12. 片思い
バルマン伯爵家が予定より少し早くレトナを後にした。フランゼットの体調が急激に悪化したことが理由だった。医者や神官が何人も呼ばれて診察したが、はっきりとした原因は見つからなかった。
「ヴィーチェがいてくれたらよかったのに」
バルマン一家を見送り、研究所に戻ってきたリズベットが独り言のように呟くのを耳にして、シャイナが尋ねた。
「ヴィーチェ婆をどうして?」
「フランゼット様のことよ。急に具合が悪くなったのに、原因も分からないでしょう?」
「ヴィーチェ婆がいたところで、どうにもならなかったと思うわ。恋煩いに効く薬はないって言うじゃない」
リズベットが不思議そうに見つめると、シャイナはストレートに言った。
「フランゼット様が伯爵様に片思いしていたこと、気づかなかったの?」
「フランゼット様が、アルゼンを?」
リズベットの呆然とした反応に、シャイナはくすっと笑った。
「やっぱり気づいてなかったんだ。まあ、他の人たちもみんな気づいてないみたいだったけど」
「そんな風には見えなかったけれど……確かなの?」
リズベットはまだ半信半疑だった。家同士の親交があり、幼い頃から会う機会が多かったことは知っていたが、フランゼットがアルゼンに特別な関心を寄せているとは感じられなかったのだ。
「記憶をよく辿ってみて。伯爵様の話題が出た時の表情とか、雰囲気とか。特に、伯爵様の髪を整えてあげていた日のことよ」
考え込むリズベットを見ながら、シャイナは苦笑混じりに呟いた。
「とにかく、私の目には見えていたわ。似たような痛みを経験したことがあるからかな」
「シャイナも、誰かに片思いしたことがあるの?」
シャイナは少し決まり悪そうに答えた。
「実は、私も子供の頃は伯爵様に憧れていたことがあったのよ」
「シャイナが?」
「真剣なものじゃないわ。ただ一人で少し好きだっただけ。でもある意味、当然じゃない? すぐ近くに、あんなに格好良くて何でもこなすクールな美少年がいたんだもの。
……今は絶対に違うわよ! 12歳の時にヴィーチェ婆にこっぴどく打ち砕かれて、きれいに諦めたんだから」
「ヴィーチェがなんて言ったの?」
「その頃、おじいちゃんに会いにヴィーチェ婆が来ていたんだけど、私が伯爵様を好きなことを知ると、情け容赦なく叩き潰してくれたわ。
私と伯爵様が結ばれない理由が100以上あるって言って、事実を並べて殴りつけてくるんだもの。聞いてるうちに嫌気がさして、綺麗さっぱり諦めたわ」
「100個も並べたの?」
「十数個まで聞いて諦めたから、本当に100個あったのかは知らないけどね」
シャイナは少し言葉を切ってから続けた。
「その中で今でも覚えているのが、『尊重してもらえない場に、自分を置いてはならない』っていう言葉だったわ」
「12歳でその言葉が理解できたの?」
「ちゃんと理解できたわけじゃないけど、なんとなくは分かった気がしたの。その言葉のせいで諦めたわけじゃないんだけど、時間が経ってみると、それが一番記憶に残っていて」
「……じゃ、何が決め手で諦めたの?」
好奇心から尋ねると、シャイナは鼻を鳴らして吐き捨てるように言った。
「外見への指摘よ」
「外見?」
わけが分からず問い返すと、シャイナは自分の頭を指差した。
「身長差がありすぎて見栄えが悪いって。私が伯爵様の隣にいたら、大木に蝉がしがみついているみたいに見えるだろう、なんてね」
ヴィーチェらしい露骨な比喩に、思わず吹き出してしまった。
「あの時はヴィーチェ婆が本当に憎たらしかったけど、今思えば、私が傷つかないようにしてくれたんだと思う。
じいちゃんや両親にも何か言っておいたのか、それ以来、私を内城へ連れてこなくなったし」
「そうだったのね」
シャイナのことを「可愛い生き物」と呼んでいたことを見ても、ヴィーチェが彼女を可愛がっていることに疑いの余地はない。
(……もしかしたら、アルゼンがあの時あんな行動をとったのも、フランゼット様のことを思ってだったのかしら?)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。アルゼンは感情表現が乏しく無愛想だが、決して察しが悪い男ではない。フランゼットの想いを知りながら、あえて気づかない振りをしていたのかもしれない。
彼女が今も自分を想っていることに気づき、断念させるためにあのような振る舞いをしたのではないか。
