13. ガラスの花束
ヴィーチェが作った温室は、リズベットが見たがっていた野草――『妖精の涙』のために用意されたものだった。
満月が明るく輝く夜。温室の中では花々が咲き誇り、内部を銀色に染め上げていた。リズベット、ヴィーチェ、シャイナの3人は、温室の中に置かれたテーブルを囲み、その光景を鑑賞していた。
月光が燦々(さんさん)と降り注ぐガラスの温室。そこには、大小さまざまな岩が元からそこにあったかのように自然に配置され、その隙間に群生する花々は淡い光を放ちながら、幻想的な美しさを振りまいている。
「これを温室で見ることになるとはねぇ」
ヴィーチェが不思議そうに辺りを見回した。
「自分で作っておいて、何を今さら驚いているんですか?」
シャイナがからかうように言った。
「温室なんて高価な施設に野草を植えるなんて、誰が想像する?」
「私がお願いしたわけじゃありませんから」
自分でも後ろめたさを感じていたのか、リズベットは慌てて線を引いた。
「伯爵様は、本当にリズベットのことを愛していらっしゃるのね。これを見たいっていう言葉を聞いて、温室ごと作って移し替えてしまうなんて。スケールが違うわ」
シャイナは頬杖をつき、うっとりとした表情で呟いた。
「愛だなんて、とんでもない。これはただ……」
シャイナの言葉を否定しようとしたリズベットだったが、続く言葉が見つからず口を閉ざした。
「ただ、何?」
シャイナが悪戯っぽく畳みかける。
「ただ……夜に危険な場所へ行かせるわけにはいかないから、その代わりじゃないかしら?」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
「そんなわけないでしょ」
呆れたように言ったシャイナは、ヴィーチェに尋ねた。
「こういう温室を作るのって、すごく高いんですよね?」
「当たり前さ。この厚くて滑らかなガラスが一枚いくらすると思ってるんだ。おまけに、この私が作ったんだからね。
もちろんリズベットへの贈り物だから、代価は受け取っていないけれど」
「ほら見て。こんなものを何の意味もなく作るはずがないわ。伯爵様は浪費癖のある方でもないし。本当にロマンチック。
花畑へ連れて行く代わりに、花畑を丸ごと持ってきてくれたのね。ガラスで作った大きな花束だわ」
シャイナは席を立ち、花々の間へと歩いていった。
「本当に綺麗だけど、一年に数回しか見られないことを考えると、温室が少しもったいない気がするわね」
シャイナの独り言のような言葉に、ヴィーチェが鼻で笑った。
「何言ってるんだい。そのために温室を作ったと思ってるのか? 見たい時にいつでも見られなきゃ意味がないだろう」
「それ、どういう意味ですか?」
「最高の造形術師と熟練の庭師を侮っちゃいけないよ。リズベットが望むなら、いつでもこの花が見られるようにこの温室を作ったんだ」
「そんなことが可能なんですか?」
リズベットもこれには驚いた。
「今、この花たちがただ野原から持ってきただけで咲いてると思ってるのかい? 花が咲く条件に合わせて、魔道具で照明と温度を調節した別の付属施設で育てて、開花の時期に合わせてここへ移したんだ。
こいつらが散れば付属施設へ戻し、また別の個体をここへ持ってくる。もちろん、この温室自体にも魔法装置があって、光や温度、湿度を完璧に管理しているのさ」
ヴィーチェの説明を聞きながら、リズベットは現代の植物園を思い浮かべていた。いつ行っても花が咲いている風景。おそらく、それもこれと同じ原理なのだろう。
「この花は満月の夜に咲くでしょう? 月の光がない時は見られないんじゃありませんか?」
シャイナが尋ねると、ヴィーチェは温室の天井を指差した。
「だから、あれがあるんじゃないか」
シャイナとリズベットが天井を見上げると、ヴィーチェが指をパチンと鳴らした。すると、温室のガラスが一斉に白く濁り、外の世界を遮断した。そして天井に吊るされた丸い球体がゆっくりと回転し、淡い光を放ち始めた。
「嘘……完全に満月じゃない!」
シャイナが目を丸くした。シャイナの言う通り、それは銀白色の光であり、わずかに陰影のある表面まで、満月そのものに見えた。
「あれは私からリズベットへのプレゼントだよ」
それまでその球体を単なる装飾品だと思っていたリズベットは、驚いてヴィーチェを見た。
「この温室を作ってくださっただけでも凄いことなのに、あんなものまで……。勿体なすぎます」
