16. 傷跡
オロールは、目の前に広げられた薄く繊細なシルクの生地を、壊れ物を扱うようにそっと撫でていた。
「織物一つに、これほど多くの種類があるなんて。驚きだねぇ」
リズベットの隣に座ったヴィーチェが、感心したように声を漏らした。
「糸の太さや撚り方、織り方、それにその後の加工によって、これほど多彩になるんです。シルクだけでなく、他の布地も同じですよ」
リズベットは誇らしげに説明した。
オロールが感嘆の溜息をつく。
「一つひとつが異なりながらも、どれもあまりに繊細で美しいですわ。どこでも見たことがないようですが……もしや、これらは新作なのですか?」
「ええ。まだ市場に出ていない新製品です。今回のパーティが初披露の場になります」
踊り子たちの公演は、先代伯爵の70歳の誕生日を祝うと同時に、新しいシルク製品をお披露目する展示会としての役割も兼ねていた。リズベットからすれば、まるでファッションショーを企画しているような気分だった。
もともとは「嫌われポイント」を稼ぐために始めた贅沢プロジェクトなのだが、いつの間にかリズベット自身、イベントを企画する楽しさにどっぷりと浸かっていた。
(一石二鳥だと思えばいいわね。楽しまなきゃ損だわ)
「私のイメージは、霧の中の月光のように淡く幻想的なものです。スカートの場合、一番内側にはこの半透明なハボタイシルクを使い、その上に薄くて透明なシルクシフォンを何層もレイヤーにしたらどうかと思うのですが、どうでしょう?」
「霧に包まれた月光……素敵なコンセプトです。これほど美しい布地で衣装を作れば、それだけで幻想的な舞台になるでしょう」
「踊りに関してはオロールさんが専門家ですから、どのようにデザインすればより美しく見えるか、意見をください」
リズベットに頼まれ、オロールの片目――仮面に隠されていない方の目が、優しい弧を描いた。
「……では、差し出がましいようですが、私なりの意見を。
これらの生地の特性を考えますと、スカートの前は少し短く、後ろは長くして、引き裾(トレーン)のようになびかせるとより映えるかと存じます。
袖は肘の下から長く垂れ下がるフェアリースリーブにすれば、踊り子たちが舞う際に、互いが繋がっているかのように見えるでしょう……」
リズベットはオロールの言葉を聞きながら、衣装のスケッチを走らせた。
「こんな感じでしょうか? 修正したいところがあれば言ってくださいね」
スケッチを受け取ったオロールは、驚きと感心の表情を見せながら細部を詰め始めた。
「スカートの前の長さはこれよりももう少し、このあたりまで上げても良いかもしれません。後ろは……」
リズベットとオロールが頭を突き合わせてスケッチを修正する姿を、ヴィーチェは目を細めて見守っていた。そして、おもむろに二人をモデルにして、自分でもスケッチを始めた。
しばらくして、リズベットは満足げな顔でデザイン原案を置いた。
「やはりオロールさんに相談して正解でした。舞台衣装は初めてだったので、正直なところイメージが漠然としていたんです」
「私の方こそ、夫人様がこのような貴重な機会をくださったことに感謝しております。今回の舞台を任せていただけて、本当に幸せですわ」
「オロールさんの踊り、本当に素晴らしかったです。舞台で見られないのが残念なくらい」
リズベットの言葉を聞いて、ヴィーチェがぶっきらぼうに口を開いた。
「仮面をつけて踊ればいいじゃないか。外れるのが心配なら、あたしが絶対に外れない素敵な魔法の仮面を作ってやるよ」
「本当ですか!?」
リズベットは色めき立ち、期待の眼差しを向けた。
しかし、オロールは伏し目がちに慎重に答えた。
「申し訳ございません。舞台から離れて久しいですし、万が一にも私が舞台を台無しにしては申し訳ありませんので……」
もともと振付師として招待したのだし、無理強いはできない。リズベットは名残惜しさを感じながらも、次の議題へと移った。
「衣装のデザインはこれで進めるとして、ヴェールの素材はここにあるもののうち、どれが良いでしょうか?」
オロールはシルクの生地を手に取り、じっくりと吟味した。
「夜間の屋外公演であること、照明の加減、そして振り付けの特性を考慮すると……この二つのうちどちらかを選ぶのが良いかと存じます」
オロールが選んだのは、半透明で高級感のある艶を放つハボタイシルクと、光沢がほとんどなく極限まで透明で空気のように軽いシルクガーゼだった。
「オロールさんが一度踊ってみたらどうだい? そのほうが感覚が掴めるだろう」
ヴィーチェの提案に応じ、オロールはハボタイシルクの端を掴んで大きく腕を振ってみせた。ハボタイシルクは彼女の動きに合わせて、水のように滑らかに流れ、揺らめいた。
