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41. 蝶

 アルゼンの執務室に入ったヴィーチェは、彼が窓辺に立ち、じっと下を見下ろしている姿を目にした。


「何をそんなに眺めているんだい?」

 ヴィーチェが隣に寄って視線を落とすと、そこには護衛騎士のコレットと共に、庭を走っているリズベットの姿があった。リズベット本人は必死に走っているつもりなのだろうが、隣のコレットは彼女の速度に合わせ、散歩でもするかのように軽く足を動かしているだけだった。


「ひらひらして、まるで紙人形みたいだね」

 ヴィーチェがクスクスと喉を鳴らして笑った。


「名実ともに伯爵夫人なのですから、紙人形とはあんまりです。せめて、蝶くらいにはしていただきたいですね」

「地面にへばりついて飛ぶ蝶なんて、どこにいるんだい?」


 笑いながら軽口を返したヴィーチェは、リズベットの様子を見守った。走るのを終えた彼女は、少し休むかと思いきや、次に木剣を手に取った。


「あっちの方は、とんと素質がないって言ってるのに、(あきら)めないねぇ」

 ヴィーチェの独り言に、アルゼンが答えるように言った。

「健康のためには良いことではありませんか」


「まあ、それはそうだけど。皮肉だと思わないかい? 神の言語を操り、至高の神秘にまで手を伸ばした知性が、あんなにひ弱な肉体に宿っているなんてさ」


 その言葉を聞いたアルゼンの表情が、わずかに硬くなった。木剣を振り回すリズベットの姿は、たどたどしくて愛らしくもあるが、どこか(あや)うげにも見えた。

「……かなり、弱い方なのですか?」


 ヴィーチェはアルゼンをちらりと盗み見ると、鼻で笑った。

「すぐに死ぬとか、そういうレベルじゃないよ。基礎体力や身体能力の話さ。持病があるわけでもないし、本人も自覚して運動してるんだから、管理さえしっかりしていれば問題はないはずだ」


 そう言うと、ヴィーチェはアルゼンの方へ顔を向け、少し意地悪く尋ねた。

「そんなことを心配する人間が、以前リズベットが倒れた時は、なぜ怒って避けたりしたんだい?」


 アルゼンは答えることができなかった。


「もう、あの頃の子供じゃないだろう? リズベットがあんたを最も必要とするのは、彼女が一番脆(もろ)くなった瞬間、一番辛くて苦しんでいる瞬間なんだ。

 トリシが苦しんでいた時、ギセンがどうしたか思い出してごらん。ギセンは自分のすべてを懸けて、全力でトリシを守り抜いた」


 アルゼンは黙ってヴィーチェの言葉を聞いていた。


 再びリズベットに視線を戻したヴィーチェの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

「そうしなければ、あんたの美しい蝶を誰かに(かす)め取られてしまうかもしれないよ」


「……どういう意味ですか?」


 ヴィーチェはリズベットを見つめたまま答えた。

「言葉通りの意味さ。リズベットは、ようやく(まゆ)から出てきたばかりの光り輝く蝶だ。これからますます人々の注目を集めることになるだろう。

 彼女を手に入れたいと願う者だけでなく、嫉妬し、(おとしい)れ、壊そうとする者たちも現れる。世にその存在を(あら)わにする者が背負う、宿命のようなものだ」


 考えに(ふけ)るアルゼンに対し、ヴィーチェは話題を変えた。

「ところで、私を呼んだ理由は何だい?」


 アルゼンは窓辺から離れ、会議用の大きなテーブルへと向かった。テーブルの上には、レトナ周辺の海図が広げられていた。

「以前、ヴィーチェ様は海の深い場所にある水を()み上げ、飲料水にする技術があるとおっしゃっていましたね?」


「ああ、あれかい? リズベットはそれを『海洋深層水』と呼んでいたね。精製水は製造用には最適だけど、人間の体に良い成分まで取り除かれた状態なんだってさ。

 原理は精製水と似ているけど、装置は別物だ。まず塩分を抜いて、そこに元々含まれていた良質な成分を再び配合するんだとか。飲む水としてだけでなく、化粧品の製造にもさらに適しているらしい。 ただし、専用の精製装置だけじゃなく、深海から水を汲み上げる装置まで設置しなきゃならない。

 ……で、それをなぜ聞くんだい? 作ってみるつもりか?」


 アルゼンは海図の一点を指差しながら言った。

「この付近の島々の中で適した場所があれば、一度作ってみようかと思いまして」


「レトナじゃなくて島に作るって? それなら()(どう)()も一緒に建設しなきゃならないよ」

「もちろん、魔導炉を含めての計画です」


「ふーん……」

 ヴィーチェは腕を組み、海図を(のぞ)き込んだ。


「本気かい? いくら水商売で大儲けしているからって、短期間に投資が大きすぎやしないかい?」

「水に薬、それにシルクの商売まで加わりましたから、問題ありません」


 冗談めかして言ったアルゼンが、付け加えた。

「精製水の需要は、予想を(はる)かに上回っています。レトナ城全体を貯水(ちょすい)タンクで埋め尽くすわけにもいきませんから、飲料水の生産ラインは分散させるのが得策だという意見が出ました。

 ヴィーチェ様のお話通りなら、化粧品などの他の製品もそちらで生産できるでしょうし」


「果敢というか、猪突(ちょとつ)猛進(もうしん)というか……決断の早い一族だね。私に先に話した理由は何だい?」

「それらの島の中で、最適な場所があるか見てきていただきたいのです」


 ヴィーチェは体を後ろに反らし、目を細めた。

「まさか、私に命令しているわけじゃないよね?」


「まさか」

 アルゼンは礼儀正しい笑みを浮かべた。

「ヴィーチェ様なら興味をお持ちになるかと思っただけです」


「ちぇっ、こういう時は(たぬき)親父(おやじ)みたいだね。……まあ、間違った話じゃないから、一度見てきてあげるよ。

 清潔(せいけつ)で良い船を用意しておいてね。船から木が腐ったような臭いでもしたら、船ごと吹き飛ばしてやるからさ。

  用件が済んだなら、もう行くよ」


 ドアへ向かって背を向けたヴィーチェに、アルゼンが声をかけた。

「忠告、感謝します。肝に銘じておきます」


「そうしてくれれば、何よりだ」

 アルゼンに手を振り、執務室を出たヴィーチェは、廊下(ろうか)を歩きながら小さくぼやいた。

「私ったら、なんてお節介(せっかい)なんだろう。ライバルを助けるなんてさ」


 ふと、リズベットを見つめていたアルゼンの姿を思い出し、ヴィーチェは静かに呟いた。

「蝶、か。……けれど、どうしてあんたの蝶は、あんなにも切実に飛ぶ練習をしているんだろうね?」


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