3. コレット姉弟
ランニングに続き、剣術の稽古を終えたリズベットは、木剣を受け取った護衛騎士のコレットに声をかけた。
「最近ずっと表情が暗いけれど、何かあったの?」
ここ最近、彼女の様子が以前と違うことが気にかかっていたのだ。
普段の快活な彼女らしくなく、めっきりと口数が減り、顔には深い陰が差していた。今日は目の下が少し腫れている。充血具合からして、泣いていたようにも見えた。
「い、いえ。何でもありません」
言葉を濁すコレットの隣で、騎士のバートが代わりに答えた。
「弟さんの具合がひどく悪いそうです。かなり、難しい病だとか……」
両親を早くに亡くし、苦しい家計の中でコレットが幼い弟を養っていることは、リズベットも知っていた。
「まあ。どこが悪いの?」
コレットは今にも泣き出しそうな顔で口を固く結んだ。その様子から尋常ではない事態だと察したリズベットは、そのままコレットを応接室に呼び、詳しく話を聞くことにした。
コレットの弟が患った病は、リズベットにとっては聞き慣れない病名だった。
「いつからか、頻繁に転ぶようになり、身のこなしが少しずつ鈍くなっていきました。その時はただ、不注意なのだと思っていたのです。
ですが……先日からは、まともに歩くことさえできなくなってしまって……」
慌てて医者の診察を受けた結果、病名が判明した。治療は可能な病だが、問題はその費用だった。
巨大で凶暴な熊型の魔獣の胆で作られた特効薬を、かなりの期間、何度も服用しなければならない。総費用を円に換算すれば、二、三千万円にも達する巨額だった。
受け継いだ財産もなく、月々の家賃を払いながら暮らしているコレットにとっては、到底用意する術のない大金である。治療をしなければ手足が徐々に固まり、最後には死に至ると聞いたリズベットは、考えに耽った。
(確かに大金だわ。けれど、私にできることなら、するのが正しいんじゃないかしら? 現に私自身、生き残るためにこうして必死に足掻いているのだもの)
心を決めたリズベットは、コレットに告げた。
「明日、医者を向かわせるわ。治療を始めましょう」
コレットがガバッと顔を上げた。驚きで固まっていたのも束の間、大きく見開かれた両目から涙が溢れ出した。
「奥様……」
コレットはその場に片膝をつき、震える声で厳かに誓った。
「奥様のご恩、決して忘れません。この瞬間から、私、コレット・クナハンの忠義と命は奥様のものです。何なりとお申し付けください」
「そんな、そこまでしなくても……」
リズベットは引き止めたが、コレットは立ち上がろうとしなかった。仕方なく、リズベットは彼女の誓いを受け入れることにした。
「わかったわ。あなたの忠義、ありがたく受け取るわね」
ようやくコレットは涙を拭って立ち上がった。
「今日は早く帰って、弟さんに美味しいものでも食べさせてあげて。明日からの治療に備えるのよ」
リズベットはジルマに命じて栄養のつく料理を包ませるようにし、コレットを送り出した。
*** ***
廊下を歩いている間中、涙が止まらなかった。涙を拭いながら出てきたコレットを見て、バートが恐る恐る尋ねた。
「奥様は何と?」
「奥様が……助けてくださると仰ったの。明日、すぐに医者を遣わしてくださるって」
「本当か!」
バートは驚きのあまり呆然と口を開けていたが、すぐに笑みを浮かべてコレットの肩を叩いた。
「よかったな、本当によかった」
「ありがとう、バート」
「俺が何をしたって言うんだ。ただ、休暇くらい貰えたらいいなと思って、お話ししてみただけだよ」
「その心遣いが嬉しいの。今日は早く帰って準備をしろと言ってくださったから、お先に失礼するわね。また明日」
「ああ、早く行ってやれ」
バートに挨拶をして内城を出たコレットは、家に向かって走り出した。胸がいっぱいで、とても歩いてなどいられなかった。
弟のノイドを産んで母が亡くなった後、父は再婚した。継母は情の厚いタイプではなかったが、それほど悪くもなかった。
父が落馬事故で亡くなった時、コレットは遠方で騎士修行をしていた。その時までは、ノイドのことはあまり心配していなかった。自分が騎士になって生活の基盤を整えれば、ノイドを呼び寄せるつもりで修行に専念した。
ようやく騎士に叙任され、家に戻った日の光景は、今でもコレットの脳裏に火傷の跡のように鮮明に残っている。
村の入り口で、裸足にボロボロの服を着た、痩せこけたみ窄らしい子が、ふらつきながら重い薪を背負っている姿を見た時、最初はそれがノイドだとは分からなかった。