次にシルクガーゼを持つと、それは柔らかに風を孕み、空気を纏って浮遊するかのようだった。
「今回の公演には、こちらのほうが適しているようです。風に乗りやすく、空中に留まる時間がずっと長い。
あと、ヴェールの端に、極細の銀糸や魔力を宿した糸で刺繍をあしらってみるのもいいかと思います。そうすれば、ヴェールが宙に舞うたびに月光が弾けるような、まばゆいきらめきを演出できるはずです。
これを重ねて、このようにすれば……」
オロールはシルクガーゼを二重にして両手に握り、ダイナミックに動き始めた。彼女の周囲で柔らかく波打つヴェールは、風に乗っているというより、彼女自身がそよ風を呼び起こしているかのようだった。リズベットだけでなく、ヴィーチェもその舞に引き込まれた。
オロールが大きく跳躍し、シルクのヴェールを空中に放り投げた。ヴェールは空気を孕んで柔らかな曲線を描いて膨らみ、ゆっくりと床へと舞い降りた。
その光景に魂を奪われたように見入っていたリズベットだったが、オロールが苦しげに胸を押さえ、上体を折っている姿を見て驚いて立ち上がった。
「大丈夫ですか!?」
オロールは大丈夫だと言うように懸命に頷いたが、声が出ず、額には脂汗が滲んでいた。
「ヴィーチェ、オロールさんを診てください!」
リズベットの切実な叫びに、オロールはその必要はないと首を振って固辞しようとした。
「いいから。ヴィーチェさんはとても優秀な医者なんです」
「隣の部屋で診てやる。リズベット、あんたはここで待ってな」
ヴィーチェはオロールに肩を貸し、隣室へと連れて行った。しばらくして、オロールは幾分落ち着いた様子で戻ってきた。
「醜態をお見せして申し訳ございません……」
「こちらこそ無理なお願いをしてしまったようで、申し訳ありませんでした」
「いいえ。あまりに美しく素晴らしいヴェールなので、つい自分の体のことを忘れてしまったようです」
首を振るオロールの微笑みには、どこか寂しげな余韻があった。どうしたのか気になったが、ヴィーチェの表情からして、今は聞かない方がいいとリズベットは直感した。
*** ***
打ち合わせを終えてオロールが退出した後、リズベットはヴィーチェに尋ねた。
「オロールさんの容体は、どうなのですか?」
「……良くないね。長くは持たないだろう。あと2年か3年、長くても4、5年といったところだ」
「えっ……?」
リズベットは絶句した。オロールが健康そうには見えなかったが、そこまで悪いとは思っていなかったのだ。
「何か、病気なのですか?」
「火傷の後遺症だ。仮面で隠されている部分の損傷が激しすぎる。当時、受けられる限りの最善の処置を受けたからこそ今まで持っているが、そうでなけりゃもっと早く死んでいたさ。下手をすれば事故の直後にね」
「オロールさん自身は、このことを知っているのですか?」
「察しているようだったね」
リズベットの心は重く沈んだ。オロールのあの静けさは、達観や諦めではなく、生の終わりを準備する者の静寂だったのだろうか。
「それほどお体が悪いのであれば、仕事を休んでもらったほうが……」
「やらせてやりなよ。見てて分かっただろう? あの人は最後まで踊りを手放したくないんだ。
余命が長くないことはリズベットには秘密にしてくれと頼まれたんだが、あたしが勝手に話したことだから、知らないふりをしてやってくれ。
あの体で今日まで生きてこられたのは、踊りがあったからこそだろう。今さら今回の仕事から外せと言ったら、気を落としてかえって悪くなるよ」
しばらく言葉を失っていたリズベットは、ヴィーチェに縋るように聞いた。
「何か、方法はないのですか?」
ヴィーチェは小さく肩をすくめた。
「医学的にはどうしようもない。奇跡でも起きない限りはね。 皮膚の奥まで焼き爛れてるんだ。事故の瞬間にあたしが居合わせたとしても、今と大差ない結果になっていただろうよ」
(現代医学でも、重度の火傷はどうすることもできなかったものね……)
リズベットはいたたまれない気持ちで、オロールが手にしていたヴェールをいじった。
「そもそも、どうしてあんなことになったんだい?」
ヴィーチェが何気なく尋ねた。彼女が他人の事情に興味を示すのは珍しいことだった。リズベットは、自分の知っている話をかいつまんで聞かせた。
「そんな真似をしておいて、何の罰も受けなかったというのかい?」
「劇団も家族も、お金を受け取った代わりに不問に付すことにしたそうです。社交界でのその男の評判は地に落ちたそうですが」
「ふん、よくある話だね。昔も今も、人間がやることは変わらないよ」
ヴィーチェは軽蔑を込めて吐き捨てた。




