯お(そば)に仕え、その御志を拝受いたします」


 リズベットもまた、驚きを隠せずにいた。ただ、オロールの状態が少しでも良くなり、楽になってほしいと願っただけだったのだが、これほどまでの結果は予想だにしていなかった。


 リズベットは戸惑いながらも、心からの喜びを込めて祝福の言葉を贈った。

「本当に、良かったです……。神様がオロールさんの魂と才能を、愛おしく思われたのでしょうね」


 ヴィーチェがオロールに告げた。


「オロール、あんたに恩寵(おんちょう)を授けたのは、神々の母であり、美と医術を司り、芸術の保護者でもある『エンセイス』様よ。

 こちらの宗教では『ミュシア』という名で呼ばれているお方だ。踊り子や音楽家には彼女の信者が多いというが、あんたも知っているだろう?」


「はい……。私も、あのお方だと感じておりました」


 頷いたオロールは、無限の尊敬の眼差しをリズベットに向けた。


「人々が夫人様のことを『古代の神秘を伝える者』『神秘の導き手』と呼ぶのは、真実だったのですね」

「とんでもないわ。私はただ、朗読しているだけよ。ヴィーチェがいてくれたからこそ可能だったことなの」


 リズベットがヴィーチェに功績を譲ると、ヴィーチェは意地悪く言い返した。


「そんな風に言うなら、あたしはただ司祭を補助した術者に過ぎないよ」


「そんなこと言わないでください。オロールさんが誤解するじゃありませんか」


「誤解だって? 当たり前のことを言ったまでさ」


 ニヤニヤと笑いながらも、ヴィーチェは一歩も引かなかった。これ以上言っても無駄だと悟ったリズベットは、不服そうに口を閉ざした。


(私をからかってるんでしょう? まさか本気でそう思ってるわけじゃないわよね)


 その時、シャロナが懸念を(はら)んだ表情で口を開いた。


「これは、まさに奇跡の領域ですね。この事実が外部に知れ渡れば、大変な騒動になるでしょう」


 ヴィーチェも同意した。


「そうだろうね。奇跡を求め、渇望(かつぼう)する連中なんて腐るほどいる。リズベットの身分があるから無闇には手出しできないだろうが、それでも用心に越したことはない。


 シャロナ、あんたがリズベットの横で上手く立ち回りな。これは万能の術ではなく、あくまで『損傷以前の状態への復元』であること、そして資格のない者が試みれば厳格な神罰が下り、災厄(さいやく)を招くということを強調しておくんだよ」


「尽力いたします」

 話を聞いていたオロールが言った。


「差し出がましいお願いがございます。もし夫人様がお許しくださるなら、公演当日までこの事実は秘匿(ひとく)していただけないでしょうか。 事前に私が注目を浴びるよりも、公演の場で公開し、劇的な効果を狙う方が、諸々の面で都合が良いかと存じます」


 リズベットも、この問題への対応を公演後まで先送りにできるという点では悪くないと考えた。


「そうね、それが良さそう。でも、それまで仮面をつけて過ごすのは息苦しくありませんか?」


「構いません。今回の公演を最大限に成功させる喜びと甲斐に比べれば、些細(ささい)なことです」


 オロールの顔に、静かな高揚感が浮かんだ。

「今日の儀式で私が経験した神秘を、少しでも舞台で具現できるよう努めてまいります」


 不思議そうにオロールをチラチラと見ていたシャイナが、ヴィーチェに尋ねた。


「こんなに凄いことをヴィーチェの婆ちゃんだけで独占するなんて、ずるいじゃない。私にも教えてよ」


 ヴィーチェは鼻で笑った。

「あんたみたいな小娘がこんな秘術に挑戦するだって? 百年早いわ」


 するとシャイナは顔をしかめて抗議した。

「百年だって!? その前に死んじゃうじゃない!」


 ヴィーチェは意地悪く笑った。

「だから『無理だ』って言ってるのさ」


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