その間に男を作っていた継母は、ノイドを実子と差別し、満足な食事も与えず、奴隷のようにこき使っていたのだ。ノイドには「姉さんはお前を捨てた」と嘘を吹き込み、絶望の中に閉じ込めていた。
ノイドを抱きしめて散々泣いた後、コレットはすぐさま二人のもとへ向かい報復した。しかし、そのせいで逆に逮捕されてしまった。継母の情夫が、領主の部下だったからだ。 村人たちが積極的に嘆願してくれたおかげで、ノイドを連れて村を去ることを条件にようやく赦免されたが、父が残した財産はすべて継母に奪われた。
けれど、構わなかった。ノイドの手を引いて村を出たあの日、ノイドが見せた明るい笑顔が、コレットの生きる目標になったのだ。
ノイドの病名を知った後、プライドなど投げ捨てて継母を訪ね、哀願してみたが、無慈悲に追い返された。その場で女を殺して自分も死のうかとも考えた。
しかし、病のノイドの世話をする者がいなくなるという事実が、彼女を思い止まらせた。死にゆくノイドを最期まで看取ること。それが、彼女に残された使命だった。
それが今、再びノイドのあの笑顔を守れることになったのだ。
古びた賃貸住宅の二階へ一気に駆け上がったコレットが、音を立ててドアを開けると、ノイドはテーブルに座って本を書き写し、勉強をしていた。
「あ、姉さん。どうしてもう帰ってきたの?」
ノイドがテーブルを支えに立ち上がった。指先まで固まり始めているのを、少しでも遅らせようとする努力だった。
「ノイド、明日お医者様が来てくださるわ。これから治療を受ければ、また歩けるようになるわよ!」
コレットが喜びのあまり叫ぶと、ノイドの顔にパッと血色が戻った。
「本当?」
しかし、すぐにノイドの顔に陰が差した。
「もしかして……僕のために、悪いことに加担したりしてないよね?」
「何を言ってるの?」
「だって、どこから急にそんな大金が出てくるのさ」
幼い頃の苦労のせいか、13歳という年齢にそぐわないほど早熟になってしまったノイドだった。
「姉さんが僕のためにどれほど尽くしてくれているか知ってる。でも、僕のせいで姉さんが悪いことに巻き込まれたり、しちゃいけないことに手を染めたりするのは嫌だ。
もしそうなら、僕は自分を許せなくなる。だから……」
コレットはノイドを力いっぱい抱きしめた。
「そんなんじゃないから心配しないで。伯爵夫人が助けてくださるとおっしゃったの」
「伯爵夫人が?」
「ええ。外出にお供するたびに、キャンディやお菓子をくださったでしょう?」
「あんなに大金なのに、何か条件があるんじゃないの?」
「そんなものないわ。何の条件もなく、ただ助けてくださるのよ」
「そんな人、本当にいるの?」
「いるわ。そういうお方が」
コレットはノイドの髪を優しく撫でながら言った。
「奥様から受けたご恩は、お仕えしながら一生かけて返していくわ。だから、あなたは何も心配しないで、治療を受けて治ることだけを考えて」
それでもノイドの表情が晴れないのを見て、コレットは力を込めて言った。
「これは私にとっても素晴らしいことなの。騎士になると決めた時から、命を懸けて自分を捧げられる大義に加わることが私の夢だった。
騎士として、私の忠義と献身を喜んで捧げられる、そんなお方に出会えたのよ。だから、あなたも祝って」
コレットの瞳は、固い決意を宿して輝いていた。ノイドの顔が、ようやく明るくなった。
「僕も奥様にお会いして、お礼を言わなくちゃ」
「今は体が不自由だから、治療を受けて良くなったら、その時にお会いしに行きましょう」
その時、誰かがドアをノックした。開けてみると、見知らぬ若い女性が立っていた。
「伯爵夫人の使いで参りました」
彼女の後ろから、何人もの人々がシチューの入った大きな鍋やパンの籠、果物、焼き肉などを運び込んできた。女性がコレットとノイドに挨拶した。
「シモンと申します。明日から日中の間、こちらでお手伝いをさせていただくことになりました。必要なことがあれば、遠慮なく仰ってくださいね」
コレットとノイドは呆気に取られて、お互いの顔を見合わせた。本当に治療を受けられるという、実感が湧いてきた。
しばらくして、ノイドが震える声で誓った。
「僕、一生懸命勉強して、立派な文官になるよ。そうして、いつか必ず伯爵夫人のご恩に報いられるような……そんな人間になりたいんだ」
コレットはそんな弟の手を、ぎゅっと握りしめた。二人で村を去った、あの日のように。