(その後、あのような行動を一切していないことを見ても、その可能性は高いわよね……)
傷つき、落胆したであろうフランゼットを思うと心が痛んだ。
自分がいなかったとしても、フランゼットとアルゼンが結ばれるのは難しかっただろうことは分かっている。しかし、フランゼットがそれほどまでに切望した男と結ばれた自分が、当の本人である彼のもとを去る準備をしているという皮肉に、リズベットの心は沈んだ。
(私がいなくなったら、アルゼンは彼女と結ばれるのだろうか。それともやはり、ゲームの主人公であるロジアナと……)
そう考えた瞬間、ひやりとした痛みが走った。
これまでは生き残るためにここを離れることと、その後の自分についてだけを考えてきた。アルゼンのことについては、ほとんど考えてこなかった。
自分が消えたとしても、アルゼンの人生は続いていく。クラヴァンテ伯爵家の家主として、ラベンナの領主として、彼の傍らには当然、別の伴侶が座ることになるだろう。
その当然の事実が、今は短剣のように胸を突き刺す。
リズベットの心境など知る由もないシャイナが、冗談めかした警告を発した。
「リズベットも、あんまり油断しちゃダメよ。フランゼット様じゃなくても、伯爵様に想いを寄せる女性は案外多いはずだから」
*** ***
ヴィーチェが戻ってきた。島々を回るために嫌というほど船に乗ったと言い、記念だとして貝殻で作った装飾品をプレゼントしてくれた。
そして数日も経たないうちに、内城で小さな騒ぎがあった。ヴィーチェが屋外で何かを作っているというのだ。
シャイナに手を引かれてリズベットが庭の片隅へ行くと、見物のために集まっていた人々が道を開けた。
「ここで何をしているの?」
リズベットが尋ねると、シャイナは悪戯っぽく笑った。
「見てれば分かるわ」
黒い服を着たヴィーチェが立っていたが、リズベットを見て丁重に一礼した後、背を向けた。彼女の近くでは、ギスカールやソネン子爵、カイフェルト男爵といった魔導士たちが、彼女の補佐をしていた。
少し離れた場所には、荒い土が敷かれ岩が転がる地面があった。庭園にはそぐわない異質な地面の上には、金属のフレームが設置されている。それは、ドーム状の天井を持つ構造物の骨組みだった。
(何をしようとしているの? まさか、あれかしら?)
準備を終えたのか、ヴィーチェが定位置に立った。直後、彼女の足元に光り輝く魔法陣が浮かび上がる。
ヴィーチェの手の動きに合わせ、地面から厚いガラスパネルが舞い上がった。それらは金属フレームに向かって飛んでいき、宙で静止する。ガラスパネルの縁が赤く熱を帯び、次々とフレームの中へと嵌め込まれ、接合されていった。
壁面が完成すると、次は屋根の番だった。平らな厚いガラスパネルが宙に浮いたまま、ひとりでに曲線を描くように曲がり、次々とフレームに嵌まって接合されていく。
そのすべての過程があまりにもスムーズで自然だった。まるでガラスパネルそのものが意志を持ち、空中で群舞を踊っているかのようだった。
「わあ……!」
人々から感嘆の声が上がった。
完成したのは、リズベットが予想した通り「ガラスの温室」だった。陽光を反射して澄んだ輝きを放つ温室は、一つの大きな宝石のように玲瓏としていた。
(造形術で、あんなものまで作り出せるなんて……すごいわ)
感嘆するリズベットに、シャイナが耳打ちした。
「ヴィーチェ婆が人前で造形術を使うなんて、初めて見たわ。注目を浴びるのを嫌って、普段は絶対にあんなことしない人なのに」
ヴィーチェが振り返り、リズベットのもとへ歩み寄った。うやうやしい態度で礼を執ると、彼女は言った。
「ラヴェンナ伯爵夫人であり、神秘の伝承者であらせられる奥様へ。クラヴァンテ伯爵と私ヴィーチェからの贈り物です」
人々の視線が集まる中、リズベットはわけが分からず戸惑っていたが、致し方なく感謝の言葉を口にした。
「ありがとうございます。……本当に嬉しいわ」
ヴィーチェは顔を上げ、にこりと微笑んだ。
「褒美として、奥様とお茶を共にする光栄に預かってもよろしいでしょうか?」
リズベットは呆れたように笑いながら手を差し出した。
「何をおっしゃるんですか、急に。どういうことなのか説明を聞きたいから、今すぐお茶にしましょう」
ヴィーチェはリズベットの手を取り、エスコートするように屋敷へと向かった。