「リズベットのおかげで長年の宿願を果たし、古代の神秘を再現できたんだ。それに比べれば、あんなものは何でもないさ」
ヴィーチェは造作もないことのように笑い飛ばした。
「ありがとうございます。本当に……綺麗です」
感謝の言葉を口にしながらも、リズベットの心は晴れなかった。
(私は去るべき人間なのに……。こんなによくしてもらっていいのだろうか)
「まあ、あれはあくまで代用品だからね。こうして本物の満月が出ている夜には必要ないさ」
ヴィーチェは再び指を鳴らし、人工の月を消して温室のガラスを元の状態に戻した。
腰を屈め、光り輝く花びらをそっと撫でながら、シャイナが尋ねた。
「ところで、ヴィーチェ婆ちゃんは、この花をどこで見たの?」
「何か所かあるね。そうあっちこっちあるもんじゃないけれど、この大陸ではたまに見かけるよ」
「私はこれを『望月の幽霊』だと知ってたけど、リズベットは『妖精の涙』だって言ってたわ。婆さんが知ってる名前は何?」
「私が初めて見た場所でも『妖精の涙』と呼ばれていたよ。この国と北のキレアス王国の国境地帯だった。
リズベットがその名で知っているということは、あちら側でこの花を見たということだろうね。他の場所では『望月の幽霊』だの、『月の乙女』だの、『満月の魔女』だの、いくつかバージョンがあったけれど」
「本当に満月の夜に、妖精とか幽霊が現れるのを見たことはある?」
「ないよ。若い男にしか現れないって言うじゃないか」
「ヴィーチェ婆ちゃんなら、よく男に間違われるんだから、会えるんじゃない?」
不意にヴィーチェが不満げにシャイナを睨みつけると、大股で歩み寄り、シャイナの頬をつねった。
「さっきからババア、ババアと……。ヴィーチェさんと呼べと言っただろう?」
「私たちしかいない時なんだからいいじゃない! 外ではちゃんとヴィーチェさんって呼んでるわよ!」
「その『婆さん』って響きが嫌いなんだよ!」
「おばあちゃんをおばあちゃんって呼んで何が悪いのよ! じゃあ、おじいちゃんって呼べばいいの!?」
ヴィーチェとシャイナが言い争う声を遠くに聞きながら、リズベットは物思いに沈んでいた。
シャイナの言う通り、アルゼンは本当に自分を愛してくれているのだろうか。時折自分に見せる、意外な姿。要求したこともない、このような身に余る贈り物。
アルゼンが言葉で感情を表現しない人であることは、リズベットも今は知っている。そして、嘘で感情を飾るような人ではないことも。
(アルゼンが、本当に私を愛しているのだとしたら……)
もしかすると、自分もそれを心のどこかで望んでいたのではないかという事実に気づく。彼の微笑みが、温かな眼差しと気遣いが、本当に自分に向けられたものであることを。自分だけのものであることを。
しかし、いざそれに気づくと、喜びよりも先に申し訳なさと罪悪感が押し寄せた。自分が望んでこうなったわけではないにせよ、自分はアルゼンやここの人々を欺いている。
そしてそれは、アルゼンにとって致命的な弱点になりかねない。彼自身、貴賤結婚の結果として生まれたという弱みを背負っているのだから。だからこそ、アルゼンのためにも自分は去らなければならない。
アルゼンが自分から冷酷に背を向ける姿も、あるいは自分のためにすべてを投げ打つ姿も、そのどちらも見たくはない。今の自分にできる最善は、アルゼンが傷つかないように、捨てられる側になること。
いっそ、彼が自分の知っていた通りの冷たく冷徹な人であったなら。ただの手段として自分を扱い、利用しようとするだけの人であったなら。そうすれば、何の未練も罪悪感もなく、晴れ晴れとした気持ちで去ることができただろうに。
(アルゼンの人生に、私はいない人間なの。だから、彼を心に留めても、愛してもいけない)
胸が締め付けられた。リズベット自身も意識しないうちに、涙がひとしずく零れ落ちた。
「あれ? リズ……」
ふとリズベットに目を向けたシャイナが驚いて声をかけようとすると、ヴィーチェが慌ててシャイナの口を封じ、耳元で囁いた。
「しっ、そのままにしておやり」
理由も分からず、シャイナも小さな声で聞き返した。
「急にどうしたの?」
ヴィーチェは静かに呟いた。
「愛とは、時に重く苦しいものなんだよ」
シャイナは何のことだろうかと思い、ヴィーチェを見上げた。リズベットを見つめるヴィーチェの顔は、どこか寂しげで悲しそうな色を帯びていた。




