32. 嫌われる勇気
外回りの公務を終え、4日ぶりに戻ってきたアルゼンは、夕食の席でリズベットと向かい合うと、少し間を置いてから口を開いた。
「……体調は、もう良くなったようだな」
「皆様がよくしてくださったおかげで、すっかり良くなりました」
アルゼンはどこか決まり悪そうに、小さな箱を差し出した。
「半年後、レトナ城で大きな夜会が開かれる予定だ。その時に着けるといい」
箱の中には、大粒の真珠のネックレスが収められていた。淡いピンク色の優雅な光沢を放つ真珠は、シンプルながらも圧倒的な気品を漂わせている。
(こんなに大粒の真珠がこれだけの数……。とんでもなく高価なはずだわ)
贈り物として手放しに喜ぶには、あまりにも値の張る代物だった。
(これは良心の呵責で、逃げる時に持っていくわけにはいかないわね……)
そんなことを考えながら、リズベットは感謝の言葉を述べた。
「ありがとうございます。……ところで、どのような夜会なのですか?」
「祖父上の70歳の古稀を祝うと同時に、我々の結婚一周年を記念して、クラヴァンテ伯爵家の新しい女主人を正式にお披露目する場だ。ラベンナ周辺の貴族や家臣団が集まるから、かなりの規模になるだろう。
君もその日の主役なのだから、宝石でもドレスでも、必要なものはすべて整えておくように。費用のことは気にするな」
「半年後のことを、もう準備するのですか?」
「レトナ城での大規模な夜会は久々だから、準備すべきことが多いのだ。
パーティーの設営は執事長と侍女長に任せればいい。君は自分のことだけを考えていればいいから」
「……わかりました」
言われてみれば、ここへ来てから初めて出席する夜会だった。
(半年後、か。その時まで、私はここにいるかしら?
あと、準備といっても、他に何をすればいいの? ドレスの新調? 宝石はこれをいただいたし、伯爵家に伝わるものもたくさんあるから十分だけど……)
ふと、ここ数日ずっと練り続けていた「離縁されるための作戦」が頭をよぎった。
数多くの判例を読み込み、導き出した結論。
貴族の女性が離縁される理由の第一位は、やはり「不貞」だった。女性側の地位が圧倒的に高いか、家門同士の利害関係が複雑に絡み合っていない限り、男が最も許せないのは不貞である……というのは、この世界でも共通のようだ。
だが、リズベットはその選択肢を早々に除外していた。
クラヴァンテ伯爵家は、海と陸の両方で他国と国境を接する要衝であり、海軍と陸軍の両方を保有する武門の家柄だ。目の前のアルゼン自身を見ても、言葉より先に武力で解決しそうな迫力がある。
他の男性を手段として利用する非道徳さも問題だが、いくら離縁が切実だからといって、アルゼンを本気で怒らせるのはリスクが大きすぎた。
(私自身の身も危ないけれど、相手の男性は百パーセント殺されるわね。やっぱり、別の方法で攻めるべきだわ……)
不貞の次に挙げられる離縁事由は、過度な贅沢、夜の営みの拒否、そして凶暴な性格で著しく外聞を損ねた場合などだった。
(営みの拒否はもう手遅れだし、凶暴な性格なんて、私が演じたところでライオンの前で吠える子犬にもなれないわ。
……となると、やっぱり答えは『浪費』かしら?)
リズベットはアルゼンに悟られないよう、盗み見るように彼を観察した。
今までの振る舞いを見る限り、少なくとも器の小さい男ではない。家門への責任感が人一倍強い人なのだから、一度や二度目を付けられたくらいで簡単に離縁を口にすることもないだろう。ならば……。
(今のうちから、少しずつ仕込んでいかないとね。嫌われポイントを地道に稼いでいって、半年後の夜会を頂点に爆発させるの。
今、私に必要なのは――『嫌われる勇気』よ!)
そして、もう一つ。外の世界へ出た時に自分を助けてくれる協力者が必要だ。できれば武力の面で頼りになる人物が望ましい。
現時点での唯一の候補はヴィーチェだが、彼女だけは避けたい。あまりにも予測不能な人物である上に、決定的な問題は『美の錬金術』だ。
あの本の中にヴィーチェの求める答えがあるのなら、ヴィーチェはリズベットだけでなく、本まで持っていこうとするだろう。そうなれば、クラヴァンテ伯爵家が総力を挙げて自分たちを追ってくるのは目に見えている。
(やっぱりヴィーチェさんはダメ。シャイナなら元冒険者だし、顔も広いはず。
シャイナを通じて信頼できる人を紹介してもらうのがベストかもしれないわね)
そんな考えに没頭しているリズベットを見て、アルゼンが声をかけた。
「さっきから何をそんなに考え込んでいる?」
「いえ、何でもありません。とりとめもないことを考えていただけです」
リズベットはぎこちない笑みで誤魔化した。
*** ***
夕食後、執務室へ向かったアルゼンは、書類には目もくれず物思いに耽っていた。そして傍らにいるテイトンに尋ねた。
「お前の目から見て、リズベットは贈り物を気に入ってくれたと思うか?」
「おそらく、そうではないでしょうか」
テイトンの答えには、あまり確信がこもっていなかった。
「……女性の機嫌を直すには真珠のネックレスに限ると言ったのは、お前だろう?」
アルゼンが不信の眼差しを向けると、テイトンは言い訳するように付け加えた。
「古今東西、宝石を嫌う女性はおりません。それは男性もほぼ同じこと。一般論ですよ」
「それは一般論だ。リズベットは少し違う気がする」
「一般的な女性とは多少異なるかもしれませんが、美しいものに興味がないわけではないでしょう。
現に、お化粧や髪の手入れをご自身でなさり、自らを美しく整えておられる。化粧品やヘアケア製品まで作り出されたではありませんか」
テイトンの言葉を聞き、アルゼンはリズベットの姿を思い浮かべた。
実際、リズベットが自らメイクや髪のセットをするようになってから、最初に出会った時よりもさらに魅力的な雰囲気をまとうようになっている。それだけでなく、彼女は伯爵家に伝わる宝飾品を、衣装やその場の空気に合わせて見事に使いこなしていた。
「美しいものを愛するが、欲は出さない……ということか」
そう独り言を漏らしたアルゼンは、侍従に命じた。
「今夜、リズベットの部屋に良い酒と、彼女の好みの夜食を用意させろ」
「承知いたしました」
侍従が退出した後、テイトンが尋ねた。
「お酒を飲まれるのですか?」
「ああ」
アルゼンの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「酔いが回ると、あいつはとびきり可愛くなるんだ」




